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ウクライナ東部で高まる緊張、ロシアの次なる戦術とは?~ウクライナ東部独立承認

亀山陽司元外交官
(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

2月18日、緊張高まるウクライナ東部のドンバスの自称「ドネツク人民共和国」及び「ルガンスク人民共和国」(以下、「両共和国」)から、一般住民のロシアへの退避が始まった。ウクライナ軍が「共和国」領域に総攻撃をしかける見込みであるためであるという。確かに、ミンスク合意に基づく停戦をモニタリングしているOSCEの停戦監視ミッションによれば、16日夜以降、ミンスク合意違反となる砲撃の数が数倍に急増している。

これを受けて、19日には、「ドネツク人民共和国」トップのプシリンが、予備役を含む兵の徴集を宣言した。「武器を持つことができるすべての男性に呼びかける。自らの家族、子供、女性、母親を守るために立ち上がれ。我々は、ドンバスと全てのロシア住民を守る。」と呼びかけたのだ。また、ロシア側もこれに呼応するかのように、ベラルーシでの合同軍事演習に参加していたロシア軍の撤兵が延期された。一体紛争地帯にこれから何が起こるのだろうか。

「ロシア軍事侵攻を回避するための最優先事項とは?」では、ミンスク合意というウクライナ東部紛争の停戦に関する合意の履行が、緊張緩和の最優先事項だということを述べた。しかし、ミンスク合意の履行は、この7年間余り、ロシアとウクライナの立場の相違で全く進展していない。また、NATO東方拡大の阻止というロシアの要求は、アメリカにもNATOにも拒否されており、事態は膠着状態に陥っている。

そのような中、停戦違反の砲撃・射撃が急増し、ドンバスの一部地域を支配する「両共和国」から、隣接するロシアのロストフ州に向けて、一般住民、特に女性や子供の緊急避難が始まったのである。この避難行動は当然ロシア側と調整されたものである。プーチン大統領は直ちに非常事態省にドンバスからの避難民の受け入れ準備を指示した。食料や医療、さらに一人当たり1万ルーブル(約1万5千円)の一時金を供与するという。

果たして、ウクライナ軍による総攻撃はあるのか。それともロシア側による情報工作に過ぎないのか。単なる情報工作にしては大規模すぎる気もするが、次なる戦術の布石だと考えることもできる。どういうことだろうか。

失地回復を実現したいウクライナ政府軍

まずは、紛争地域の現状を見てみよう。「両共和国」の支配地域はウクライナ南東部にあり、ロシアとの国境に接している。隣接するロシアの地域はすでに述べたようにロストフという地域だ。小説「静かなるドン」で有名なドン川が黒海北東部のアゾフ海に流れ込んでいる河口域である。「両共和国」の支配領域はその名のとおり、ウクライナのドネツク州とルガンスク(ルハンスク)州の一部に過ぎないが、その州都であるドネツクとルガンスクは分離派勢力側が支配している。停戦ラインは、「両共和国」の境界にそって設定されているが、ウクライナ軍と「両共和国」軍が停戦ラインでにらみ合っている。

ではどちらが優位に立っているのだろうか。ロシア領域にとどまる10万人規模のロシア軍を無視して、あくまでも停戦ライン付近に限れば、優勢なのはウクライナ軍だろう。分離派勢力にはロシアから軍事的援助があるが、一方のウクライナ軍もアメリカからの軍事援助もあり急速に増強しており、すでに欧州ではロシアに次ぐ第2位の軍事力を保有するに至っている。現在の状況で分離派勢力側が単独で停戦ラインを押し広げる能力はない。

事実はむしろ逆であろう。2014年当時と比較して大幅に強化されたウクライナ軍は、停戦ラインを押し戻し、失地回復を実現したいのが本音だ。しかしながら、軍事的解決はミンスク合意違反であるし、そのような攻勢に出れば後ろに控えるロシア軍の大規模介入を呼び込むことになる。その場合にNATO加盟国でないウクライナの防衛のためにNATO軍が軍を派遣してくれる見込みはない。

昨年末以来、ロシアが大規模な部隊をウクライナ国境に集結させ、軍事演習を繰り返しているのは、停戦ラインで優勢にあるウクライナ軍に対する牽制に他ならない。つまり、ウクライナに侵攻して欧州の安全保障をがたつかせたいなどという思惑を持って動いているのではないということだ。もっと局地的な軍事行動と見るべきだ。もちろんこれは、ウクライナに大規模な援助を行い、ウクライナ軍にテコ入れするアメリカに対する牽制でもある。ロシアから見れば、地域の緊張を高めているのはウクライナ軍を強化し続けるアメリカに他ならない。その意味では、米英と異なり、兵器ではなくヘルメットを供与したドイツの選択は、緊張緩和の観点からは適切な判断と言うべきだろう。

ふたつのシナリオ

今回のドンバスの紛争の激化に関し、ここで二つの可能性が考えられる。一つは、米国の主張のように、ロシアが偽情報を流し、ウクライナ軍によるドンバスへの軍事侵攻を既成事実化し、これに対しロシア軍が介入するという場合。この場合、ロシアによるウクライナ侵攻と見なされ、欧米からの強力な制裁が発動されることになる。ロシアにとってのメリットはない。

もう一つは、実際にウクライナ軍が攻勢を強めているという場合である。停戦ラインで軍事行動があった場合、大きな被害を受けるのは停戦ラインのすぐ内側にドネツクやルガンスクといった都市部を抱えている分離派勢力側の地域の住民となるだろう。客観的に見れば、武装勢力はロシア軍が本格的に介入しない限りウクライナ側に攻勢をかける余裕はなく、現状維持が精いっぱいだというべきだ。

ウクライナはドンバスとクリミアの失地回復を政権の公約としている。また、ミンスク合意の政治条項、つまりドンバスへの自治権拡大に否定的である。これらの事実は、少なくともウクライナ政府側には攻勢に出る動機があることを示している。その場合には、ロシアは劣勢な分離派勢力側への加担を強めるしかなくなり、場合によっては国境付近の軍をウクライナ国境の内側に進めざるを得なくなるだろう。この場合にも、やはりロシアによるウクライナへの軍事侵攻が発生することになり、欧米からの強力な制裁を受けることになる。

ロシアの次なる戦術

そこで、ドンバス地域の分離独立を承認するという政治判断の可能性が高まるわけだ。ドンバス地域の独立を承認すれば、ロシアはウクライナへの侵攻ではなく、新たに生まれた独立国との「国際約束」に従って、その国(つまりドンバス地域)への軍の駐留を行うのだと主張することができるのである(このシナリオについては拙稿「世界が大騒ぎ『ロシアのウクライナ侵攻』その理由」でも論じた)。ドンバスでの緊張の高まりは、こうした戦術への布石になるかもしれないのだ。

2月15日、ロシア議会は、「両共和国」の独立を承認するようプーチン大統領に求める決議を賛成多数で承認するという動きに出た。ロシアは、2015年にクリミアを「併合」したが、ドンバス地域の併合や独立についての議論には距離を取っていた。ドンバス地域の独立を承認するということは、ロシアがミンスク合意を放棄することを意味するからである。

この同じ日、独露首脳会談が行われていた。ショルツ独首相はこの決議について会談後の記者会見で、「政治的な大惨事になるだろう」とロシア側を牽制している。一方のプーチン大統領も、「ドンバスの問題の解決は、第一にミンスク合意に基づいて行わなければならない。」と述べ、ミンスク合意の履行を優先する立場を示している。

このロシア議会の決議は単なる政治的な決議に過ぎず、法的拘束力はないが、上述のとおり、「両共和国」の独立承認という選択肢をロシア側が持っているということを内外に示す大きな意味がある。

「凍結された紛争」

「両共和国」が独立するというシナリオは、紛争の固定化、いわゆる「凍結された紛争」への道である。逆説的だが、凍結された紛争は、一時的には情勢の安定化をもたらす。トランスニストリア(沿ドニエストル)、アプハジア、南オセチアなどがその好例である。いずれも旧ソ連を構成した国家に属し、トランスニストリアはモルドバ(ウクライナの西隣)、アプハジアと南オセチアはジョージア(グルジア)の地域である。

ウクライナが恐れているのはウクライナ東部紛争が凍結された紛争に転化することである。こうなると短期的な失地回復は望めないからだ。トランスニストリアは30年間、アプハジア、南オセチアでも13年以上、文字どおりの凍結状態で何の進展も見られていない。だからこそ、ウクライナは軍事的な解決も念頭に置いて、ドンバス地域への圧迫を続けているのである。

ウクライナ政府の選択

さて、ドンバス地域の独立とロシア軍の「正式な」駐留という最悪の事態を避けるためには、ドンバス地域の軍事衝突を激化させてはならない。それができなければ、ドンバスが欧州の火薬庫となってしまうだろう。ウクライナ政府は欧米からの軍事援助を得て国軍を増強し、ドンバス地域への圧力を強めているが、こうした軍事的手段による早急な失地回復を目指してはならない。

そうではなく、国内の民主化や経済的な安定と繁栄に注力すべきだ。迂遠で長期的な戦略にはなるが、そうすることによって、将来的にはドンバスのウクライナへの回復がスムーズに進むことになるだろう。ロシアの軍事侵攻は間近だと主張する米国はともかく、ミンスク合意の立役者であるドイツ、フランスを始めとするEU側は、ウクライナに抑制を促す必要がある。ウクライナ情勢が安定化しない限り、もう一つの問題、つまり欧州の新たな安全保障体制の構築という課題に取り組む環境は整わないのだから。

元外交官

元外交官 1980年生まれ。東京大学教養学部基礎科学科卒業、同大学院総合文化研究科地域文化研究専攻修了。外務省入省後、ユジノサハリンスク総領事館(2009~2011年)、在ロシア日本大使館(2011~2014年)、ロシア課(2014~2017年)、中・東欧課(ウクライナ担当)(2017〜2019年)など、10年間以上ロシア外交に携わる。2020年に退職し、現在は森林業のかたわら執筆活動に従事する。気象予報士。日本哲学会、日本現象学会会員。著書に「地政学と歴史で読み解くロシアの行動原理」(PHP新書)、「ロシアの眼から見た日本 国防の条件を問いなおす」(NHK出版新書)。北海道在住。

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