あまりに知らないスラムのことーーーーいとうせいこう『国境なき医師団』を見に行く(フィリピン編2)

マニラのMSFオフィスに積まれた配布用コンドーム(スマホ撮影)

過去回はこちら

現地オフィスへ

 そして2016年11月22日、早朝に一度起きてWIFIのつながったスマホを見ると、福島で震度5弱の地震が発生していた。報道やツイッターでのつぶやきをちらほら読む限り、日本が安全で『国境なき医師団(MSF)』活動地が危険だとは決して言えなかった。世界のどこがMSFの活動地であってもおかしくないし、実際先日の熊本地震では日本がそうだったのである。

 7時半に前夜買っておいたパンを食べ、インスタントコーヒーを飲み、待ち合わせ時間ぴったりの8時に広報の谷口さんと共にマンションの1階に降りた。フロントに女性係員がいて、外には警備員がいた。それは24時間体制であるらしかった。

 建物を出ると白いバンが止まっていて、フロントガラスの端に小さくMSFのシールが貼られているのがわかった。ハイチなど同じくエクスパッツ(外国人派遣スタッフ)は決められた車で移動するとは聞いていたが、四駆が必須でない地域ではその横腹に目立つように名前を貼ったりせず、カスタマイズを最小限にするらしかった。

 異なる点はまた、車の出発前と到着時に氏名を確認しないことにもあった。現地オフィスがスタッフの動きを逐一把握するスタイルではなく、どうやら自分たちで視認する程度でよさそうだった。

 中にはすでに青いシャツを着た活動責任者のジョーダンがいた。挨拶するとすぐに「よく眠れたかい?」と聞いてくる。実際マラテ地区の道には朝方まで車が走り、クラクションを鳴らし、例のキャバレー風の店から女性たちの嬌声が聴こえ続けていた。だから、俺もひどく早い時間に起きてしまったのだ。

「なんなら耳栓があるから言ってくれればいつでも」

「あ、ありがとう。とりあえず大丈夫」

 そう答えつつ、後ろの座席に巨体のアフリカ人がいるのに気づいて軽く挨拶すると、彼ジェームス・ムタリアは眼鏡の奥のクリッとした目を動かして小さな声でようこそと言い、そのまま口をつぐんだ。この独特な人物に関しては、また別な場所で書こう。

 その日、マラテのマンション前からすぐ近くのエルミタ地区にある現地オフィスまで行くのは、この4人だった。

 着いたのは5分もしないうち。まったくもって至近距離であった。目的地の建物の入り口にも警備員がおり、中のフロントに人が詰めていた。マニラ自体がセキュリティ度の高い国であることを、俺は思い出した。昔中心部で夕飯を食べた時、レストランの入り口にウージー銃のようなものを持って立つ男がいたことなどを。

 そこは変わらないんだなあ。

 と思っているとエレベーターの前に小柄なアジア女性がいて、手にテイクアウトのコーヒーを持っていた。ジョーダンが彼女に挨拶をし、俺たちを紹介した。後ろから、身体の大きなジェームスはチノパンを低くはいた状態でゆっくり近づいてくる。

 彼女はMSF香港の広報スタッフ、ロセル・アン・G・ジュニオだった。その時は気づかなかったのだが、俺たちの取材を現地でコーディネートしてくれるのが彼女だった。ロセル自身フィリピン人なのでタガログ語の翻訳もしてくれる上、かの国は多くが英語堪能なのでこちらとの意思疎通も安心出来る。MSF香港の所属ではあれ、彼女はフィリピン人スタッフとして、今回ジェームスから要請を受けて俺たちのために日々働いてくれたのであった。

 さて、8階の現地オフィスへ行き、2部屋に別れたうちの海側に入って現地スタッフと握手などした俺たちはやがて大テーブルを囲んだ(ただしジェームスはすぐに別の部屋の自分のデスクの前に黙ってひょうひょうと移って行ってしまったのだが)。

 そこからがつまり、活動責任者によるマニラ・ミッションの概略説明であった。

なぜMSFが都市部にいるのか

 元来MSFは度々フィリピンの災害時に出動をしていたのだ、とジョーダンは話し始めた。それは1987年い始まり、数度の地震や津波被害への緊急救助活動を経て、ミッションは2013年の台風30号ハイエンの時にも及んだという。この未曾有の被害を生んだ台風では日本からも1000人を超える自衛隊員が派遣されたから記憶に新しいだろう。被害は深刻なものだったし、治安が悪化して武装集団と治安部隊との銃撃戦も起こった。ちなみにMSFの初動に関する日本人スタッフのインタビューがこちらだ。

 このミッション時、MSFはフィリピンに「錨を置いて」活動する必要があるんじゃないか、と考えたのだとジョーダンは言った。この考えが彼らにとって相当に特異であることは、たった2度の取材しかしていない俺にもわかった。MSFと言えば、“災害や紛争があればすかさず現地入りする組織”として有名だからである。

 彼らは先進国や新興国(中所得国)での災害の場合、風のように現れて、風のように去るのが通常なのであって、それも特に発祥の地パリにオペレーション・センターを置く、“緊急”援助にひときわこだわりのあるOCPが、「錨を置いて活動する」必要性を感じるというのはきわめて変わったことなのだ。

 では彼らはフィリピンの何に継続的な援助があるべきだと結論づけたのか。

「理由がトンド地区だ」

 活動責任者ジョーダンは立ち上がり、入り口近くの壁に貼られた地図に近づいた。

「我々がいるのはここ」

 俺も谷口さんも、それどころかロセルも地図に急いで寄っていった。ジョーダンがペンの先で示しているのは地図の南だ。

「そしてトンドがここ」

 ジョーダンはペンでくるりと輪を描くようにした。

ジョーダンが地図について説明を始める
ジョーダンが地図について説明を始める

 それはパシッグという川の北にある、およそ9キロ平方のゾーンだった。

「ここがおおむねスラムとなっている。我々の活動はこのスラムへの援助だ」

 ジョーダンの話ではトンドに60万人が住んでいるとのことだった。最初は広い地区だと思っていたが、頭の中で人の数を割り当てていくと3キロ平方に20万。およそ1キロ平方に7万人

「過密で、しかも人々は貧困に苦しんでいる」

 だからこそ医療不足も暴力もそこにあり、しかもその地区が都市の内部に抱え込まれてあることが事態を複雑にしていた。

 そもそも、地図の中のパッシグ川のすぐ下は有名な観光地だった。そこにはスペイン占領時の最初の要塞があったはずだ。緑色が事実、地図にも広がっていた。芝生が美しい公園のような場所に違いなかった。

「だが、そこにも」

 ジョーダンは観光地イントラムロスの西に打たれたピンク色の丸印を示した。

「人口密集地がある」

 なんのことかと思う我々の前で、ジョーダンは地図の一番上を見るように言った。

 そこには6つに色分けされた丸があり、右側に数字が書かれていた。説明上手な活動責任者の言葉によると、数字は世帯の数だった。同じような面積でも下に行けば行くほど過密であり、ピンクなら最大1600世帯ほど。さらに灰色だと3200世帯かそれ以上だという。一世帯に4人としてもおよそ1万人がきわめて狭い区域に住んでいることになる。

「えっと……」

 と俺は不意に始まったスラムへの認識をさらに明確にすべく質問をした。

「となると、それぞれ色分けされた丸の中に書いてある数字は?」

 地図には点々と細かく丸が印刷され、各々に3ケタの数字が振られていた。それが何百とある。

「バランガイ」

 即答がジョーダンのものだったか、背後にいるロセルからのものだったか覚えていない。ともかく不覚にもその言葉を俺は知らなかった。

「バランガイ?」

「そう」

「何ですか、それは?」

 そう言うと、ジョーダンは向き直って答えた。

「うーん、そうだな。つまりネイバーフッド

「ネイバーフッド?」

「そう」

 この“ご近所”という感覚をどうとらえるかとまどったが、のちの説明をまとめると、フィリピンにはもともと「村」のような自治組織があり、とはいえ悪名高いマルコス大統領治政下でそれは体系づけられたのだった。マルコス以前にあった「バリオ」という仕組みを新しく利用したのである。

 ただ、“村のような”と言っても血筋や出身地とはまるで関係がなく、今でもバランガイには「南から流入してくる移民が参加する」のだというから、日本の俺たちにも理解しにくい。第二次世界大戦時の「隣組」のようなものかもしれない。フィリピン全土で5万を超えるバランガイがあり、それぞれの長が選出されているというからまさに自治のシステムのようだ。

 そうしたバランガイがひしめきあうようにしてトンド地区は成り立っている。ちなみに貧しさのシンボルともなっていたスモーキーマウンテンというゴミ集積場は、このトンドの中にかつてあった。しかもトンドは中国人移民によって王国が建てられたあとに出来ている(「東都」と書いてトンドと読んだ)から、中国→ブルネイ→スペイン→アメリカと支配者が替わり続けてきた複雑な場所でもある。 

この丸の中の数字が各共同体の世帯数だ
この丸の中の数字が各共同体の世帯数だ

 

 さて、その歴史の屈折した、スラムの多いトンド地区で、MSFは『リプロダクティブ・ヘルスに関わるミッション』を始めているのだった。くわしくはこのあとジェームスに講義をしてもらうことにして、活動責任者ジョーダンから直接伝えられた取材における注意事項を先に書いておきたい。

 まず、スラム地区の人々は今神経質になっている、とジョーダンは言った。なぜならドゥテルテ大統領の麻薬撲滅政策によって満足な調査なく人が処刑されてしまうからで、「夜楽しく別れた者が朝には逮捕拘留されていることなど日常茶飯事だからだ」

「しかしセイコー」

 ジョーダンは滞在中、こうして何度も俺の名前を親しく呼んでくれたものだ。

「スタッフにも住人にも政治の話は聞かない方がいい。彼らを窮地に追いやる危険があるからね。その上、もし彼らが微笑んで穏やかに答えていても、それが本音とは限らない。彼らは優しく感情を隠すんだよ。それが礼儀だと彼らは考えている

 これには谷口さんからもコメントがあった。

「とっても日本人に似てますね」 

「そう、君たちに似ている。そしてセイコー」

「はい」

「写真にも気をつけて欲しい。彼らはどんどん人を紹介してくれるし、写真を撮るように促しさえする。けれど彼らの好意に甘えていると彼らに危険が及んでしまう」

 俺は取材が急に剣呑なものになるのを感じ、思わず息を止めたままジョーダンの注意を受け入れた。

「それに我々は政治を変えようとしてここに来ているわけではないんだ。それは彼らの問題であって、我々が行うのはあくまで医療不足を埋める方法を提示することだけだから」

 青いシャツの奥にジョーダンのよく鍛えられた胸と腹の筋肉があるのがわかった。にこやかで親しげで頭脳明晰なジョーダンは、肉体だけでなく倫理的にも自己をよくトレーニングしており、その上で冷静に日々のミッションをこなしているのだった。

 さて、俺たちは別部屋にいるケニア人ジェームスからさらに短い説明を受けて、午前が終わらないうちに実際にスラムの中での活動を見に行くことになる。

 ごくごく母国に近いフィリピンのことを何もわかっていなかった俺は、このあと混乱気味のまま広い貧困地区へ足を踏み入れるわけだ。 

 

続く