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〜生と死のギリギリで闘い続けた男がたどり着いた “人生のビッグウェーブ”~中迫謙吾×岩佐大輝 #1

岩佐大輝起業家/サーファー
[写真]右:中迫健吾さんphoto by DRAGONPRESS沼田孝彦

国内屈指のサーフスポット 宮崎で、プロサーファー、サーフガイド、サープショップ ケンゴリアを運営する中迫謙吾さん。マルチな活躍ぶりを見せる一方で、一時はサーファーとしての目標を見失いかけたこともあったという。海を愛する者同士、波を間近に感じながら、これまでの活動の経緯を振り返った。

岩佐)私は宮城出身で、実家がいちご農家だったんですけど、東日本大震災の時に壊滅状態になってしまいました。当時は東京でスタートアップ経営者をやっていたんですけど、故郷を元気にしたくて、宮城に戻っていちご農家になりました。農家をしながら、地元の自然と一体になれることやろうと、20代で夢中になっていたサーフィンを再びやり始めました。

謙吾さんがサーフィンを始めたきっかけは何だったんですか?

中迫)僕は生まれも育ちも宮崎市で、小学生から高3までずっと水泳をやっていたんですよ。中学生の頃からはサーフィンに興味があったけど、まわりで誰もやっていないし、ボードは高いし。それで、水泳をけっこうガチでやっていましたね。

高校に入学した時に、たまたま友達になったやつが青島出身のサーファーだったんですよ。連れて行ってよって言ったのが始まりで、そこからハマっていきました。ショートボードから始めて、高校卒業と同時に、働いていたショップのライダーになりました。で、21歳の時にJPSAのプロになって、という感じですね。

岩佐)当時もJPSAのプロになるのはかなり狭き門でしたよね?

中迫)僕らの時はもうプロテストがありました。プロになりたいやつが4~50人集まって、大会中の1ヒートの合計点で勝ち上がっていって優勝するか、その1ヒートで15ポイントクリアすれば合格だったんですよ。僕は15点以上出して合格しました。

プロサーファーになって、ツアーにも全部出ました。ツアーは千葉、茨城、四国、湘南もありましたね。あとは日本海の京都とか。海外はバリのウルワツでした。コンペに出ていたのは、27歳ぐらいまでだったかなぁ。スクールで教え始めたのも27歳頃からで、店をオープンしたのは35歳の時でした。

岩佐)ということは、27歳までは毎日がっつりガチで練習ですよね。それだけで飯を食うのは大変だったんじゃないですか。

中迫)バイトしていましたね。実は26、27歳くらいの時に全然サーフィンがおもしろくなくなって、それでコンテストもやめたんですよ。

岩佐)面白くなくなったんだ。なんでですか?

中迫)飽きたんですかね。「もうやめよう」と思っていました。その間にスクールで教えたりもしていたんですけど、3カ月ぐらいサーフィンをしていなかったですね。

ところが冬のシーズンが来た時に「あ、ノースショアに行かなきゃいけない」と思ったんですよ。若い頃、プロになる前からハワイへはずっと行っていたんです。それで、ハワイへ行って、コンテストもやめて、吹っ切れて「もう得意分野で行こう」と思いました。大きい波が得意だったので、ビックウェーブで行こうと思って、そこからまたサーフィンをやり始めましたね。

岩佐)ハワイだったらワイメアとかビッグウェーブのポイントもたくさんありますね。当時どれくらいのサイズで入っていたんですか?

中迫)でかいのは20フィートとかはありましたね。僕、20フィートは乗れなかったですけどね。波高は波の裏で測って、だいたい6mくらいですね。

岩佐)裏で6mでしょ?だから、こっち(表)だと10〜12mくらいですか?

中迫)それくらいです。グーンとうねりが来るじゃないですか。横から見ていたらうねりが来た瞬間、ドーンって海に段差ができます。そんな波です。でっかい階段だなって。とにかくでかいです!怖いです(笑)。

岩佐)当然波に食われる時もあるじゃないですか。食われたら、どんなひどい目に遭います?

中迫)とにかく揉まれますよね。毎年ハワイに行っていたけど、必ず一回は死に目を見ていましたね。「もうヤバイ。もう、死ぬ」っていうギリギリですよ。

僕、小学校に上がる前に、プールで溺れて死に目を見ているんです。走馬灯で人生がパパパパパって出て、最後は母親の顔だったんですよ。死にたくなーい!って言って、目をぱちって開けたらピンク色の手すりが見えて、それにつかまって上がってきたんです。

岩佐)危なかったですねぇ!

宮崎にもビックウェーブがたつと、何フィートくらいですか?

中迫)数年間に炸裂していたのは15フィートくらいありました。すごかったですよ。ショートボードじゃ入れないですけど、セブン・テンとか、いろいろですね。僕はそこではガンは使わないです。去年使ったのはシックスエイトのすごくゴツい特殊なボードなんですけど、それで入っていましたね。港から飛び込めばパドルでいけるんで。

岩佐)アドレナリンですね。アドレナリンが出て、乗った時の開放感みたいな、生と死のギリギリの感覚を楽しんでいるんですね!でもいつか死ぬかもなって思います?

中迫)日本だったらよほど変なことをしなければ死にはしないかな。無茶とか気絶とか。逆に、好きなことをやって海で死ねたら本望かなって思いますね。

サーファーとして、自分自身の“ビッグウェーブ”を見つけた謙吾さん。次回は、移住者がローカルに溶け込むために、謙吾さん自身が大切にしている、あるルールについて掘り下げていきます。

起業家/サーファー

1977年、宮城県山元町生まれ。2002年、大学在学中にIT起業。2011年の東日本大震災後は、壊滅的な被害を受けた故郷山元町の復興を目的にGRAを設立。アグリテックを軸とした「地方の再創造」をライフワークとするようになる。農業ビジネスに構造変革を起こし、ひと粒1000円の「ミガキイチゴ」を生み出す。 著書に『99%の絶望の中に「1%のチャンス」は実る』(ダイヤモンド社)、『絶対にギブアップしたくない人のための成功する農業』(朝日新聞出版)などがある。人生のテーマは「旅するように暮らそう」。趣味はサーフィンとキックボクシング。

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