空襲後「日本は終わりだ」と思った少年が「子育てに一番優しいまち」の区長になるまで

焼け野原の豊島区池袋本町氷川神社付近(1946年撮影豊島区立郷土資料館提供)

 東京都豊島区の高野之夫区長は、東京・池袋で生まれ育ち、経営者として、政治家として地域のために働いてきた。戦後の焼野原から復興、高度経済成長、バブル経済とその崩壊を経て、変化してきた街とのかかわり、特に近年力を入れている女性が暮らしやすい街づくりについて聞いた。

豊島区の高野之夫区長(筆者撮影)
豊島区の高野之夫区長(筆者撮影)

―― 今から75年前、1945年の4月13日に池袋を含む城北地域は米軍の空襲を受けました。区長は当時、小学生でした。

高野区長  城北地域が空襲に遭った時、私は8歳でした。当時、うちは4人家族で、父は徴兵されて満州へ行っていたので、母が商売をして家族の生活を支えていました。姉は集団疎開で長野にいました。

 私は栃木県古賀市の親戚宅に疎開していたのですが、そこから、東京の空が真っ赤に燃えているのが見えました。母と当時3歳くらいだった妹は、命からがら逃げました。

 この空襲で池袋を含む豊島区は7割の建物が焼け落ちました。それから4カ月後に戦争は終わりましたが「日本はもうこれで終わりだ」と子ども心に思ったことを覚えています。

 一方で、人間は極限状態でものすごいエネルギーが出るものです。私は、生きるために人々が立ち上がる壮絶な姿を見て育ちました。徹底的に破壊された日本が、復興するエネルギーを目の当たりにしました。

―― 終戦時、区長は8歳でした。私には8歳の娘がいまして「子どもが当時、どんな風に生きていたのか」想像すると言葉を失います。戦後の混乱と復興は、少年時代の区長に、どう映っていましたか。

高野区長  一番の思い出は食べ物がなかったことです。当時はすいとんばかり食べていましたから、白いご飯を食べたかったですね。

 池袋には闇市がたくさんできました。「子どもは入ってはいけない」と言われましたが、やはり、行きました。おまんじゅう等の食べ物も着るものも何でも売っていました。靴なんて、片方でも売っていたんですよ。物がなかったから、何でも売れたんです。生きるために工夫したのでしょう。

 父は生きて帰ってきましたが、それは終戦から2年経ってからです。その間、母が家業の古本屋を切り盛りして家族の生活を支えました。母は唯一の男の子だった私をとても可愛がってくれました。

 帰国した父はボランティア中心の生活を送ります。「命が助かったから、これからは社会に奉仕する」と言って。そんなわけで、父が戻ってきた後も、家業は母が切り回していました。

池袋駅東口に並ぶヤミ市(1948年撮影 東京都建設局提供)
池袋駅東口に並ぶヤミ市(1948年撮影 東京都建設局提供)

 高野区長にインタビューを依頼したのは、区の女性政策について聞きたかったからだ。私は豊島区の審議会の一つである男女共同参画推進会議の会長を務めている。

 区長は「女性が暮らしやすい街」づくりを最優先課題のひとつに位置付けていて、既に成果も出ていた。例えば、区の様々な審議会の委員に占める女性4割を目指しており、既に34.8%に達した。

 80代男性、選挙に強い地元出身の政治家がなぜ、女性政策に熱心なのか、真意を知りたくて、まずは政治家になった経緯を尋ねた。

2019年3月30日、鏡割りをする高野区長。染井よしの町会の「染井よしの桜里まつり」にて。(豊島区国際アート・カルチャー都市推進室提供)
2019年3月30日、鏡割りをする高野区長。染井よしの町会の「染井よしの桜里まつり」にて。(豊島区国際アート・カルチャー都市推進室提供)

―― 1960年に大学を卒業しています。当初から政治家志望だったのですか?

高野区長  いえいえ。政治家を目指したことはありません。昔も今も、自分は経営者だと思っています。

 大学2年生の時、父が亡くなり、母から家業を継いでくれと頼まれました。「お前は日本一の古本屋さんになって」と言われてねえ。当時は景気が良くて、大学の同級生は錚々たる企業に就職していましたから、うらやましい気持ちもありましたが、とにかく古本屋さんをやってみた。そしたら、すごく面白かったんですよ。

 本の取引市場では、目利きが大事。当時、神田にあった市場で競りをやっていて、そういうところへも行きました。本の題名と作者の名前を聞くと「●円」と値段が浮かんだものです。多い時はお店が3軒まで増えました。

 古書店経営をやっているうちに「街のにぎわい」あってこその商売だと分かるようになりました。当時、私が店を経営していた池袋西口は若い商店主が多くて活気がありました。商店会の青年部に入って、そのうち自民党青年部に誘われて…ということを30代後半で経験しています。

 豊島区議会議員になったのは45~6歳の時です。政治には興味がなかったのですが、地域の声を聞いて政策に反映し、にぎわいのある街を作りたかった。それだけです。議員になってからも、自分は経済と街づくりが得意で、他のことはあまり分かっていないと思っていました。

―― せっかく区議になったからには、区長を目指そう、と思いましたか?

高野区長  最初のうちは、そういう考えはありませんでした。

 ただ、区議をしていると、色々な地域の会合に出ますよね。そのうち「ただあちこちに顔を出すだけでは意味がない」と助言してくれる人に出会いました。

 そこで、勉強のため、当時、台東区長だった内山榮一さんの元でかばん持ちをさせていただくようになりました。内山さんは、下町文化を大事にした、特徴ある政策を進める素敵な方でした。「こういう区長さんになりたいな」と思うようになりました。

 区長は政治家ですが、内山さんは永六輔さんや平山郁夫さんといった文化人と親交が厚かった。自分から人脈を求めていくからです。 内山区長から学ばせていただいたように、私も、この区庁舎を設計して下さった建築家の隈研吾さんや、東京芸術劇場の名誉館長を務めた演劇評論家の小田嶋雄二さんに、自分から会いに行きました。

―― 区長は自身を「経営者」と言いますが、大事にするのは「お金」ではなく「文化」なのですね。

高野区長  子どもの頃の体験も影響しているかもしれません。平和あってこその文化です。そして、文化は街のにぎわいを作り、経済がそこについてくる、と私は考えています。

―― 女性に関する施策も、区長の問題意識の延長線上にあるのではないでしょうか。きっかけは、確か2014年ですね。

高野区長  日本創成会議が発表した「消滅可能性都市」で東京23区唯一、豊島区が名指しされてしまいました。算定の基準は「2010年から2040年にかけて若年女性(20~39歳)が半減以下になること」でした。豊島区は当時、5.2万人いた若年女性が30年後は2.6万人まで減るという推計でした。

―― どう思いましたか?

高野区長  ショックでした。最初は怒りましたよ。どうしてだ!って。でも、少し考えれば納得できました。豊島区には川も山もありません。29万人が密集して住んでいます。交通の便が良く独身時代はいいと思いますが、子育て期になれば出て行ってしまうのも無理はない。

 そこで、政策をガラッと方向転換しました。「女性に好かれる街」「子育てしやすい街」にしてみせよう!と。そのために、まず、100人の女性に話を聞きました。これを街づくりに反映していき、保育園も「作れるだけ作る」ことを指示しました。

 例えば豊島区役所の5階には、子育て情報共有のスペースがある。子どもに関する手続き窓口のすぐ向かいで、区内の幼稚園、保育園、イベント情報を一括して閲覧できるのが特徴だ。

区役所内で子ども関連の手続きをするついでに立ち寄ることができる。(筆者撮影)
区役所内で子ども関連の手続きをするついでに立ち寄ることができる。(筆者撮影)

 非常勤職員がひとりいて、インターネットを使った子育て情報検索を一緒にやってくれる。絵本やおもちゃもあるため、子どもを遊ばせながら必要な情報を探すことができる。「保活って何ですか?」「幼稚園と保育園の違いを知りたい」といった疑問や悩みを持った母親が多く訪れるという。

子どもを遊ばせながら区内の子育て情報を一括して見ることができる。(筆者撮影)
子どもを遊ばせながら区内の子育て情報を一括して見ることができる。(筆者撮影)

高野区長  そうです。あのスペースは会議室にする予定でしたが、若年女性の会議で出された要望に応えて、育児情報を提供する場に変えたのです。

 それから、区内公立小学校のトイレを綺麗に洋式に変えました。私は「トイレを見るとその街の文化が分かる」と思っています。区民センターのトイレは花王さんとコラボして綺麗にしましたし、公園のトイレは2017年、2018年に各11カ所ずつ「アートトイレ」に変えたのです。保育園も待機児童ゼロを目指して増やしました。

 できることは何でもやったところ、2017年には「日経DUAL」で「共働き子育てしやすい街」の第1位に選んでいただきました。

 日本創成委会議の議長だった増田寛也さんは、2回、豊島区にいらっしゃいました。「消滅可能性都市の公表から、わずか3年でここまで変わったことに驚いた。こんな街は他にありません」と言っていただきました。

―― 区長はとても前向きです。「消滅可能性都市」などと呼ばれたら、多くの首長は怒るか、やる気をなくしてしまうでしょう。

高野区長  私は楽天的で「ピンチはチャンス」と思う性質です。実は、1999年、区長に就任してすぐ、区の財政が破綻しそう、という事実を知りました。借金は872億円もあって貯金は36億円しかなかった。区民ひとりあたり33.6万円の借金がある計算です。

 バブル期に作った計画をバブル崩壊後も実行し続けていたためです。しかも、その事実を知る人は区役所内でもわずかでした。

 このままではいけない、と思い、まず「財政白書」を出して区民に情報公開をしました。記載されているもの以外に市中銀行から200億円も隠れ借金があり、その利息も高かった。そういう全てを伝えたのです。

―― 区長選挙に出馬した時は、そこまで財政が悪いとは、ご存知なかったのでしょうか?

高野区長  何も知りませんでした。区長に就任してすぐ、当時の財政課長から「2期目は持ちません」という事実を示す資料を見せられたのです。これは、何とかしなくては、と思いました。

 まず、区で保有している多数の施設を見直しました。例えば区役所は12カ所の出張所を持っており、各出張所に7~10名の職員が配置され、主な業務は印鑑証明や納税証明の発行でした。コストに見合う便益を提供していないと判断して全て廃止しました。

 こうした取り組みを重ねた結果、18年後に区の借金は254億円貯金は420億円になりました。区民1人当たり貯金が5.7万円ある計算になります。人件費比率も32.6%から19.0%に下がり、経常収支比率は99.5%から79.8%まで改善しました。財政状態が悪い時は、国や都から権限移譲されている決まった業務しかできなかったのですが、財政再建ができてからは、独自の事業ができるようになったのです。

―― やるべきことをしっかりやることに加え、独自の工夫もあります。この区庁舎建設にあたっても、面白い取り組みをされたと聞きました。

高野区長  もともと、豊島区役所は池袋駅の近くにありました。建物が老朽化して問題が多かったのですが、建て替えるお金はありませんでした。今の区庁舎は地下鉄東池袋駅に直結しています。ここにはもともと、区立小学校跡地と再開発予定の住宅地が混在していました。

 区有地と私有地を一体化して再開発し、1~10階は区役所、11階以上は分譲マンションにしています。マンションの一部には地権者が住み、残りは販売しました。その費用で建物の建設費をまかなったのです。これは私のアイデアですが、最初はずいぶん反対されました。「前例がない」と言って。

 関係者の説得や交渉には何年もかかりましたが、実際にやってみると、都心駅直結のタワーマンションは大人気で即完売となりました。区庁舎は隈研吾さんの設計で、屋上庭園などもある斬新で緑豊かなデザインです。

 私は本当にこの仕事が好きで、街を良くすることを考え、多くの人と意見交換して実行しているのが一番、楽しいです。趣味は仕事と言えますし、仕事をしている時がいちばん幸せです。

2019年3月20日の東長崎駅前交番開所式。「仕事をしている時がいちばん楽しい」と高野区長は話していた。(豊島区国際アート・カルチャー都市推進室提供)
2019年3月20日の東長崎駅前交番開所式。「仕事をしている時がいちばん楽しい」と高野区長は話していた。(豊島区国際アート・カルチャー都市推進室提供)

 区長には既に3回、審議会などで会ってきたが、あらためて話を聞いてみると豊島区の男女平等政策が着実な成果を上げている理由が分かった。

 2010年度に10.1%だった職員の管理職女性比率2019年度には21.99%まで増えた。これについて、ある女性管理職は「意識は簡単には変わりません」と地道な積み重ねの必要性を説く。

 区議に占める女性割合は41.7%に達しており、議会でもジェンダー・バイアスに関する質問が出るほどだ。昨年末、私は区役所の管理職を対象としたジェンダー平等研修を行った。それは、ある住民説明会で「男性参加者ばかりに発言機会があるのはおかしい」と感じた区議が議会で質問をしたのがきっかけだった。指摘を受けた副区長がすぐに「管理職向けの研修をする」と決定し、私のところに研修依頼がきた。

 こうした流れは、まだ、多くの自治体では「当たり前」ではない。様々な地域を取材して耳にするのは、女性活躍と聞けば「なぜ、女性だけが」という反発だったり、議会における性差別発言だったりする。

 豊島区の審議会や関連の研修では、高野区長が自ら、女性が暮らしやすい街づくりから始まり、子育てしやすい街、そして外国人や海外にルーツを持つ人など多様な人が暮らしやすい街の重要性を繰り返し伝えている。多様な性自認・性的指向の人々を対象にした「パートナーシップ制度」は2019年4月1日から施行した。

 男女平等や多様性を論じる審議会には様々な政党の議員が出席しており、このテーマについて前向きかつ活発に議論している。党派性で何かに反対する人がいないのは、区長のポリシーが明確なためだろう。

 その根底にあるのは、池袋の街のにぎわいを通じた文化と多様性のある都市への思いであり、戦後、焼け野原から有数の繁華街へと発展した地元への愛情だろう。財政再建も女性活躍も、高野区長にとっては、愛するものを存続させ、滅びないようにするため当たり前の取り組みだ。

 真に地域を愛するなら、不都合な数字や事実から目をそむけるのではなく、正面から向き合う。敗戦後の街を見て、古い日本の終わりと復興の勢いを感じた高野少年の心は、75年の月日を経ても変わらず、区長としてのリーダーシップに生かされている。