満員の国連機で北東部へ----いとうせいこう『まだまだ国境なき医師団を見に行く』(南スーダン編6)

宿舎でも現場でもミーティングが常に行われる(スマホ撮影)

国連機に乗って

 翌11月5日、俺たちは北東部のマラカルへ移動するため、早朝に起きて簡単な食事をすませた。必要な荷物以外は別の部屋にまとめて置いておけるので、その作業をすませ、四駆に乗ってすぐにジュバ空港へ向かう。

 到着の際にカメラなどを検査したエリアの方へ行くと、奥にあれこれ荷物を持ったアフリカ人たちがごった返しており、その人ごみをあてにして食べ物やビニールバッグを売る屋台が出ていた。その先に大きな白いテントのようなものがある。

 背伸びをして人の背中ごしに見ると、左手前に木で作った簡易な受付があり、そこに向かって大勢の人々が集まっていた。それがUNHAS(国連人道支援航空サービス)の受付だとわかった。看板にはカナダ、EU、ドイツ、スイス、イギリス、アメリカの国旗に並んで日の丸も印刷されている。俺たちは今からそこで手続きをしなければならないのだった。

 苦手な割り込みをしながら必死に前に進んだ。後方には別の地域に飛ぶエレンもいて、大きなリュックを背負ったままこちらに向けて肩をすくめてみせた。それはそうだ。すでにコンファームも済ませてあるはずなのに、そこに乗るアフリカ人スタッフたちは足りないものを奪い合うかのように切迫した表情で受付ににじり寄るのだ。

 それでもじっと耐えながらじりじり前に行き、ようやく書類とボーディングパスを交換した俺は、テントの奥へ歩いていって、そこで『国境なき医師団』(MSF)の舘さんとカメラマン横田さんを待った。

 奇妙なことに最も奥に台があり、その後ろに高い椅子に座ったアフリカ人老婆がいて、直毛にして渋い赤の布をまとった彼女がガムテープとハサミを持ったまま、通りかかる者に対してパスを見せて台に荷物を置けと言う。係員とも思えないのだが迫力に押されて荷物を置くと、ほとんど触ることなくじっと見てから黙ってうなずいた。それで俺の荷物は背後に運び去られる。

 他のアフリカ人の中には老婆の周囲の若者によって荷を開けられ、彼女の持ったガムテープで補修されて運ばれていく者もいた。そのへんの法則がいっさいわからない。まるで透視でもしているようだ。

 現地の部族の卑弥呼的な偉い人ではないかと思われ、民族学的な興味に取り憑かれた俺は、静かに後ろを向いて自撮りのふりをしてスマホで写真を撮った。が、しかし赤いベレー帽をかぶって銃を持った若い兵士に見とがめられ、適当なごまかしも効かず、老婆の姿だけ数枚を削除されてしまった。一体あれはなんだったのだろう。

 それをあとから来た横田さんに言うと、彼は笑いながら、

「アフリカンの視力はハンパないですからね。遠くからでもスマホの画面が見えてますから」

 と言った。さすが戦場カメラマンの体験上の話だろう。

 三人が揃ったので奥へ進むとそこでもチェックがあり、ただしX線の機械は壊れているので荷物を持ってゲートをくぐり、その前後に中を開けて係員に見せる。先に進めるかどうかはがたいの大きな青いスーツのアフリカ人にかかっていて、彼に目をつけられるとなかなか先へは行けない様子だった。

 待合室で時間まで過ごし、やがてバスで双発機のそばまで行く。面白いシステムだが、すでに飛行機のそばには搭乗者の荷物がずらりと並んでいて、各自が自分でそれを確認する。そして確認が済んだものから機内に詰め込まれるのだ。運び間違いがないという点で、これは意外にいいやり方であった。

 短いタラップをのぼって機内に入ると、ボーディングパスは回収された。特に座席の指定もないからパスは再利用されるのだ。適当に座ってあたりを見回すと、白人が4割、黒人が6割というところだった。東洋人は俺たちの他には一人もいない。ごく普通の小型機でごく普通のアナウンスがパーサーから行われ、ただし機内撮影禁止だと付け加えられた。ただの一席も空きはなかった。

待合室のやせた猫を激写
待合室のやせた猫を激写

マラカル到着

 

 一時間半ほど乗ると、ジュバ同様に平野の中の飛行場へ着いた。あたりには国連のジープが幾つかあり、そこに銃を持った兵士が乗ってこっちを見ていた。それらジープの横に懐かしいMSFのマークの四駆があった。駆け寄りたいような気持ちになった。

 そこから直接、外に出る。しかし目的のミッションキャンプまで何ヶ所かで検問があった。そこここに例のヘスコが並ぶ中、四駆が止められる。ドライバーに声がかけられ、書類にチェックが入り、同時に他の兵士が棒の先に鏡を付けたもので車体の裏を検査する。

 そうやって少しずつ進んでいくと、やがて最後のチェックポイントを過ぎる。鉄条網の中を入るとそこに看板があり、左は「人道主義者エリア」と書いてある。ちなみに右はロジスティックスのベースらしく、コンテナが並んでいる。

 人道主義者エリアには、世界中の様々な団体がしっかりしたテントやコンテナで拠点を作っており、国連の車と並んで各自の移動手段が配置されていた。そんな中、我らMSFのマラカル宿舎は最も奥、赤十字国際委員会の隣にあった。トタン屋根で中は木造だが、広々としていて清潔感があった。どんどん中に入って次々にメンバーと握手しながら自己紹介していると、一人に一部屋ずつがあてがわれた。しかも部屋は仮設住宅で見たことのあるようなコンテナ造りで、クーラーがあった。

 荷物をそこに置いてすぐに部屋を出ると、少し薄暗いパブリックな空間に三つの大テーブルがあり、幾つかの冷蔵庫があり、キッチンがあり、奥に広い洗濯場と男女に二つずつ都合四つのトイレ(フェスなどで見られるタイプ)、同じ数のシャワーが完備されている。

 そうやって“物件”を見ている間にも、スタッフが握手を求め、軽くおしゃべりがある。MSFのTシャツやベストを着た海外派遣スタッフだらけで、彼らが忙しく働いている様を見ているだけで、俺はほっとするようになっていた。すっかりメンバー気取りである。

恒例ブリーフィングの嵐

ハビエが説明するPOCと人道支援団体エリア
ハビエが説明するPOCと人道支援団体エリア

 

 テーブルのひとつを使い、アルゼンチン人のロジスティック部門マネージャー、ハビエ・マットからセキュリティなどに関するブリーフィングがあった。ひげ面のいい男ハビエは「裏の広場でサッカーをしてたら骨を折った」と恥ずかしそうに笑い、松葉杖で部屋から移動してきた。

 続いてフィールド・コーディネーター(その地でのプロジェクトの責任者)のケニア人ベンジャミン・ムティーソから全体的な話があった。

南スーダンの北東部、上ナイル州マラカルはこの国第二の都市であり、空港があり、この国にふたつある油田のひとつに近い。もともと複数の部族が共存していたが、2013年、ジュバで始まったキール大統領マシャール副大統領それぞれの出身部族の対立は一週間でマラカルにも飛び火。マラカル市の支配を巡って武力衝突が繰り返された。人々は妻や夫、親や子どもを目の前で殺され、家、家畜、農地など全財産を失った。逃げるときに生き別れた者は、家族が生きているかどうかもわからない。

 多くの人が市内から国連南スーダン派遣団(UNMISS)に向けて逃げ出した。そのUNMISSに併設する場所にPOCが作られた。『Protection of Civilian』、すなわち国連の民間人保護区だ。MSFもすぐさまPOC内に病院を作り、医療援助を開始。POC内ではしばらく複数の部族が避難生活を送っていたが、2016年2月、今度は大統領支持のディンカ族武装勢力がPOCを攻撃、なんと一万五千のテントを一晩で焼き払い、ディンカ族の人びとを強制的にマラカル市内に連れ戻したという。現在POCにはディンカ以外の部族が暮らしているが、前にも書いた通りMSFはディンカ族が支配する方のマラカル市内でも病院を再開している。

 政治や民族、宗教などに左右されず、患者第一で動く。その姿勢は地域住民たちによく伝わっており、MSFの赤いマークを知らない者はいないらしい。

 ベンジャミンのブリーフィングでは、地図上に部族間の勢力図がくわしく記されていたが、もちろん写真は撮れなかったし、文章でも再現はしない。ともかく複雑なこと、この上ないことは明らかであちらこちらで様々な部族がまさに群雄割拠しており、果たしてその状況に収まりようがあるのかと俺はため息をついた。

 暗い気持ちになったのを見て取ったのか、ベンジャミンはこう言った。

「あ、それから、国連エリアになら“ハードロックカフェ”もあるし、ジョギングしたいなら人道主義者エリアを四角く囲む道で自由にやってくれ」

 ちなみに、“ハードロックカフェ”の話はまたあとで書くと思うが、俺が知っているものとはまるで違っていた。

現地スタッフのリアルな信念

 時間があったので、宿舎の裏側にしつらえられた共有スペース、金網で仕切られているポーチのような場所へ出て、現地雇用の男性スタッフからも話を聞いた。

 目の前には空き地が広がっていた。おそらくそこでハビエは足の骨を折ったのだろうが、実際はヘリポートなのだそうだった。いかにも平和な風景が実は危機管理の地帯なのだ。

 さて、スタッフから詳細に聞けば、南スーダンに64もの部族が存在していた。シルク族、ノエル族、マバン族などなどが入り乱れる中、大統領を輩出したディンカ族が圧倒的な力で国を押さえていることになる。しかし抗争は絶えなかった。以前訪ねたウガンダでも聞いたことだが、おおかた軋轢は牛の強奪としてあらわれる。それは財産そのものであり、また名誉にもつながっていて牛を持たない者は結婚さえ出来ない。

 また武器が全土に散らばってしまったことも大きな問題で、いったんそうなったものを取り上げるのは不可能に近く、今もあちこちで銃撃戦があるのだそうだ。

 MSFの現地スタッフはそんな中、例えば国連PKOに保護されながら暮らし、しかも自らはどんな部族の患者をも助けるというわけだった。このような公正さを保つのにどれほど強い意思を持たねばならないことか。

「MSFの活動を目の当たりにすることで、視野が広がって僕は人道主義者になったんだ」

 と彼は教えてくれた。それは甘いヒューマニズムでは言えないことだ。

 事実、彼の妻子は現在ウガンダに避難し、母はスーダンの難民キャンプに、自分は父と兄弟とともにPOCに残っている。きわめて複雑な状況の中で、彼は「人道主義」を選びとったのだった。

 しかもディンカ族が支配するマラカル市内にさえ、彼らが掌握しきれていない武装勢力が潜んでいて決して安全ではないと言う。

 そんな毎日が今も南スーダンのリアルであり、現地スタッフたちの信念を問い続けているのであった。

すぐ近くに保護区のテントの群れ。紛争難民の方々が炎天下、ここに暮らしている。
すぐ近くに保護区のテントの群れ。紛争難民の方々が炎天下、ここに暮らしている。