再び旅に出る---いとうせいこう『まだまだ国境なき医師団を見に行く』(南スーダン編1)

いまや懐かしくもあるMSFの四駆と鉄条網(いとうスマホ撮影)

再び旅へ

 2018年11月1日。

 俺はまた多くのワクチンを数回に分けて打ち、成田空港にいた。行き先が決まったのは一ヶ月前。

 南スーダンであった。

 これまでも俺は世界あちこちに展開する『国境なき医師団(MSF)』の活動地を訪ね、そこで様々な仕事にいそしむ人々を見てきた。そして取材を一冊の本にまとめて前年末に出版したりもした(『国境なき医師団を見に行く(講談社)』)。

 しかしなおかつ、結局何も見ていない気もしていたのである。彼らMSFの参加者はもちろん、その彼ら彼女らに助けられている人々それぞれの窮地のひとつもわかっていない。

 それで俺は本を出す作業をしている時分から、MSF日本の広報で同行者だった谷口博子さんにまだまだ取材は続けますと言っていた。残念ながらその谷口さんはMSFを辞め、現在東大大学院に入って国際保健や公衆衛生などを学び直している。世界の人々が医療を受けられるように最先端の理論と実践を身につけようというのである。

 そういう態度の人を「ヒューマニタリアン」と言う。

 人道主義者だ。

 世界ではしごく当たり前のこの人道主義が日本では小馬鹿にされる。俺がかつて書いた東日本大震災に関する小説に関しても、「この作家はヒューマニズムに屈した」みたいなことを言った人がいたようだ(俺は特に最近選評をほとんど読まない。さほど役に立ったことがないから。字数が少ないコメントだと、アマゾンの書評欄とさして変わりがなくなる)。

 しかし、人道主義がなければUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)はない。もちろんMSFもないし、ユニセフ(国連児童基金)もなければ、セーブ・ザ・チルドレンもない。果たして彼らは甘ったるい自己満足で活動している組織だろうか。

 一度海の外に出れば、しかも素敵なリゾートとかブランド物であふれる都市だけ見て歩くのでなければ、それら国際機関やNGOが国家と同等のような資格で厳しいルールを自らに課しながら動いているのがわかる。つまり世界は国家だけで出来ていないのだと実感される。難しいことでもなんでもない。難民の人々が暮らすテントにそれら団体のマークが付いている。だから難民の方々はよく知っている。どこの国家も信用出来ない時、彼らが頼るべき組織は人道主義団体しかないのだ、と。

 むろんそれら団体が完璧だというのでもない。彼らのバックボーンには特定の宗教心がないとは言えないし、国家を揺さぶるためのなんらかの政治的意図がある可能性も否定出来ない。ただ、それでも彼らは役に立っている。国を追われ、飢餓に苦しみ、レイプされ、とんでもない破壊力の伝染病にさらされている者を救うのは、今のところ人道主義者たちだし、彼らなしでは弱者がいつまでも弱者のまま滅びていくだろう。

MSF舘さんと戦場カメラマン横田さん

 と、なかなか取材場面に移らないのは、ひょっとすると今回の同行者がMSFの舘俊平さんという冷静でユーモラスな男性以外にもう一人、戦場カメラマンとしてニュース番組で見たことのある横田徹さんだからかもしれない。

 我々はまずドバイに向かう搭乗口で、あるいは南スーダンの首都ジュバへのトランジット時に、現在の日本の状況についてよく話した。折しもジャーナリスト安田純平さんが帰国し、自ら記者会見を行う日だった。

「後藤さんは亡くなって誉められ、安田さんは生きて帰って吊るし上げられてるんですよね。死ねばいいんでしょうか、我々戦地を知ろうとするジャーナリストは」

 常に笑いながら寸鉄釘を刺す横田さんはどこかの場所でそう言った。飛行機に向かうバスの中でだったか、ジュバの一週間ほど前まではテント同然だったという飛行場の中、なかなかイミグレーションが終わらない施設内でだったろうか。

「欧米メディアは優秀なジャーナリストを責任持って雇います。日本は責任を回避するためにフリーから映像を買うんですね。そして面倒なことになるとフリーを責めます。個人の責任を問う形で」

「そうでありながら、責任を問われるような場所に自衛隊を出したりもする」

「そうなんですよ」

 汗をかき始めていた記憶もあるから、やっぱりジュバで新札100ドルを入国のためにマジックミラーで囲まれた入管の部屋に納めたあとの、審査の列でかもしれない。三つあるイミグレーションの窓口のうちの二つで広げられたノートブックパソコンの背中に、三枚のシールが同じように貼ってあった。ひとつはIOM(国際移住機関)、この機関は南スーダンのあらゆるところに展開していた。我々の取材先が難民キャンプに準じる場所だったこともあろう)、ひとつは南スーダンの国旗、そしてもうひとつは意外にも日の丸で、その下には英語で「日本国民より」と書かれていた。

 舘さんによると、このシールはODAで提供された医療機器や橋などによく貼られるもので、パソコンがジュバ国際空港整備事業の一環として供与されたことを示しているらしい。「日本国民より」と書かれているのは、税金でまかなわれたという意味になるようだ。

 さて、官僚かどうかもわからない現地の人が次々出て来て違うことを言うイミグレーションを経て、出来たばかりの小さな二階建ての空港を出ると、外は曇りがちながら蒸し暑く、すかさずカメラを構えてシャッターを切った横田さんはすぐに近づいてきた警備の軍人にきつくやめろと言われた。とはいえ、横田さんは当然わかっていて数枚を撮ったのだろう。顔がすっとぼけているのでおかしかった。

 建物の前はすぐ駐車場になっていて舗装されていたが、その上にびっしり赤土が乗っかってしまっていた。風が運んでくるのだ。

 我々は舘さんが見つけた現地MSFスタッフに拾われ、急いで飛行場脇の掘っ立て小屋みたいなところに連れて行かれると、申請していたカメラやバッテリーなどのすべてを役人と警察官と共に照合させられた。そうしたちょっとした緊張感は、トランジットのドバイでアフリカ便の空港へ移動していた時にもあって、横田さんはそこでも構えたカメラをおろすよう注意を受けた。すると横田さんはヒゲに囲まれた唇で言った。

「ドバイからは戦地にも飛行機が飛んでますから、すでに警戒してますよね。ぴりっとした、いわば戦地の匂いがします」

途中ドバイからの便ではヌンチャク携帯禁止
途中ドバイからの便ではヌンチャク携帯禁止

 そんな匂いをかぎとる男と、のんびりした俺などが一緒に南スーダンで十日間ほど過ごすことになるのだから、これは前回とはまた一風異なった取材になるに決まっていた。

 我々をMSFのマークが付いたピックアップトラックに乗せたのはOCBの車だった。OCBとは世界に5つあるMSFのオペレーション・センターのうち、ブリュッセルに本拠を置く事務局である。しかし今回我々の取材を受け入れたは事務局はバルセロナを本拠とするOCBAである。スタッフの空港への送迎は各オペレーション・センターの車を融通しながら行っているらしかった。

冷房など当然ない四駆に乗り込むと、現地スタッフのドライバーが無線を持ち、本部と連絡を取った。ハイチで経験したことのあるスタイルだ。

 出発からわりとすぐ、舗装道路から外れてとんでもないがたがた道に入った。戦車でもよけるためだろうかと思うほど、その道はのろのろ運転を車に強要した。それもハイチと同じだった。あるいはウガンダだ。

 到着すると鉄扉が開いて、四駆が中に入った。白人スタッフが三人立って話をしている。降りて挨拶を交わし、舘さんが聞いたところによると、彼らが出て来た二階建ての洋館は、一階をOCP(パリ)が、二階をOCBAが使用する共有の建物なのだという。

さらに鉄扉の向こうにはOCB(ブリュッセル)、付近にもOCA(アムステルダム)の入った建物があるらしく、これは私には初めてだったが各組織がきわめて近い場所でひしめきあっているのだった。もちろんそれは南スーダン首都シュバがいかに危険な地帯かを示しているのだろう。

ジュバ空港ではエボラ出血熱を警戒
ジュバ空港ではエボラ出血熱を警戒

セキュリティとディグニティ

 その日のうちに我々はMSFの規則通り、連絡用のあれこれを貸与され、レクチャーを受け、地図のコピーをもらって昼間だけ自由に出られる区域があまりに狭いことを知らされ、何時までに宿舎に帰らなければならないかの門限があることを叩きこまれた。ブリーフィングに次ぐブリーフィング。

 その過程で匿名希望のお洒落で迫力ある女性広報マネージャーに注意点を並べたコピー用紙を渡されながら言われた言葉をここに挙げておく。

「さあ、よく読んで。その上でセキュリティとディグニティには特に注意すること」

 セキュリティはいわば自分の安全のことだった。

 そしてディグニティとは、取材される南スーダン人の「尊厳」を絶対に傷つけるな、という指令である。

 女性マネージャーの横には実際、ウガンダでジャーナリズムを学んだという南スーダン出身のムサ・マハディという若い男性がいて、ブリーフィングに参加していた。

「ムサさんはなぜ『国境なき医師団』に入ったんですか?」

と思わず俺は聞いた。2011年、我々が東北大震災の被害を受けた年にスーダンから独立した南スーダンだが、内戦は1955年から始まり、長く続いた。しかも建国後も民族対立は絶えず、大きな内戦が起きた。何万人もの人々が亡くなり(戦争で飢餓で病気で)、国連によると250万の人間が家を捨てて難民となった(うち100万人を受け入れたウガンダを俺は前回取材したわけだ)。

 おそらく二十代後半くらいの年齢と思われるムサさんは、つまり平和を知らない。生まれてからずっと戦争が続いているのだ。

 そのムサさんはこの国で特に困難なジャーナリストであろうとしている。そのためかどうかわからないが、彼は同時にMSFの一員、現地の広報担当者となって活動している。 

「わたしは」

 と少し考えていたムサさんは口を開いた。

「人々に力を与えたいんです。小さな頃から、わたしは学校でそう発表していました」

 やせた体でムサさんは淡々と言った。

 淡々とだけれども、その言葉の重さ、複雑さは尋常なものではなかった。

 ジャーナリストがすべきことのすべてがそこにあると俺は思った。

 人々に力を与えること。

 それはあらゆる圧力をはねのけ、正しい平和を吟味してもたらすことでもあるだろう。

 たぶん。

 建物の外に出て、しばらく四駆が宿泊施設へ出発するのを待った。鳥の声が絶えず響いていて、ジュバはすっかりのんびりしているように感じた。

 だが気づけば塀の上にはぐるりと三重になった鉄条網が設置されていた。

 隣の敷地に立つ細長い木の頂上に灰色の鳩が一羽いて、それが他の鳩と場所を争い出した。追い落とされた方の鳩はすぐにまた頂上へ来て、相手を蹴ったりつついたりした。それが愛の季節のせいなのか、縄張りを巡る抗争なのか、いくら見ていても俺にはまるでわからなかった。

<続く>