昭和30年代のような路地ーーーーいとうせいこう『国境なき医師団』を見に行く(フィリピン編3)

電線だらけのスラムを少し上から撮る(スマホ撮影)

ケニア人ジェームス

 ケニア人ジェームス・ムタリアはどこからどう見ても冷静な巨漢で、現地オフィスの隣にもうひとつある部屋の奥で椅子に腰かけ、細縁の眼鏡の向こうからつぶらで少し眠そうな視線をこちらに向けている。そして時々表情を変えずにジョークを言う。

 俺と谷口さんは活動責任者ジョーダンからブリーフィングを受けたあと、プロジェクト・コーディネーターであるジェームスからも話を聞いたのだった。熱っぽいジョーダンの説明と違い、ジェームスは簡潔に自分たちの役割と将来像を語った。

 当然それは例のリプロダクティブ・ヘルスに関わっていた。そして最も重要なことは「LIKHAAN(リカーン)」という団体との関係だと彼らは両者ともに強調した。

 リカーンは医師が創設した地元NGO団体で、80年代以来、社会から取り残された女性と家族を対象としたリプロダクティブ・ヘルスケアの提供を活動の主目的としている。故マルコス大統領の独裁時代、メンバーは反マルコス・グループとして非暴力運動を繰り広げ、1984 年からは「Gabriela」という女性団体の一部でもあったが、1995 年に「リカーン」として独立した。その医療活動は今に至るまでたゆまず続けられ、スラムの民衆の信頼を得て、その中に深く入り込んでいるそうだった。

「我々OCP(オペレーションセンター・パリ)は」

 と静かな男ジェームスは下からのぞき込むような仕草で言った。

「彼らと手を組んで活動することを決めた。リカーンと共に歩むことで、スラムのより奥まで活動が行き届くからだ」

 マニラに「錨を下ろす」こと自体が緊急援助で有名な国境なき医師団(MSF)にとって珍しいと前に書いたが、現地の団体と連携する方針もまた非常に希なことだった(地中海で他団体と共に救助船を出してはいるが、それは主に彼らの技術や装備によって話が進んでおり、リカーンとのように医療NGO同士が連携するのとは異なっている)。

 さらにジェームスはミッションを素早くまとめて語った。

 リカーンと共にファミリープランニングを広めることの他に、性暴力の調査と対処、子宮頸癌の検査・治療と予防、無休の産科を作る、性感染症の予防と治療、医療保険加入へのサポート、巡回医療の確立……

 以上には「無休の産科」「巡回医療」などまだ着手出来ていないことも入っているが、彼らのビジョンとしては始められるところから確実に進めようとしているらしく、そこにはフィリピン社会との難しい問題もあった。

 例えば、彼らの多くはカソリック教徒である。今年ようやく法王が中絶の罪を許す期間を無期限とすることを明らかにしたが、それでも信者は産むことを選ぶ。というか、周囲が中絶を許さないから、貧困家庭はより貧困になる。彼らは避妊を知らず、知っても抵抗があり、妊娠すれば必ず産まねばならず、育児にまた金がかかり、子供と共に貧困が深まり、という悪循環だ。

 また、もうひとつ非常に重要な問題が横たわっている。フィリピン自体はすでに貧困国ではなく、中所得国だということだ。通常は国際機関、あるいは団体の援助の順位が下がるのである。その首都マニラの中に広大なスラムがあっても、全体が中所得国であるがゆえに、例えば安くなるはずの薬価が一般価格になってしまう。実は貧困国よりも援助が行き届かない現実がそこにはある。

 ジェームスたちのミッションは、だからこそ難しいのだった。簡単に進みそうなことのひとつひとつに壁があり、したがってリカーンのような現地組織との連携が必要なのだ。

スラムへ

 

 さて、ブリーフィングが終わると、まさにそのタイミングでオフィスのフィリピン女性が飛び出してきて、俺にスタッフの電話一覧表をくれた。話が済むのを陰でじっと待っていたらしい。

 彼女は「日本で有名な作家さんなんですよね?」と俺に微笑みかけながら言った。「そんなことないですよ」と答えると、彼女は「いえいえ知ってます。あたし、ネットで調べたんですよ」と恥ずかしげに、しかし人懐っこく言う。そうした気遣いの細かさに、俺は自分が小さな頃の日本と同じものがあると感じた。俺たちが失っている雰囲気を、彼女は持っていたのである。

 あれやこれやが完了して、俺たちはジェームス、ロセル、そして現地スタッフのくりくりした目のフィリピン人男性(健康教育担当スタッフのジュニー・アベラジュニ)と共に、バンに乗り込んだ。

 車が発進してすぐ、右側に芝生の美しい公園が見え、スペイン建築らしきものが確認出来た。それがイントラムロスという観光地で、左の海岸手前にも芝生の一帯があった。実際に中国からの観光客だろうと思われる団体がバスから降りていた。

 ところが、公園地帯を過ぎて川を橋で渡ると、すぐに掘っ立て小屋の連続になった。左側には巨大なトラックのタイヤが積まれ、その脇に大量の土砂とゴミが山になっていた。ところがそれはゴミ置き場ではなかった。後ろ側に崩れた木造の家々があり、人が歩き回っている。男は上半身裸が多かった。うろうろする幼児の中には丸裸もいた。

 気がつけば、道路の中央分離帯にも女性が数人いて横になって眠っていた。彼女たちのすぐ横をトラックが往来していた。

 スラム地帯はきれいな観光地の隣に広がっていて、行けども行けども終わる様子がなかった。あまりに即座に景色が変わったので、感慨の持ちようがなかった。スラムを抜けたなら気持ちのまとめようもあったろうが、木造の半ば潰れかけた小屋や、建て増ししていびつになった家、からまる電線はいつまでも続くのだ。やがて、それらの間に人が通れるかどうかの道があり、奥にずっと小屋が並んでいるのがわかってきた。

 とんでもない密集度で人が暮らしていた。

 と、そういえば自分がスラムのどの地点へ行くのかを俺は把握していないのに気づいた。

 一体俺は何をしているのか。

 目の前の状況を客観化出来ず、そこに援助が届く気もしなかった。ただただ手のつけようもない貧困がそこにあり、おそらく車で別方向に20分も行けばマカティという超バブルなビル群のある地域なのだった。差は歴然とし過ぎていて、かえって不明瞭な気がした。すべてがあまりに露骨だった。

 

 バンが右折し、狭い道の中に入った。

 屋台があり、子供たちが走り、大人はこちらをじっと見ていた。頭上に電線が行き来していた。

 そうやって実際にスラム内に入ると、俺は視界に飛び込む光景を懐かしいと感じた自分が育った昭和30年代の東京も、ほとんどそんな雰囲気だったのだ。俺の家それ自体、壊れそうな木材とトタンで出来ていた。

 車が止まった。

 ジュニーがまず降り、ジェームスも巨体を揺らして黙って続いた。ロセルもあとを追い、俺も谷口さんもそうした。スラムに音は少なかった。静かな横丁だった。

現地団体リカーンのオフィス
現地団体リカーンのオフィス

 ひとつ3階建てだったか、広めの家があった。向かいにもスペイン風の別荘めいたものがあったから、スラムでもすべてが一様に貧しいわけではなさそうだった。

 その広めの家にジュニーやジェームスがにこやかに入った。狭い廊下の先の方で明るい挨拶が交わされていた。

 皆にしたがって俺も2階に上がった。10畳ほどの会議室があって、大きなテーブルが置かれ、まわりに椅子が点々とあった。

 量の多い髪をした浅黒い顔の中年女性が、目を細めて各自に声をかけていた。彼女がリカーン側のプロジェクト・コーディネーター、その名もホープだった。黒い袖なしのワンピースにやはり袖なしの丈の長いジャケットをはおった彼女、ホープ・バシアオ-アベッラは実に元気な人で、挨拶をするジェームスの腹に自分の身体をぶつけるようにして歓待の意を示した。笑う彼女のがらがら声はひときわ大きかった。ホープが笑うと、無口だと思っていたジェームスもよく笑った。

ジュニーがリカーンのスタッフと笑いあい、エイズの啓蒙を進める
ジュニーがリカーンのスタッフと笑いあい、エイズの啓蒙を進める

 外からバイクの音と子供の声が響く中、それからはしばしホープの説明が続いた。使われてすっかりくたびれた緑色のノートを彼女は出すと、急に知的な目になって白髪混じりの髪をかき上げながら現状を俺たちに訴えたのだ。

 プロジェクトの責任者であり、元来活動家であるホープにとって、ファミリープランニングの遅々たる進み方は決して満足出来ないものだった。おまけに5年に1度ずつ更新される医薬品の使用許可のうち、避妊薬に関して最高裁はまだ結論を出していないとのことだった。それまで使っていた避妊薬が不使用になったらどうすればいいというのか。

 ホープはさらに助手の若い女性が持ってきた白い布を壁にかけ、そこに幾つかの英語のスライドを映して彼らリカーンの活動を教えてくれた。あまりに熱量のあるホープの説明は、避妊用インプラントの値段からそれまでのフィリピンでの使用率データ、生命は受精からが個体なのかどうかの議論、薬事法の変遷と多岐に及んだ。

 やがて頭の中がしっちゃかめっちゃかになってきて、俺は子供の頃の夏休みに親戚のおばさんの難しい話を聞いている気分になった。それでも明確にわかることがひとつだけあった。

 目の前のホープおばさんは、既定の方針を一方的に話したいのではなかった。彼女は様々な問題を俺と共有し、その上で議論をしたい様子なのだ。日本から来た俺、フィリピン女性であるロセル、そしてケニア出身のジェームスから意見を聞こうと考えているのである。活動家としてよく鍛えられた人間の姿がそこにはあった。

 そして彼女はますますがらがら声で笑った。誰かが意見を言うと自分の主張をし、笑うのだった。この国の活動家は陽気でないとやっていけないのかもしれない。

 ブリーフィングの終わりに彼女がこう言ったのを思い出す。

「子供を持つかどうか。それを教会、政治、法律、隣人が決めてしまうのが私たちの国なのよ」

 この言葉のあとに彼女は笑わなかった。

 少し皆に沈黙があった。

 ホープは顔を上げてにっこり目を細めた。

「みんな何食べる?」

極上のスラムめし

 やがて彼女について外へ出た。

 さっき白い布を出してくれた若い女性も横についてきてくれていた。

 MSF側はジェームス、ロセル、ジュニー、そして俺と谷口さんだった。

 スラムと言っても道は車が通れるくらいあり、両側に屋台があってにぎやかだった。犬が歩き、自転車が引くタクシー(トライショー)が走っていた。ホープがすたすた行くのであわてて小走りになったが、彼女はそっちの道に入れと指示したきり姿をくらました。どうやら煙草を買いに行ってしまったらしい。

おだやかなスラム街
おだやかなスラム街

 若い女性一人にくっついて俺たちは小道を行った。両手を広げたらくっつくほどの幅の道だった。上に青いビニール布が貼ってあった。丸椅子を出して床屋を営む者、目の前で洗い物をする女、売店の狭い板の上にある黒ずんでカビだらけのバナナ、カラオケを出して歌っている者などなど、なんというかそれぞれがいたしかたなく好き勝手に生きている気がした。

 その勝手さに再び俺はかつての日本の姿を見て懐かしく胸を衝かれた。だが、彼らスラムのフィリピン人たちに「高度成長期」が訪れるとは想像しにくかった。それが問題なのだった。

 ずいぶん行ったところに広めの板がせり出しており、そこに銀色の食べ物容器が並んでいた。奥の家で調理した様々なおかずがそこに入っていて、細い板で作った長椅子に座って白めしをかっこんでいる若者もいた。椅子の下には犬と猫が一匹ずついた。

 おかずには鳥の甘辛煮、野菜炒め、ゆで豚、魚を揚げたもの、パスタ、そしてなんとゴーヤチャンプルーまであった。俺たちは言われるままにそれぞれ好きな物を選び、店のおばさんにポリエチレンの薄い袋に入れてもらって、やはり頼んだ白めしを袋に入れてぶらぶら元の建物まで帰った。危険なムードはまるでなかった。

 オフィスで皿を借り、スプーンを借りて食べたその「スラムめし」のおいしかったこと(俺の選んだゴーヤチャンプルーは沖縄のそれと素材も味もまったく同じで、このメニューの世界性を感じさせた)。

 しかも、値段は各自40円くらいなのだった。

食堂の長椅子の下
食堂の長椅子の下
ゴーヤチャンプルー、揚げ豚、ごはん
ゴーヤチャンプルー、揚げ豚、ごはん

 

 

 続く