南スーダンの「今」----いとうせいこう『まだまだ国境なき医師団を見に行く』(南スーダン編10)

戦火で焼け崩れた病院(スマホ撮影)

マラカルの政府支配下区域の病院へ

 翌日(11/7)、早朝からの宿舎での全体ミーティングに参加したあと、軽い朝食(マフィンにヌテラを塗り、インスタントコーヒーを飲んだ)をすませて、海外派遣スタッフの一人で看護師チームのリーダーであるエチオピア人のムルケン・ツェゲイエ・ダムトゥとマラカル市内の病院へ出かけた。

 前日のPOCからすれば正反対の、政府軍支配下でディンカ族が暮らす町の中に入ることになる。四駆車内で聞いたところによれば、市内病院にはエクスパッツ4人、現地スタッフが20人だそうで、特に助産師の人材不足に悩んでいるのだそうだった。

 やがて草地の間の道に出たが、中に兵士が隠れているので写真を撮ろうとしないよう注意を受けた。閑散とした村めいた場所を通る頃には急に兵士が増え、無線使用も禁止になった。トタンとモルタルで造った家々を見るとあちこちに銃弾の跡があり、破壊された車が転がっている。

 行き交う人も多くなり、ロバで台車を引くなど生活らしさが見られるようになれば、すでに市内に入っているとのことで、モスクが教会に 変えられている姿を見て政情を納得するうち、じきにMSFのマークが見えてきて緊張が解けた。

 敷地は広く、中はコンテナでなくれっきとした建物群である。明るいベージュの壁に青い屋根という近代的で美しい洋館などがあり、かつて全体が南スーダンの国立病院だったそうだった。それをMSFがリノベートして使っているのだった。

 俺たちはすぐにひとつの建物内に入った。産前産後ケアの部屋があり、入り口の白板に入院中の妊婦と付き添いの人の名前が書かれていた。毎朝更新されるそうで、登録されていれば付き添いにもごはんが支給されるということで、そういえばウガンダでも今回のPOCでも付き添いが必ずいたことを思い出した。アフリカの常識なのかもしれない。

 外来も見て、病院のスタッフに聞いたが、基本的にHIV、結核、風土病が多いようで、和平協定が結ばれるくらいだから最近は銃創などの症例は減っているようだった。

 医療スタッフのパウル ・ニョックにメンタルヘルス部門のカルテを説明していただいたが、当然のこと憂鬱を訴える人が多かった。

「戦争のせいで……」

 と言うと、パウルは意外にも首を横に振った。

「それもありますけど、家族内に起きたあらゆる悲劇が引き金となります」

メンタルヘルスに通う人の絵。
メンタルヘルスに通う人の絵。

 親族を失い、家財を失い、そのあとで家族の中でもめごとを起こしてしまう。つまり紛争後の状況下で精神的なバランスを逸してしまうケースが出てきているのだという。おそらくそうした事態は次の紛争を呼びかねないはずで、メンタルを診察することが国情の改善につながっているとも言えるのではないか。

 続いて病院の現地スタッフであるマークに入院病棟を案内してもらった。緩和ケアや集中治療室、精神疾患の部屋などなど上手に空間を分けて使っていた。

 途中の看護師室では、働き始めて一週間だというバキータ・オドールという若い女性に出会った。もともとマラカルの看護学校を出て、スーダンで働いているうちに南スーダンの独立があってマラカルに戻ったものの、内戦が始まったため首都ジュバに行って働き、最近になってこちらに移って来たのだそうだ。

 いかにも意志の強そうな目をしたバキータは、

「もともと人の命を救いたくて学校に行きました。わたしはコミュニティに貢献したいんです」

 とはっきり答えた。その善意の背後にどれだけの厳しい現実があったのかを俺は想像し、身震いした。彼女の強さ、そして他人のためになろうとする心の動きに最大限の敬意を払うため、俺は深く頭を下げた。

若いバキータの意志の強さはよく伝わった。
若いバキータの意志の強さはよく伝わった。

 様々な施設を見ていくうち、2014年に焼けてしまった小児病棟の跡に足を踏み入れた。レンガ造りの上に漆喰の壁があったことがわかるが、ほとんどは黒く焼け崩れてしまっており、まるで遺跡のようだった。

 そこを案内したアブラハム・デン・ゴチによると、砲撃は無差別に行われ、病院にも飛び火し、病院に押し入った武装勢力により患者も殺されたそうだった。アブラハム自身はジュバで看護の勉強をしてマラカルに戻った途端、内戦になってしまった。その後は国連平和維持活動(PKO)の施設に避難し、2014年からはPOCにあるMSFで働き始めた。

 しかし2016年、今度はPOCが武装勢力に攻撃された。この戦闘の結果、ディンカ族はPOCからマラカル市内に連れ戻されることになるのだが、アブラハムに言わせれば、この攻撃は酒に酔った一部の勢力が起こしたことで、なんら戦略的なものではなかったのだという。つまり、真実は両勢力互いに異なり、相手に責めを帰していた。

 ディンカにも当然許しがたい悲劇があるのだ、とようやく俺にもわかってきた。どちらかを悪く考えていだけではh物事がおさまらないのだ。

 アブラハムの命は水びたしのPOCにいて助かった。親はいったんウガンダへ逃げ、彼は国連に連れられてジュバに行き、ようやくまたマラカルへ帰ったのだった。

「平和が来たらまた勉強して医者になります」

 和平協定は有効だろうとアブラハムは続けた。事実、このところ衝突も減っており、反政府勢力がマラカル市内に入り込むこともなくなってきた。人々は移動の自由を得ている。

 むろんこれは少し前まで全部逆だったことを意味するので、その国内の事情を考えておかなければならない。あちこちで衝突が絶えず、勢力同士がぶつかりながら土地を奪いあっていて、兵士以外は逃げ回ることも難しかったのだ。首都ジュバでもマラカルでも。

 日本の自衛隊はそういう場所にいたわけだ。

一方、シルク族は

 一度宿舎に帰って眠った。

 夕方に部屋から出て行くと、朝より多くのスタッフが四角い大テーブルを囲んでいた。俺は最初、何かがあって祈っているのだと思ったが、それはメディカルチームだけの静かな定例会議だった。

 それが終わるのを待って網で囲われた休憩室へ行き、現地スタッフとしてすでに5年働いているエマニュエル・クルに話を聞いた。内戦勃発直前の2013年12月からMSFに帰属し、物資調達などロジスティックのアシスタントをしてきた人物だ。額に点々と一本線を綴るような無色の入れ墨がある。それは彼の属する部族を示していた。

 彼の説明によると、マラカルでの最初の戦闘は朝7時に始まったそうだった。武装勢力が侵攻して町で戦闘が繰り返された。

 前線が郊外に移るにつれ、対立する両勢力の負傷者が病院に運ばれてきたが、患者同士が病院内でも対立するため、MSFら人道援助団体は中立的な対応を徹底した。

 2回目の戦闘が2月に起きた時、ユニセフは国連PKO施設に避難。MSFと赤十字国際委員会(ICRC)はそのまま病院に残って4日間医療行為を続行した。ただし市民は家から外に出られずに困窮したという。

 4日後に国連PKOの戦車がやってきて、MSFらを撤退させた。家から出ることができなかったエマニュエルは後日友人のおかげで自身のおばあさんとともに国連施設に避難することができた。そこで彼は一時撤退したMSFチームと連絡を取り合い、5日後には再びチームと合流し病院に戻ったのだそうだ。しかしそこで見たものは、病院内で殺された14人の遺体と、略奪され火をつけられた病棟、破壊された救急車などだった。

 その後も3回目の武力衝突の情報が入ったので、また国連PKOの敷地に引き上げたりもしたという。こうした果敢な医療活動にはむろん救うべき対象がいた。

 町周辺では多くの民間人が命を奪われた。その模様を、まるで地獄を思い出すように彼は語った。

 ちなみに複雑なのは、こうした状況下でディンカ族はまだシルク族という大きな勢力と行動を共にしていたことで、つまりやがて内部分裂をともなって今度はシルクとヌエルが政府軍を市内から追い出したりもしたという。そこはきわめて不安定で、疑心暗鬼渦巻く世界だったし、今もその余韻は消えていないはずだった。

 2016年、武装勢力がPOCをも襲撃し、ディンカ族に属する者たちを連れ去った。そうした状況では若い男は捕まって殺されるか、反政府軍になるかしか選択がなかったと彼は言った。

「親友も殺されていきました。MSFという拠り所がなかったら、僕も戦士になっていたかもしれません」

 1984年生まれの彼は、そもそも南スーダン独立戦争のため、若い頃から軍での訓練を受けねばならず、その時点で戦闘を体験していた。それから大学に戻ったが、軍はいつでも彼を受け入れる用意があった。

 そのような社会では、一度分裂が起きればあちらこちらに実際に武器があり、若者はそれを使う能力にたけているため、衝突は紛争となってしまう。そしてなかなか収束しない。

 俺は絶望的な気持ちになりかけながら、彼に「和平協定は有効か」と聞いた。すると彼は複雑な表情になり、

「元々我々のものだった上ナイル川の東岸が返還されれば可能性があります」

 と言った。しかしなんにせよ、彼が属する部族の王が決めることだと言葉は続いた。

「妊娠出産も、戦闘も、王の許しがなければ行えませんから」

 こうして俺はまたひとつ、まるで知らずにいた南スーダンの「今」を思い知ったのだった。