たくさんの矛盾の前で----いとうせいこう『まだまだ国境なき医師団を見に行く』(南スーダン編12)

まさかこんなところにデカデカと西海岸ラッパーの名前が(スマホ撮影)

落書き(あるいはグラフィティ) 

 最初の建物に戻り、中を抜けて川岸の方へ行こうとした。その間に、避難民が占拠している石造りの内壁にさまざまな落書きがあるのを読んでいく。誰が書いたかはまったくわからないが、ともかく石か何かでひっかいたり、炭のかけらでメッセージを残しており、それはほとんどアルファベットによる固有名前になっていた。国内の兵士、あるいは国連軍の何者かが書き捨てていったのだろうか。

 その中に大きく「RICK ROSS」と書かれた文字があって目が止まった。西海岸出身の、2000年代のラッパーの名前だ。数年前には監禁暴行の容疑で逮捕されている。不良がかっこいいというカルチャーは南スーダンにも当然浸透しており、それは首都ジュバの食堂でかかる音楽でも、POCでの少年のTシャツでもひしひしと伝わった。

 ストリートできわきわの日々を送るアフリカ系という意味では、アメリカだろうがアフリカだろうが変わらないというリアリティだろう。もし国連PKO軍の誰かが書いていったのだとしても、そこにあるのはストリートで暮らす者たちへの共感に違いなかった。

「DOPE BOYZ CLUB」という落書きもあって、それはやはりアメリカ西海岸の黒人向け理髪店の名前だった。目の前にある紛争の最中に、自分たちの文化の存在を誇示したのだろうか。俺はそれら落書きの下で這い回って遊ぶ幼児をぼんやりと見つめてしばし時間を過ごした。

これがヘアカット店の落書き
これがヘアカット店の落書き

野外医院

 いつの間にか、ボートが接岸したあたりの二本の樹木の下には、すっかりテーブルが並び、椅子が置かれていた。近づいていくと、その前の土の上にディンカ族の女性と子供たちが列をなして座っていた。男は一人も来ない。彼女たちの話では、若い男たちは薪拾いや、木炭を売りに出るなどで不在とのことだった。

 並んだ女性たちはみな、小さな紙を持っていた。体重計があってそこで体重を計り、名前を書き、配られた体温計で明らかになった体温を書き入れておくものだった。しっかり並んだあと、彼女らは順番に看護スタッフのテーブルの前まで来ると、幾つかの質問を投げかけられた。

 もうひとつのテーブルへといざなわれる者は聴診器を当てられ、カルテにくわしく状態を書き込まれる。さほど状態が悪くない者はそのまま薬剤師アルシャッド・アハメッドのテーブルへ行き、プラスチックケースに整理された錠剤やカプセルを処方される。例えば赤いのはイブプロフェンで、朝晩一錠ずつといった具合だ。

 風は柔らかく吹いて彼女たちのかぶる布を揺らす。太陽の光も樹の下には届かず、とても過ごしやすい午後だった。知らない鳥の声が絶えずし、地元のコトバが低く交わって聞こえる。実際は避難民の窮状を目の当たりに見ているのだが、俺は次第にのんびりした気分になってしまうのに驚いた。あまりに自然にMSFが医療を続けているからかもしれなかった。事実、避難民の女性も子供も昼寝をしてしまいそうな顔で落ち着いている。

 時々モーター音がして船が川に現れた。すると必ず子供たちが走り出して、岸のモニュメントに登り、手を振った。それはやはり実にのんびりとした光景で、彼ら避難民が食うや食わずの暮らしを送っていることをつい俺は忘れた。外から数日訪問しただけの人間は、彼らの苦しみを正しく分け持つことが出来ないのだと情けなくも思った。

 やがて、その日何人に医療を施したかの集計が共有された。トータルで57人。その中で傷の手当てをしたのが5人、5歳以下で小児用ワクチンを打ったのが6人、妊婦で破傷風ワクチンを打ったのが3人ということだった。

 午後一時半に医療行為自体は終わり、そのあとガラン・ロニー・ガランがまたトラメガを持って建物の中に人を集めた。紙芝居を見せて健康と衛生についての啓発活動をするためだった。子供もおばあさんも働き盛りの女性も、みな熱心に絵を見て質問に答える。もちろんその後ろの壁には例のラッパーの名前がデカデカと書かれている。自分がいる場所がアメリカのスラムなのか、アフリカなのか一瞬わからなくなった。

熱心に聴く子供たち
熱心に聴く子供たち

 近くの土の上に水を溜めた白いプラスチックのバケツがあり、日の丸の絵と「日本国民より」という英語が書かれていた。そのバケツひとつにも、世界政治と人道主義、そして医療と貧困と紛争の様相が入り乱れて示されているのを俺は感じ、ますます考えがまとまらなくなった。

 スタッフは同時に元病院内の人口を調べた。どうやら15世帯137人が暮らしているらしかった。俺は暗い部屋の中まで見ていなかったから驚いた。外に出てきているのは数十人で、まだまだ人はいるのだった。

日本から贈られたバケツなのだろう
日本から贈られたバケツなのだろう

 すべてが終わり、俺たちは樹木の下で少し休憩した。スタッフの誰かがクッキーを持っていて、小腹がすいたろうと配ってくれたが、ほとんどのエクスパットは子供に分け与えた。俺はそれがいいことなのかどうかわからず、ただクッキーをポケットにしまった。それを小さな子供が見ていたが、執着したりねだったりする様子は一切なかった。だから俺はあげるべきだったのだ。今でもそんなことを後悔している。

 近くの椅子に座っていたジョブ・オンディエキ・カマンダ、つまり遠隔医療チームの責任者になんとなく質問すると、こんな言葉が返ってきた。

「このアウトリーチは2017年10月以降に始めたんだが、その頃はもっともっと治安が悪かった。このへんもようやく今年から人が住み始めたんだけど、昔はもっと人がいて移動していったよ」

 つまり、俺が出会ったのはここに残る決断をした人々なのだった。どこへともなく去ることを選んだ者たちのことを、俺は思った。少なくとも夜露をしのげる場所を見つけなければならない。しかも周囲で急いで農作物を育てるのだ。それはきわめて難しいことだろう。

「僕らは医療を運んできている。けれど食料や水や仮設トイレも提供したい。ここは環境が劣悪だから、なんとかしたいんだ」

 ジョブは重ねてそう言った。

 飢えによって人が死ぬ。あるいは伝染病にかかって命を落とす。暴力をふるわれて亡くなることもあるかもしれない。

 そういう危機の瀬戸際に、避難民のみんなはいるのだった。

帰る俺 残る子供たち

 やがて一度広げた荷物をスタッフ全員で船に運ぶ時間になった。小さな子供たちも積極的に手伝ってくれる。子供たちは必ず笑顔でいた。あるいは笑顔一歩手前の、あふれる好奇心をとどめていられない表情。

 けれどそのうちの何人かが大人になるまで生きていられるか。俺は彼らを置き去りにして帰る身として、自分はひどく無責任だと思った。MSFスタッフは彼らと痛みを共有しようとするだろう。

 しかし俺の立場はなんなのだ!

 モーターが鳴り、ゆっくりと船が動き出すと、例のモニュメントに子供たちは貼りつき、まさにちぎれんばかりに手を振った。もちろん俺も振った。うれしかったし、それ以外に俺に出来ることがなかったからだ。手を振ることしか出来ないとは、なんと情けない人間なのか、俺は。

 しばらく川を行く途中、あたりを支配しているあのリーダーの居住地あたりで船を止められ、責任者が呼び出された。

 事情がわからず不安だったが、じきにジョブが帰ってきて、あの鯛のような魚を乗せていた漁師から「船をぶつけられて一部が壊れた」とクレームがつき、リーダーが裁定せねばならなくなったのだと聞いた。俺もそのへんはよく見ていたので嘘だとわかった。

 が、ひとつ間違えばクレームが通ってしまう。往路でもし挨拶をすっ飛ばしていたら、我々は何かを払わされるか、あるいは交通の権利を失っていたかもしれない。

 ここでは日々、そういうパワーゲームが繰り広げられているのだった。

 さて、こうしてアウトリーチの取材も終え、俺たちは翌日国連機で首都ジュバに戻り、のんびりと過ごしたあとで日本へと旅立ったのだが、その間に一人のローカルスタッフの話を長く聞いた。

 彼自身が元少年兵なのだそうだった。

 俺の原稿(「南スーダン編」)は次回、その元少年兵へのインタビューを載せて終了としたい。 

俺が置き去りにしてきた彼らの食糧。
俺が置き去りにしてきた彼らの食糧。