国連民間人保護区に入る----いとうせいこう『まだまだ国境なき医師団を見に行く』(南スーダン編8)

POC内の病院にて写真に興味を示すベイビー(スマホ撮影)

POC(国連民間人保護区)の病院へ

 翌11月6日、早朝。

 7時過ぎに起きたが、宿舎が明るく騒がしいのは6時頃からわかっていた。『国境なき医師団』の団員たちがきびきび働き始めていたのである。

 1時間後、俺も四駆に乗ってPOC(国連民間人保護区)の病院へと移動。これは前回アタナシオが教えてくれた通り、検問を幾つか抜けた宿舎のすぐそばで、驚くほど短い時間で着いた。人道主義者団体はみな、避難民のごく近くにいて彼らを守っているのだ。

 金網が開くと、斜め前で女性たちが洗濯をしていた。正面にはコンテナがつなげて並べられている。各国で見てきたMSFの「コンテナ・ホスピタル」だ。緊急に造り、しかもきわめてよくもつ。

 中に入って手短に紹介され、全体ミーティングに参加させてもらう。現地スタッフは20人ほどで、女性医療者もいるし、白衣の男性もいる。みな南スーダン人である。そこに海外から来たパトリシアのようなMSFのエキスパット(海外派遣スタッフ)がいる構図だ。

 その日の報告などが終わると、みな素早く持ち場に散っていく。俺たちは案内のパトリシアに着いて奥へ移る。救急室があり、「ホープ・センター」と呼ばれるメンタルヘルスの部屋がある。パトリシアが小声で教えてくれたところによると、そこでは主に性暴力にあった方々の心を癒しているのだそうだ。それが救急のごく近くにあるのがいかにも国際基準だなと思った。性暴力は精神に対する殺人と認識されており、日本はまるで遅れているのだ。

 血液を検査する部屋があり、そこでは検査技師のボニファス・アコルが結核検査のこと、輸血用の血液のこと、HIV検査も出来ることなどを説明してくれる。とても恥ずかしがり屋で小さな声だったのが印象的だ。

 さらに奥には4床の経過観察部屋があり、包帯を巻いたりするドレッシングルームには夜間にも対応出来るように薬剤などが並んでいた。POCのその病院では24時間患者を受け入れる態勢で、毎夜びっしり人が来るのだと教えてくれたのは長身の医師、アブドゥル・カリームだ。

 他にも滅菌室があり、小児科があり、新生児室があった。2か月前までは満室だったそうだが、ちょうどその日はがらがらだった。ママさんが一人だけいて、ベッドの上には小さ過ぎて布のかたまりと見間違うような赤ちゃんはいる。他の地域の病院から運ばれてきた生後一か月半の栄養失調の乳幼児である。

 ママさんに聞いてみると、舌を鳴らすスーダン語で赤ちゃんが二番目の子供で、これから最低二週間は入院しなければならないそうだった。バキータ・サイモンというのがその女の赤ちゃんの名前で、どうか健康を取り戻して欲しいとこれを書いている今も思う。

 次の部屋は成人病棟で、点々と人々がベッドに寝ていた。中には酸素吸入器をつけている患者さんもいる。心理ケアもそこで行うとのことで、確かに大声で泣いている女性もいた。

 近くに寝ているのはガリガリに痩せた男性で、横の床に布を敷いた奥さんらしき女性と二人の小さな子供がいる。高血圧で意識不明になって運ばれてきたそうで、現在左半身が不随。ちょうど医師たちが近づいて今後の方針を家族に説明し始めたので、俺も話を聞いてみたが、付き添いの女性アンジェリーナ・ウィリアム「MSFのことは知っていた」と答え、夫が倒れてから自分も具合が悪いと言った。それはそうだろう。食べていくのも不安だし、まともに寝ているのかもわからない。

 さて、他の新生児室にも俺たちは入らせてもらった。一か月以内の赤ちゃんたちの6床の部屋で、奥には生後4日目の小さな、まだ名前もない女の子がいた。よそでスムーズに分娩したが乳幼児施設でないため合併症を起こし、運ばれてきて経過を観察しているのだという。

 やがて別の赤ちゃんがむずかり始め、泣いたり何か声を出したりした。その声は日本人の赤ちゃんとなんの変わりもなく、なるほど世界中どこでも同じだと思うと、不思議にこみあげるものがあった。同じ赤ん坊が苦しんでいる世界がここにあり、それを許さないMSFのスタッフがいるのだった。

小さ過ぎるベイビー
小さ過ぎるベイビー

時計を持っていないのでわかりません

 いったん外に出てトタンで囲ったトイレを見、中に戻ってコミュニティ部門のスタッフであるガブリエルと一緒にコンテナ二つ分をさいた隔離室へ近づいた。ベッドに患者さんが寝ているのがわかった。脇の金網越しになん面もある広いサッカー場があり、子供たちがボールを追っている。

 部屋から出てきたお母さんと小さな娘さんがいて話を聞く。彼女は母親の見舞いに来ていて、その母は高血圧で入院しているのだという。さきほどの男性もそうだが、紛争を経て南スーダンは今、生活病の多発の時期に入っているのだということがわかった。

「どのくらい入院なさってるんですか?」

 俺がガブリエルの通訳でそう聞くと、お母さんは困った顔を一瞬してからこう答えた。

「わたしは時計を持っていないのでわかりません」

 虚をつかれた。日数くらいはわかるだろうと思ったが、彼女たちは紛争を逃れてPOCに移り、自分たちが何日そこにいるのかはっきりしないままで時を過ごしているのだった。

 彼女の名前はスーザン・ジェームスで、娘さんの名前はメルというのだそうだった。こちらが聞くまでもなく、ガブリエルがこう教えてくれた。

「メルというのは平和という意味です」

 それだけでお母さんの気持ちはわかった。

 以後、別の施設など色々紹介してもらったが、肝心なのはPOCの病院からIMC(International Medical Corps、米国発祥の緊急医療NGO)が見えることで、そちらでは手術が行えた。だから通路でPOCとはつながれていた。それぞれが分担をしながら最善を尽くしているのである。

 そしてPOCにも、当然のことながらヘスコで囲んだ鋼鉄のコンテナがあり、いざ紛争が起こればスタッフはそこに何十人も収容される。むろん患者にも患者の避難するコンテナが用意されているのだった。

人々の生活の場へ

 POCの中を見てみようと外へ出た。

 保護区は1から4まであり、そこは1と区分けられた地帯だった。

 POCにはもともとあらゆる部族の人びとが避難していた。当然MSFも全ての患者に等しく医療を提供していた。しかし2016年2月、大統領を支持する武装勢力がPOCを襲撃。ディンカ族、つまり大統領の出身部族を強制的にマラカル市内に連れ去った。このように、いくら人びとが共に暮らしていても、対立と断絶が意図的にもたらされる。

 目の前に空き地があり、その端っこに給水塔があった。話によると、そこに登ればPOC全体がよく見えるそうだった。ということで、迷うことなくMSF舘さん、戦場カメラマンの横田さんと一緒に鉄骨を握ってぐいぐい登った。下には好奇心旺盛な子供たちが集まってきていた。

給水塔から
給水塔から

 なるほどてっぺんまで行くと四方に銀色のテントがずらりと並んでいるのがわかった。民間人保護区というが、実質はむろん避難所であり、国内難民であった。俺はこうした仮設住宅を東北でたくさん見た、と思った。

 そこには仕方なしに日々の暮らしを営む人々がいて、これはウガンダの時もそうだったのだが、道端に出来た仮の家からバタバタとドラムの効いた音楽が響き渡っていた。本当に演奏しているのか、ラジオか何かなのかがわからない。

 ともかく俺たちは放心したように、青空の下に広がるテントの群れを眺めた。人間の積み上げてきた生活が破壊され、建物は崩れ、銃撃されたのだった。川が見えたが、その向こうで男は殺され、女子供は暴力を受けながら夜な夜な船でこちらへ渡ってきた。国連がそれを受け入れ、今は仕方なくこうしてテント暮らしを続けている。

 そこで人々は子供を産み、育て、病に苦しみ、財産を失って希望なく、祭りもないのに音楽を鳴らしている。

 給水塔から見えるのが美しい空なのがむしろ困った。そのせいで空の下にある苦難が胸に伝わりづらいのだった。

 そこから歩いてPOCの中を移動した。一応、危険のないように四駆はのろのろと俺たちの背後を追ってきた。

 土手が幾つか縦横に盛られ、それぞれが長く続いていた。その土手に区切られて少し下がった空間に銀色の国連支給のテントがあり、そこここに溝が作られて石鹸混じりの排水が捨てられて溜まっていた。

 大人はたいていテントの中にいるか、その近くにじっとしている。俺たちを見て集まってくるのは子供ばかりだった。それがまた、やたらに元気がいい。飛んだりはねたりしながら、いつまでもついてくる。

 ハメルーンの笛吹男みたいに子供の大群を引き連れ、四駆を先導して歩いていると、右側にテントではない建物の扉があった。案内の人に聞くと、そこは学校なのだそうだった。

 実際、そこにだけ原色の服を見事に着こなした長身の若い女子たちがカバンを持ったままおしゃべりに興じている。がぜん興味がわき、俺はどんどん近づいて、女子たちのいる横の建物の方の扉を開けてもらった。やはり年頃の女性の様子を見るのははばかられる。

 すると小学生がぎっしりいた。狭い校庭は子供の渦だった。あとから知ったのだが、あまりに子供が多いために学校は時間で区切られてそれぞれ割り当てられた授業を受けに来るのだという。しかし、それでもなお子供だらけだ。

 俺はなんだかうれしくなってハローハローと言いながら中に足を踏み入れた。横田さんはビデオを回し始めている。そのことを知ると、校庭を囲む形の教室からもまだまだ子供は出てきた。それどころか、のぞいてみると教室にもなおたくさん子供がいる。これで授業をする先生は大変だと思うと、校長がいて先生がいた。紹介していただいて握手をする。校長たちも子供の渦の中に巻き込まれながら、口を大きく開けて笑っていた。俺も笑った。

 しばらくなんの意味もなく、学校の校庭にい続けた。子供は写真を撮ってもらいたがり、ハローと言いたがり、俺たちに触りたがった。もう存分にそうして欲しいと俺は思った。そのくらいしか自分に出来ることがない。

 わけのわからない訪問がやがて終わり、再び土手に戻ると、そこには別の時間が流れていた。時々、狭い道端に小さな机が出され、そこに商品らしきものが並んでいた。買う者がいるようには見えなかった。

 学校の時間に割り当てられていない子供がなおも俺たちの後ろを来た。たいていの男の子がサッカーのユニフォームをかたどったTシャツを着ていて、たまに人道支援団体からのTシャツの子がいた。女の子もボランティアが持ってきたのだろう古着らしきものを身にまとっているが、足が長く頭が小さいのでいちいちかっこいい。

とにかく明るい連中
とにかく明るい連中

 最も大きな土手が目の前をふさぐところまで来て、振り向いた。子供たちの頭ごしにPOCが続いていた。どこもかしこも避難民だらけだ。いつまでこれが続くのか。それがなるべく短くすまなければ、子供たちは教育もままならず、発育にも支援団体の救護が必要で、そもそも希望というものがない。

 いつの間にか少し背の大きな男の子が近くに来ていた。ヒップホップスターらしき黒人がプリントされたTシャツを着ていた。俺は彼のその姿をスマホで撮らせてもらおうとした。

 すると、男の子はにらみつけるような目で言った。

「写真やめろ」

 そうだ。その通りだった。彼らは見せ物ではないのだ。

 俺は彼に謝り、スマートフォンをゆっくりとポケットにしまった。

別の少年
別の少年