小曽根真を「まー坊兄ちゃん」と呼んで育ち、夜警をしながらバイオリニストになった男の夢とは

自宅スタジオで演奏する太田圭亮さん(筆者撮影)

 7月中旬、福岡市。行きつけの「黒猫屋珈琲店」(中央区大名)でカウンターに座ると、隣の男性がマスターと話をしている。

 「……で、これからは動画をやれないといけないと思うんです」

 「コロナで自宅にずっといると妄想が膨らんで……」

 「やっぱり動画の時代ですよね~」と話に割って入ると、男性は思いのたけをぶちまけるかのように話し始めた。

 飄々とした風情のこの人、バイオリニストの太田圭亮さん(50)。その人生は一風変わっていて興味深いのだが、それは後述するとしよう。

 太田さんは、イタリア人奏者と弦楽四重奏団を組み、今年4月には福岡市で、6月にはナポリで公演する予定だったが、コロナの影響で中止になった。その後も公演は次々になくなり、ひたすら“巣ごもり”の日々が続いた。

 自宅の敷地内に建てたスタジオで開いているバイオリン教室も、20人近い生徒のうち半数近くを占める子どもたちは、レッスンを休みにせざるを得なかった。

太田さんが演奏するはずだったコンサートのチラシ(太田さん提供)
太田さんが演奏するはずだったコンサートのチラシ(太田さん提供)

お世話になったサロンがなくなったら大変だ

 鬱々としながらも、音楽仲間と連絡を取り合ううちに「そう言えばサロンはどうなっているんだろう」と思うようになった。

 「サロン」というのは、太田さんたちがプロを目指していた若い頃から出演させてくれたカフェやレストランなどのことだ。

 福岡市経済観光文化局コンテンツ振興課の調べでは、生演奏を提供しているこうした場所は市内に約100カ所ある。ジャンルもクラシック、ジャズ、ポピュラーなど店によって特徴があり、幅広い。

 演奏家にとって聴衆との距離が近いこうしたサロンは、実力を磨くためには不可欠で、収入源としても貴重な存在だ。

 「コロナが収束しても、サロンがなくなっていたら大変だ」

 そう考えた太田さんは、サロンを紹介する動画の制作を思いついた。日頃お世話になっている演奏家たちが、少人数ずつサロンで演奏し、その動画をつなぐ。

 いわば「リレー演奏動画」。加えて市内のサロンが一覧できるサイトも作り、サロン同士のネットワークも広げようという企画だ。

 名付けて「福岡・こんなとこあるよプロジェクト」。

 仲間たちに声を掛けると、賛同者は続々と集まり、太田さんを含めて26人になった。馴染みのサロンに相談すると、13カ所が協力を申し出た。「密」を避けるため2、3人ずつで演奏し、1曲の動画に編集するという。

福岡市内のサロンでリレー演奏する動画の撮影風景(筆者撮影)
福岡市内のサロンでリレー演奏する動画の撮影風景(筆者撮影)

 福岡市はコロナ禍での文化・エンターテインメント活動への支援策として(1)無観客での映像配信に関する機材などの経費(2)プロのアーティストが出演する動画作品を配信する場合の経費――について、それぞれ50万円を上限に支給している。太田さんたちは、こうした支援策を利用して活動を進めている。

 太田さんたちの活動の詳細は、西日本新聞記事を参照。

暮らした豪邸の主は小曽根真さんの祖父

 さて、ここからは、太田さんの生い立ちについて話を進めよう。

 出身は神戸市須磨区。明治から大正にかけて華族や財界人の別荘地として開発が進み、豪邸が立ち並んでいた地域だ。太田さんが育った家も、敷地内に池が2つあり、高級外車があった。

 豪邸の主は、今や日本を代表するピアニスト小曽根真さん(59)の祖父。小曽根家と親しかった太田さんの母が、家事の手伝いを請われたため、サラリーマンの夫、長女、長男の太田さんの一家4人で住み込んでいたのだという。そんなわけで太田さんは幼い頃から、時々遊びに来る小曽根さんを「まー坊兄ちゃん」と呼んで慕っていた。

 バイオリンを始めたのは2歳の時。3歳上の姉が習っていたので興味を持ったのがきっかけだったが、すっかりとりこに。しかし、練習のしすぎがたたり、小学校高学年で肩を壊してしまう。

 中学時代、太田さんは豪邸の主に送られてきたレコードを目にする。タイトルは「OZONE」。米国ボストンのバークリー音楽学院に留学していた小曽根さんが世界デビューを果たしたアルバムだった。

 「こっそり聴いたんですが、全身が震えたのを覚えています」

夜の中学校ならバイオリンが弾ける

 音楽への情熱を駆り立てられた太田さんは、高校からバイオリンを再開。福岡市の九州芸工大(現在の九州大学)音響設計学科に進学してからも独学で続けた。

 卒業しても就職はせず、福岡市内の中学校で夜警のアルバイトを3年間続けた。

 「夜の中学校ならバイオリンが弾き放題だったから」

 その後は印刷会社の輪転機を回す日雇い仕事を3年半。その傍ら、地元交響楽団のオーディションを受けたりエキストラとして参加したり、バイオリン講師をしたりしながら、一歩ずつプロとしての地歩を固めていった。街のサロンで演奏を始めたのもこの頃だった。

 「いつやめてもよかった。でも、自分に負けないでいることはできるかもしれないと思ってしまったんですよ」

 

ナポリでの太田さんのリサイタルを紹介するイタリアの新聞(2019年6月19日、太田さん提供)
ナポリでの太田さんのリサイタルを紹介するイタリアの新聞(2019年6月19日、太田さん提供)

「あったらやるリスト」を作っている

 次の転機は40歳になった時。共演したソプラノ歌手から「本場で学び直したら」と助言され、イタリアに7年間通った。年に10日ずつ2~3回。「本当に基礎練習ばかり」だったが、それが今へと続く土台になった。

 音楽学校を出ていない太田さんには、しがらみがない。その分、今回のような企画を呼びかけやすい立場だという。

 「福岡にはいいプレーヤーが大勢いる。そのつなぎ役になって、コロナ後の音楽の在り方を探っていきたい」

 太田さんは今、リレー演奏動画に出演したメンバーによるコンサートを企画している。いずれは、福岡でクラシックのフェスティバルを開きたいという。

 「金が無いからとか、時間が無いからとか、できない理由はいろいろあるでしょう。だから僕は『あったらやるリスト』を作ってるんです」

 クラシックフェスは、そのリストに入っている。

 追伸:この記事を読んだ小曽根さんは、太田さんに「読んでて目頭が熱くなりました。どれだけお母様にお世話になったか、感謝の気持ちでいっぱいになりました」とメッセージを寄せたという。

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