プルーフ・オブ・ライフーーーーいとうせいこう『国境なき医師団』を見に行く(ハイチ編1)

今回はワクチン三本で行ってきました(今後もすべてスマホ画像でお送りします)。

冒頭

まずは、時間のある方は何かの番組の冒頭映像のようにこちらをどうぞ(三分)。

『国境なき医師団』参加者が、このTシャツを着ることをどれほど誇らしく思っているか伝わるので。

そして旅立ち

2016年3月24日、午前中に二度目のワクチンを打った。左腕に複数本、素早く。

破傷風のだったか、チフスのだったか、A型肝炎のだったかは覚えていない。ともかく一度打ってから三週間して、再び接種する必要のあるワクチンだった。

担当の看護婦さんは前回と同じ若い人で、俺が注射器をスマホで撮るのを見て、

「何かの番組ですか?」

と聞いた。

「いえ…その、取材で」

「……取材?」

「ていうか、あの、自主的に行くんですけど」

「自主的……」

「ええ、『国境なき医師団』を見に行きたくて」

発端

話は数ヶ月ほど遡る。

俺は『国境なき医師団』の広報から取材を受けた。ツイッター上で知りあった傘屋さん(実際にはまだ会ったことがない)と一緒に「男日傘」というのを作って売り出し、そのパテントをもらうつもりもないので『国境なき医師団』に寄付していた俺に、団が興味を持ってくれたのだ。

で、向こうから取材を受け始めて十分も経っていなかったような印象があるのだが、俺は団の活動が多岐にわたっていることを知り、そのことがあまりに外部に伝わっていないと思うやいなや、“現場を見せてもらって、原稿を書いて広めたい”と逆取材の申込みをしていたのだった。

団の広報は即座に前向きに検討すると言ってくれた。俺は飛び上がらんばかりに喜んだ。困っているのは、俺のマネージャーだけだった。取材は数ヶ月ごとに二年間行う、と俺は勝手に話を進めていた。すでにぽつぽつ埋まっているスケジュールをどう空けていくかは彼女のミッションだった。

しかも、目的地は決して安全ではないはずだ。

「いえ、私たちは好んで危険な場所へ行くわけではないんです。きちんと安全を確保出来ると判断しなければ人員を送りません。貴重な人材の身を守ってこその弊団です」

広報の谷口博子さんはにこやかに喫茶店の中でそう言った。

たぶん俺だけが「“弊団”ってかっこいい!」と、その呼び名の部分にノンキに食いついていた。

マネージャーはまだ悩ましい顔をしていた。

行き先

行き先は直前まで決まらなかった。

現在、『国境なき医師団』は全世界七十数国に展開している。正式名は1971年にフランスで発足した時のまま、『MEDECINS SANS FRONTIERES』。意味は国境なき医師団で、略してMSFと呼ばれることが多いし、今回取材した医師たちもみな自分たちをそう呼んでいた(ちなみにトランジットで米国に入るとき、旅行の目的を聞かれて「DOCTORS WITHOUT BORDERS」に俺はついて行くのだと誇らしげに英語で宣言したが、相手はぼんやりした目で何も理解していない様子だった。そこはやはりフランス語で強調すべきだったのだろうか)

くわしくはこの『国境なき医師団日本』のホームページ内活動報告書がわかりやすい。

紛争国、天災に苦しむ地域に真っ先に入るという印象が強いMSFなのだが、いざ取材をするとなると候補地には意外な場所も多かった。

なぜなら、貧困に苦しむ国にも、性暴力が頻発する地域にも実はMSFは入っているからだ。そのこと自体、俺は何も知らなかった。

当初はパプアニューギニアへ行く話が進んでいて、そこではまさに男性による性暴力への対策として啓蒙活動を続け、なおかつ被害女性への医療的、ないしは精神的、社会的ケアが行われていると聞いて、俺はその一見して地味な活動にこそ光を当てたいと思った。

けれどもちょうどミッションがひと区切りしたとの情報が入り、ではどこへ行くのかいいがわからなくなった。

ともかく、俺は自分側から出したスケジュールの中で受け入れてくれる地域ならどこでもいいと思っていた。

そして、出てきた場所がハイチなのであった。

ハイチ

ハイチ。

2010年にハイチが大震災に見舞われた折、特にクラブミュージックまわりでチャリティ活動への呼びかけが始まり、その中からDJ YUTAKAとZEEBRAを中心としたネットワークで楽曲を作って、売り上げをハイチの子供たちに送ろうという話になった。

とんでもなく豪華なメンバーで作られた楽曲『光』は、まさに音楽業界の常識を破るもので、ここに飛んでいただけば並んだ名前に驚いてもらえるのではないか。青山テルマからクレイジーケン、難波章浩に大黒摩季、かまやつひろしにライムスターにTERU、PUSHIM、高木完などなど。

『JP2HAITI 光』

(なぜか全曲聴けるのはこちらのサイト↓)

この総勢三十組のアーティストが歌っている歌詞を書いたのが自分だった。

当時、ZEEBRAたちと夜な夜な集まって、日本でチャリティをするにはどのような方法があるか、ここで集めた金をどうすれば本当にハイチのために有効に使えるか、音楽業界の圧力があった場合にどう切り抜けるかを話し合っていたのを思い出す。

しかし、俺たちは自分たちの考えていることをまるでうまく実行しきれなかった。

結果、ハイチの子供たちに学用品キットを616個送った。規模は小さいながらむろん成果には違いない。けれど、もっとうまくやれただろうにという思いが俺にはある。不慣れな活動だった。

今回原稿を書くにあたって正確な学用品キットの数字をもう一度メールしてくれたZEEBRAも、やはりメールの中で「今ならもっと」と悔しさをにじませている。

しかも継続して何かやっていこうと考えていた俺たちは、翌年の東日本大震災で手も足も出なくなってしまう。日本がままならないのに、海外の災害にどう関わっていくか、わからなくなってしまったのだ。これはきわめて深い問題なのだけれど、ここではこれ以上触れずに置く(しかし最後まで書かずにすませるつもりはない)。

ともかく、あれから六年経った2016年、ハイチの現状を自分の目で見ることには、MSFからの導きめいたものを感じざるを得ない俺なのであった。

『プルーフ・オブ・ライフ』

話がちっとも現地にたどり着かないじゃないか、というお嘆きごもっともである。

いざ書いてみると実際、前もって説明しておかなければならないことがいくつもあるのだ。

だがそれでいい、というのが俺の方針である。

ジャーナリストの方法でなく、あくまで作家のやり方で脱線や私的こだわりを綴っていくつもりだから。

で、そういうことでいうと、「きちんと安全を確保出来ると判断しなければ人員を送りません」と言っていた谷口さんから、ハイチ出発の一週間ほど前に事務所に届いた連絡のことを記しておきたいのである。

俺しか知り得ない単語を紙に書き、封筒に入れて渡して欲しい、というのであった。

その紙を『プルーフ・オブ・ライフ』と呼ぶことも、同時に事務所には伝えられた。

生命の証明。身元の証明。

どういうものかよくわからないのだが、マネージャーと一緒にその使い道を考えてみて、俺は吹き出してしまった。

要するにそれは、俺が誘拐された場合にしか用途がないのである。つまり俺の行方が不明になり、ある集団から連絡がある、と。そうしたケースにおいて「ある単語」がやりとりされ、実際に彼らが俺の身柄を確保しているかどうかがわかるというわけだ。

そうか、ジャーナリストというのはこういうことを日常茶飯の事としているのかと俺は感心したし、谷口さんたちの世界でいう「安全」という言葉にはそのような仕組み(本当に誘拐されたかどうかわかる)が入っているのかと認識の違いに思わず笑いが出たのだ。

で、俺しか知り得ない単語というのがまたけっこう難しいのだった。好きなコーヒーの銘柄とか、昔飼っていたハムスターの名前とか、モンティパイソンの中で一番好きなコントとか、そういう瑣末なところにしか自分を証明する言葉がないことに、俺は人間の不条理を感じた。

そしていざ誘拐でもされた場合、俺は監禁された部屋の中で「コント 死んだオウム」などと答えなければならないのかと思うと、その未来の自分と周囲の悪党の姿がおかしくて仕方がなく、しかもそんなもしもが起こる可能性への緊張がなおのこと俺の腹をくすぐった。

画像

↑こちら簡易な契約書

さてこうして三種類のワクチンを打ち、『プルーフ・オブ・ライフ』を封筒に入れて渡し、取材に関しての簡単な契約書を『国境なき医師団』と交わした俺は、冒頭の看護婦さんとの会話のあと、盟友みうらじゅんとの実にくだらない対談仕事(ほとんど無駄話)をすませて夜の寂しい羽田へ向かった。

ロスアンジェルス空港へ行き、そこからマイアミ空港へ乗り継いでハイチのポルトー・プランス空港まで、計二十時間あまり(すべてアメリカン航空)。

何が待ち受けているのか、怠惰な俺は同行者谷口さんがあらかじめ送ってくれていたメモを読んでおらず、無知にもほどがあった。

ただし、直前に外務省の海外安全情報だけは軽く覗いてあった。

これを書いている今はハイチ全域「十分注意してください」だが、俺が見たときは首都ポルトー・プランスだけ危険レベルが高く、「不要不急の渡航は止めて下さい」という色になっていたと思う。

続く

第二回記事はこちら