南スーダン紛争のおさらい----『まだまだ国境なき医師団を見に行く』(南スーダン編4)

和平協定を記念する平和式典の看板があちこちに(舘さんのスマホで横田さん撮影)

善意を信じるミッション

 次の日の日曜日、俺は自分の個室で目覚め、ふと「善意を信じることが、彼らの最もハードなミッションなのではないか」と思った。彼らとはもちろん『国境なき医師団(MSF)』スタッフのことである。世界が善意を裏切り続けるからだし、嘲笑する者さえあとを絶たないからだ。

 おまけに南スーダンの政情はあまりに複雑で、そこで医療活動を続けることにはある種の精神状態でいなければならないはずだった。

 歯を磨いて顔を洗い、ゆっくり下の階に降りていくと、日曜ゆえに食事はますます自分たち次第となっており、俺も舘さん横田さんも、それどころかダイニングルームにたまたまいたスタッフが助け合う形となっていた。なぜならトースターのブレーカーがよく上がってしまったからだし、トマトオムレツを多めに作って分けてくれる者、コーンフレークを勧めてくれる者などがいた。俺はその各自に短くインタビューをした。

日曜日のランチ(各自工夫する。俺のトーストは黒焦げ)
日曜日のランチ(各自工夫する。俺のトーストは黒焦げ)

 少し休んでいると、活動責任者代理の女性から南スーダンそれ自体のブリーフィングがあるという流れになった。説明を受けたのは前日と同じく我々三人、そして大きな刺青をふくらはぎに入れたおとなしい女性とエレンの五人だった。

 彼女はTシャツにデニムの短パンで、しわがれ声だった。業務時間外のブリーフィングでカジュアルなスタイルだったらしく、どこかのリゾートに長く滞在しているおしゃれな女性といった感じだ。

 彼女はかれた声で立板に水、南スーダンの基本情報をよどみなく話した。我々はたった五人の田舎の小学校の生徒のように話を聞いた。

 国が成立したのは2011年、きわめて若い国だった。元は御存知のようにスーダンで、南スーダンはそこから独立した。前者はイスラム教徒が、後者はキリスト教徒が多数を占める国だ。かつては双方、英国エジプトに支配されていた。

 それはともかく、スーダンからの分離独立までの道のりも厳しかったが、せっかくの独立のあと、80年代からすでに内戦が起き、周囲の国からの干渉も激しくなった。

 資源には石油とウランがあり、そこに莫大な金が動く。しかし飢えがあり、マラリアがあり、コレラや他の伝染病、隣国にはエボラ出血熱が徘徊していた。富の取り合いと、危険の両方が南スーダンに常在してきたのである。

 さらに、そこに部族の問題がからんだ。特に南スーダンは多部族で構成された国だ。

 最大部族はディンカ。そこにヌエル族シルク族がからむ。大統領キールはディンカ族の出で、内戦の結果追い出された前第一副大統領マシャールはヌエル出身だった。もともと、彼らが権力争いを始めれば南スーダンの分裂は必定であった。

 それが2013年暮れから事実上の内戦に入る。途端に国内避難民は増え、難民も国外へと逃れ始めた。国連によると昨年(2018)の初頭までに240万人が難民となって国外へ脱出し、ほぼ同数が国内で避難生活を送っている。その八割が女性と子供で、子供の六割が18才以下だそうだ。俺が前回訪れたウガンダは、北から流入し続ける難民のうちの100万人をすでに受け入れてきた。

 ちなみにその間、あるイギリスの機関によれば内戦による死者は40万人にのぼり、半数は直接的な戦闘で命を落としたという。とどまっても地獄、逃げても地獄だ。

 そこで国連PKOが当然、入った。日本の自衛隊が武器を携行してPKO活動に参加したのは、こうしたハードな場所だった。しかも内戦勃発からそれほど時間が経ってないうちだったから、日報が隠されているのにはそれなりの理由があるだろうと推測せざるを得ない。 

ちょうど2日前の平和式典

 不思議なタイミングだが、その南スーダンを俺たちが訪れたちょうど2日前、首都ジュバではキールとマシャール両氏が出席のもと、9月に実現した和平協定を記念する平和式典が開催されたばかりだった。和平協議は南スーダンの周辺各国や、『トロイカ』と呼ばれる三カ国(アメリカ、イギリス、ノルウェー)の主導によって締結された。ちなみに、この合意の裏にも中国が見え隠れしているらしい。そろそろ停戦しないと財政支援を打ち切るとの圧力がかかったというのだった。

 確かに俺たちが走ってきた道路のところどころに大きな看板が立ち、そこに大統領と副大統領らしき人物の写真が印刷されていた。デカデカと『和平協定』という文字が踊っていて、なぜか後ろにピラミッドが配置されており、かつてエジプトに支配されていたことの文化的影響が見て取れた(取れたといっても、このブリーフィングを受けている途中に「なるほど」とうなづいたわけだが)。

 和平協定の記念式典が盛大に開かれる一方で、MSFも活動各地で暴動への備えを厳しくしていたそうだった。なにしろたった一年前(2017年)、恐れ知らずのMSFでさえ南スーダン国内の一部プロジェクトで、スタッフの撤退や規模縮小を余儀なくされたことがあったという。和平協定に反対する勢力がいきなり暴れ出す可能性は小さくなかったのだ。

 その政情がとりあえず安定していた。短期間であれ、政情が落ち着いていることは、例えば俺のような経験不足の作家が取材に入れる程度には楽観的な観測を許したのだろう。事実、2018年は全土で衝突が減少していたとの報告もある。

 ひとまずこれからマシャール元副大統領が復帰し、暫定統一政権が発足する。その任期の三年間が無事明ければ、本格的な内戦停止とみなされるのだそうだった。

 ここにきわめて微妙な、しかも国際的な機関を含んだ駆け引きがあることは、以上様々な事実で理解出来た。

 俺たち田舎の小学生は、ここまでを真面目にメモした。

MSFの活動について

 さらに説明されたのはMSFの活動である。

 例えば南部ヤンビオでの小児科支援の開始。ここの病院は元々HIVプロジェクトを担っていたのだが、マラリア症例の増加など、より緊急な医療ニーズに対応すべく方向を変えたのだそうだ。

 しかもズシンと重いのは、小児科支援の中に「少年兵を解放した上でのメンタルヘルス」が含まれていることだった。彼らは幼くして憎悪を植えつけられ、目の前で人が殺されるのを目撃し、自らもそれを行う。もしただ解放されたとしても、体験は一生重くのしかかり、ふとしたはずみですぐに憎悪の連鎖へと彼らを誘ってしまうのだ。

 また、南部はコンゴ民主共和国の北部と国境を接しており、その地域ではエボラ出血熱が発生しているから、当然MSFも警戒をせねばならなかった。

 さらに北東部アブロックでの一次、二次医療(一次とは外来診療、二次とは入院治療)およびアウトリーチ、すなわち往診。

 他にもウーランという場所で、3週間前から新プロジェクトが発足しており、反政府エリアでの活動が始まっているそうだった。ここで出来れば現地スタッフを雇用したいのだが、政治的に対立する患者には反発があり、繊細な説得が必要とされていた。

 また、俺たちがすぐ取材へ出かける予定のマラカルという都市のそばにある、POC(国連民間人保護区)内病院での医療活動。そして都市内にある40床の病院の運営などがあった。

 ちなみに、マラカルになぜふたつの病院があるかといえば、ウーランと同じ問題のせいで、前者は政府軍に追われた避難民のための医療を行う場所であり、後者は追い出した方の政府側地域にある病院で、しかしMSFは双方に医療を提供したいのだった。

 こういう複雑さが紛争国での活動の常識なのだな、と俺は納得した。どちらが善でどちらが悪という画一的な見方では、とうてい被害者たちを救うことが出来ないのだ。

タフなネゴシエーション

 実際、前夜ダイニングルームにアドリー・メンギストゥ・エンデショウというエチオピア人医師が帰ってきており、医療チームのトップである彼が教えてくれた話もそうだった。

 彼はその日、日帰りで北部へ行き、反政府勢力にも医療を施せるよう彼らを説得してきたのだと言った。ただ、反政府勢力がそれを受け入れたとしても、今度は政府側にもうまい交渉をしないといけない。なぜなら病院に政府側の勢力を入れないように説得する必要があるからで、逆に反政府勢力にも自分たちの息のかかったスタッフを入れないように話さねばならなかった。

 そのように医療が中立を貫くべきであることを理解してもらうのに、アデリーはこれ以前にも何度も足を運んで粘り強い話を続けてきたのだそうだった。

 MSFの、しかも医療チームがそうした交渉を危険地帯でしていることの立派さに俺はシンプルに頭が下がった。彼らは「どちらが善でどちらが悪と考えない」としても、それでもなお、どちらに対しても善意を向けてやまないのだ。

 したがって翌日のブリーフィングでも、南スーダン各地で同様のタフなネゴシエーションが続いていることを知り、小学生男子たる俺はますます「そこまでして医療を提供する精神と行動力」にしびれてしまったのである。