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北方領土交渉に日本のカードはあるか?

亀山陽司元外交官
国後島の浜辺(写真:ロイター/アフロ)

安倍政権時代は日露蜜月に見えた日露関係も、菅政権に代わって距離を取り始めた。それを感じてかどうか、今年の2月にはプーチン大統領が「日本との関係は発展させたいが、ロシア憲法に違反することは何もするつもりはない。」と述べた。これは、昨年7月に改正されたロシア憲法に追記された内容、領土の割譲を禁止した条項を指している。この修正では、例外規定として、国境画定交渉を認めているが、プーチン大統領のこの発言は、北方領土交渉は国境画定交渉ではないということを示唆している。しかし、そうだとすれば、1956年の日ソ共同宣言の内容はどうなるのか。

日ソ共同宣言は守られない?

日ソ共同宣言第9条では、

9 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。

ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。

とされている。両国が批准したこの共同声明では明確に歯舞群島と色丹島の二島返還について、引き渡されると規定されている。この規定は、ロシア憲法による領土割譲の禁止に抵触するというのだろうか。

実は、ロシアの改正憲法では、国際法上の義務であっても、違憲とされる場合には履行されないとの規定も新規に追加されている。この条項に従えば、ロシアの憲法裁判所が違憲判決を下せば、条約上の義務も無効とされる場合があるということであろう。つまり、日ソ共同宣言第9項、二島引渡しについても違憲とされる可能性がある。そうだとすれば、日ソ共同宣言第9項の履行は放棄するという立場をとることになる。では、領土問題は完全に解決の道が閉ざされてしまったのだろうか。

北方領土は大国政治のカード

日ソ共同宣言は、平和条約になれなかった国際約束である。四島返還を主張する日本側と、二島引渡しを主張するソ連側との間で合意できなかったからである。その背景には、冷戦の論理があったことはよく知られている。米側は、日ソが接近することは望ましくないと考えていたし、ソ連側は、日米関係にくさびを打ち込みたいと考えていた。それが、ソ連側からの二島引渡しという譲歩となり、また一方で、米側から日本政府への圧力となった。つまり、北方領土問題は、大国政治のカードの一つとされていたということである。

残念ながら、この構図は、現在も大きくは変わっていない。確かに冷戦は第一次戦略兵器削減条約(STARTⅠ)の締結と、それに続くソ連の崩壊によって終結した。しかし、軍縮はそれ以上の進展を見せておらず、米露関係も私が「安定的な敵対関係」と呼ぶ緊張関係にある。こうした関係の中で、米国はロシアと西側諸国が過度に結びつくことに神経をとがらせる。例えば、ドイツがロシアから直接ガスパイプラインを引く計画「ノルド・ストリーム2」についても、米国が強く反対しており、その理由が、欧州のエネルギー安全保障をロシアに握られることになるからだという。

逆も然り。ロシア側としても周辺国が西側に接近することを極度に警戒している。その象徴的な事態が、東欧諸国のNATO加盟である。今では、ロシア、ベラルーシと並んでソ連構成国の中核であったウクライナまでもがNATO加盟を公然と目指している。東に目を転じれば、米国の同盟国である日本がいる。日本には約5万5千人の在日米軍が駐留しているとされる。ロシアは、日本との関係において、この在日米軍を何とか排除したいと考えてきた。1960年に日米安保条約が改定されたときに時のソ連外相グロムイコが日本に対して発出した覚書では、日米安保条約改定を指して「ソ連の約束の実現を不可能とする新しい事態が生まれた」とし、日本領土からの全外国軍隊の撤退がなければ歯舞、色丹は引き渡せないと言い始めた。これ以降、ソ連側は実質的に領土問題は解決済みとの態度をとるようになったと言われている。

ロシアの思惑

しかし、実際には、ソ連政府内では領土問題の妥協案が議論されてきていた。最近、共同通信が、1972年当時のソ連共産党政治局が作成した北方領土問題に関する資料を入手したと報じた。これは政治局会議に提出された意見書であり、中ソ対立を背景に、中国が米国や日本と関係改善に動いている中、ソ連の立場が弱くなってしまうのではないかとの懸念をいだいて、日本との関係改善策を模索していたことがわかる。共同通信によると、この資料の中に、日ソ平和条約の案文が含まれており、そのポイントは以下のとおりである。

相手に軍事的被害をもたらす行為のために自国領土を使用させない

第三国が日ソどちらかに対し侵略行為をするよう仕向けない

ソ連は日ソ共同宣言に基づき、日本に歯舞、色丹を引き渡す。両島は非軍事化する

これまでにも、1972年当時に二島引渡しに関する譲歩案をソ連が用意していたこと自体は知られていた。1972年1月に訪日したグロムイコ外務大臣は佐藤首相に56年宣言に立ち返ることを考えてもよいと打診していた。中ソ対立の中で、米中、日中がそれぞれ接近の動きを見せ始め、国際社会のパワーバランスに変化が起こったことにより、ソ連は日本をターゲットとして、接近を図ったのである。だが、今回明らかになった提案の内容は、単に56年宣言に基づいて二島を返還するというのではない。この提案の眼目となるのは、ソ連への攻撃のために自国領土を使用させない、との条項である。これまでのように、米軍の完全撤退とまでは言っていないが、対ソ軍事行動が起こった場合に米軍に自国領土を使用させないとの約束を取り付けようというのである。

日米安保の無効化

しかしながら、日米安保条約の第六条には、「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。」とある。つまり、ソ連が領土問題で譲歩するとして用意していた提案は、実際には日米安保条約の無効化を図ったものだったのである。

日本にとって、北方領土問題は領土主権と経済的利益(漁業など)の問題だと思われているが、ロシアにとってのそれは、安全保障上のカードなのである。そうである以上、日米が結束しているうちは、領土問題は決して解決しない。させることができないのである。

在日米軍撤退をもくろむロシア

2018年11月のシンガポールにおける日露首脳会談で安倍とプーチンが56年宣言に基づく領土問題の解決(二島返還)を目指すことで合意したとされていた時に、プーチン大統領は、56年宣言では、二島引渡しの時期、条件、主権については何も定められていないとの発言を繰り返していた。シンガポールでの合意に水を差しているかのようなこの発言は、それ以上説明されることなく、あいまいな感じを受けるものだ。解決の引き延ばしを図っているのかとも思われた。しかし、プーチン発言にはちゃんとした意味がある。プーチンの言う引渡しの時期や条件とは、何を意味しているのか。これまでの歴史的経緯を踏まえればそれは明らかだろう。プーチンの発言が意味しているのは、“日本からの米軍の完全撤退”、または、在日米軍の軍事力がロシアに対して向けられないことの保証を条件とするということなのである。

日本のカード

6月29日には、イタリアでG20外相会合が開催されたが、この機会に、日露外相会談を実施すべく調整を進めていたと報じられていた。残念ながら、ラブロフ外相が参加を見送ったので会談は実現しなかった。次の外相会談のチャンスがいつになるのかは不明だが、当然、領土問題が議題に上がるだろう。領土交渉において日本は常に要求者の側にあった。これでは交渉で足元を見られる。それで、安倍政権時代には経済協力をカードとして使ってきた。いわゆる「8項目の協力プラン」がそれである。しかし、日本側にはもっと大きなカードがある。それは日米同盟と在日米軍の軍事力である。これこそがロシアが最も懸念しているものだからだ。もちろん、ロシア側の望んでいるようなディールは受け入れられない。ロシア側もそれは百も承知なのだ。しかし、領土交渉において、この日米同盟の問題を避けては通れないということは念頭に置いておかなければならない。

鳩山一郎が日ソ交渉に向かったとき、自民党内の吉田派は交渉妥結に反対したが、このときから現在に至るまで、北方領土問題は単なる領土問題ではなく、米国追従か、自主独立かという大戦略上の問題であったということである。そうである以上、北方領土問題の解決は簡単には望めるものではないが、少なくとも、このカードをうまく使って交渉の主導権をロシア側と争っていけないことはないだろう。

元外交官

元外交官 1980年生まれ。東京大学教養学部基礎科学科卒業、同大学院総合文化研究科地域文化研究専攻修了。外務省入省後、ユジノサハリンスク総領事館(2009~2011年)、在ロシア日本大使館(2011~2014年)、ロシア課(2014~2017年)、中・東欧課(ウクライナ担当)(2017〜2019年)など、10年間以上ロシア外交に携わる。2020年に退職し、現在は森林業のかたわら執筆活動に従事する。気象予報士。日本哲学会、日本現象学会会員。著書に「地政学と歴史で読み解くロシアの行動原理」(PHP新書)、「ロシアの眼から見た日本 国防の条件を問いなおす」(NHK出版新書)。北海道在住。

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