元少年兵の証言---いとうせいこう『まだまだ国境なき医師団を見に行く』(南スーダン編13)

マラカル宿舎を送り出される俺たち。サンキュー、ロジ部門のハビエ(スマホ撮影)

元少年兵の人生

 首都ジュバに戻り、日本に帰国する前日、宿舎の食堂にいるとカメラマン横田徹さんがやってきて、ドライバーの一人が元少年兵だそうだと言った。話が聞けそうだから、舘さんと一緒にカメラを回すという。俺もインタビュー場所に決められたバルコニーへと急いだ。

 屈強なアフリカ人コルスック・アンソニーはきつめのTシャツ姿で淡々と自己紹介を始めた。36歳だというが年齢より若々しかった。5年前の10月1日からMSFで働いているのだという。アンソニーがファーストネームだが、自身は苗字のコルスックで呼ばれることが好きなのだそうだ。

 彼コルスックが話した言葉を編集して、南スーダン編の終わりとする。

 紛争国に暮らす者の、ごく普通の悲劇がここにはある。

コルスック・アンソニー

 私は1982年、ジュバの南にあるカジョケジ郡に生まれました。子供の頃、反政府軍の兵士だった父から国が抱える問題に関して色々な話を聞いて育ちました。いいことも悪いことも。

 どうして子供にそんな話をするの?と父に聞いたことがあります。すると父は「情勢は不安定だ。今話しておかなければ、本当に話す必要があるときに父さんはいないかもしれない」と言いました。もうすぐ自分はこの国には暮らせなくなるかもしれない、と。

 その頃、母はウガンダで避難生活をしていました。母が当時のスーダンを出るとき、不慮のアクシデントで私は一緒に連れていってもらえませんでした。以降、私は父と叔父夫婦と暮らしていたのですが、父は軍の仕事で週に2度ほどしか家に帰ってきませんでした。

 ある日、父が帰ってきて「俺を探しに来るやつがいても決して居場所を言ってはならない。そして他の誰かにすぐ知らせろ」と言いました。それからしばらくして、確かに男たちが村にやってきました。私は父自身に知らせに行き、もう連中はすぐそばに来ているから逃げられやしないよと言いました。

 乾季でした。身を潜められる茂みはすべて野焼きで焼かれていました。父は食糧置き場に隠れるしかありませんでした。私は家に来た男たちに「父親はどこだ」と聞かれましたが、知らないふりをしました。

 男たちは一度帰りましたが再びやってきて、「父親の居場所を教えないとお前を殺す」と銃口を突きつけました。私は「いいよ」と答えました。その時のような苦しい生活が続くなら死んだほうがいくぶんましだと考えて言ったたのです。「さあ撃ちなよ」と。

 兵士はなぜそんなに自暴自棄になるのかと聞いてきました。自分はまだ子供で何の力もありませんし、そう答える以外なかったのです。

 後日、父のいない時にまた男たちがやってきて、父親の居場所を聞きました。知らないと答えたら、彼らは私を連れ出しました。自分は殺されるんだと思いましたが、薪拾いや水汲みなどに使われました。何日かが過ぎ、他にも連れてこられた子供たちがいたことを知りました。私は13歳でした。

 その後、私は軍の様々なトレーニングを受けました。父から以前から言われていた、「いつかお前は拉致されて、軍に強制参加することになる、その時には生き延びるすべが必要だ、どんな状況でも強くあれ、男として」という言葉を私は思い出しました。

 それから反政府軍の少年兵士として攻撃にも参加させられました。敵陣への偵察のようなこともしました。3年間、そうした暮らしが続きました。

 ある時、父が私の所属する部隊を突き止めてくれました。そして上官と交渉し、同じ村出身の2人の子供たちとともに私を解放するよう説得してくれたのです。

 父の元へ戻ると、情勢が悪いから母のところへ行けといわれました。私は16歳になっていました。数人の子供たちと一緒に、私は付添い人についてウガンダとの国境を渡りました。渡り終えると、付添人は「あとは1人で行け、ここからは捕まる恐れはないだろう」と言いました。私たちは先へ進みました。

 ウガンダ国内で出会った国連職員に「母を捜しに来た」と伝えました。そして彼らの事務所に行くと、身の上について色々と聞かれました。母の名前を言った途端、コンピュータ上に映った一人の女性の写真を見せられました。

 それはまさしく母の写真でした。

 次の日、国連の車に乗せられ、スーダン人の居住区のひとつ「アリワラ」に向かいました。そこは番号で区切られた居住区で、母は薪拾いに出かけていて留守でした。待っていると、母が帰ってきました。心揺さぶられる再会でした。私はどうやってそこにたどり着いたか、父がどうしているか、これまで私がたどってきた暮らしをすべて説明しました。

 そのまま5年間、私は母や妹たちと暮らしました。

 しかし2006年、母が病死してしまいました。死因はがんでした。私たちは母の病気に対してなすすべがありませんでした。お金があれば大きな病院に連れて行けたのかもしれませんが、それは望むべくもありませんでした。

 当時母はまだ2歳の男の子を授乳して育てていました。父はスーダンとウガンダをたまに行き来していましたが、スーダンの方の情勢が悪く、一緒にウガンダで暮らすことはかなわなかったのです。自分は兄弟の中で年長でしたが、2歳の弟を育てる自信がなかったため、結婚を決意しました。そこで暮らしていくには、自分たちで食べるものと着るものを手に入れなくてはなりませんでした。

 家族6人の生活が始まりました。幼い妹や弟たちは自分を父親のように慕ってくれました。2009年になって帰国を決意しました。ウガンダは結局、自分たちの故郷ではありません。スーダンでは数年前に和平合意が結ばれていましたし、平和が訪れれば自分たちで結束して強く生きていけると思っていました。

 帰国して1年が過ぎ、父と将来について話す機会がありました。父はその時点で15年もの間、兵士として働いていました。私は父に軍を辞めて、私たちともに暮らし、事業を始めようともちかけました。軍は家族に何ももたらしてはくれないから、と。父はしばらく考え、「お前の言うとおりだな」と言った後に「自分で決断するから少し待って欲しい」と言いました。

 それから1年経ち、父は軍を辞めて帰ってきました。彼も兵士としては年をとりすぎたかもしれません。

 これまでの自分たちの人生は苦難に満ちていました。母と生き別れになったときもひどく悲しい思いをしました。学校に行くことが出来なかったのもとても残念だと考えています。うちには学費を工面するなんて到底無理な話でした。

 私はこちらで自転車タクシー「ボダボダ」の運転手をして日銭を稼ぎました。自転車は借り物でしたが、自分の手で少しのお金を稼ぐだけの生活は出来ていました。

 ある日ひとりの男性に、「お前は働き者だから、もっと将来につながることを始めなさい」と言われました。手元には何もないし、事業なんか始められないと思いましたが、男性は「少しのお金があるなら技術学校へ行いったらいい」と助言してくれました。技術を身につければ、整備士や運転手などの道が開けると言うのです。彼は私に「お前にはよりよい生活を手に入れて欲しいから助言するんだ」と言ってくれました。

 その後、貯めていた少しのお金を工面してなんとか学校に行き、2ヵ月半後には運転免許を取得しました。それから運送会社で仕事を見つけ、トラックの運転手になりました。

そして2011年以降、いくつかの人道援助NGOでの職を得て働いたのち、2013年にMSFのドライバーになりました。

 MSFに入ってからも、南スーダンでの暮らしは楽ではありません。でも家族でつつましく暮らすことは出来ています。ジュバは決して安全ではありません。私の家族は再びウガンダのアルアに家を借りて住んでいます。私も3ヶ月に1度くらい家族に会いに行く暮らしをしています。

南スーダン編 終了

現地スタッフのみんな、ありがとう(撮影 横田徹)
現地スタッフのみんな、ありがとう(撮影 横田徹)
これらを返して去る
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