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あいちトリエンナーレ 「表現の不自由展・その後」中止について

伊藤和子弁護士、国際人権NGOヒューマンライツ・ナウ副理事長
ハンナ・アーレント「全体主義の起源」

■「表現の不自由展・その後」が中止に。その背景は。

 あいちトリエンナーレ表現の不自由展が中止に追い込まれた。

愛知県内で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(津田大介芸術監督)の実行委員会は3日、企画展「表現の不自由展・その後」の中止を決めた。慰安婦を表現した少女像など、各地の美術館から撤去されるなどした二十数点を展示しているが、抗議の電話が殺到するなどしていた。

出典:朝日新聞

 この「表現の不自由展・その後」とは一体何なのか。なぜ、あいちトリエンナーレでこの展示が行われたのか。

 背景を知らなかった私には唐突に思えたが、主催者の文章を読んでその意義がよくわかった。

「表現の不自由展」は、日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会。「慰安婦」問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、近年公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、当時いかにして「排除」されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示した。今回は、「表現の不自由展」で扱った作品の「その後」に加え、2015年以降、新たに公立美術館などで展示不許可になった作品を、同様に不許可になった理由とともに展示する。

出典:表現の不自由展その後

 なぜ中止になったのか、報道を見ると以下のとおりである。

津田氏によると、少女像をめぐって、抗議する電話が開幕した今月1日だけで約200件あった。テロ予告や脅迫と取れるもの、職員の名前を聞き出してネットに書き込むような事例もあり、「対応する職員が精神的に疲弊している」と説明していた。

 一方、河村たかし・名古屋市長が2日、トリエンナーレ実行委員会会長である大村秀章・愛知県知事に対し、展示中止を含めた適切な対応を求める抗議文を提出。「日本国民の心を踏みにじる行為」などと主張し、津田氏らが対応を検討していた。

出典:朝日新聞

 

 こちらをみるとさらに、深刻な事態であったことがわかる。

大村知事は会見で、「これ以上エスカレートすると、安心して楽しくご覧になることが難しいと危惧している。テロ予告や脅迫の電話等もあり、総合的に判断した。撤去をしなければガソリン携行缶を持ってお邪魔するというファクスもあった」と説明した。

 「こうした卑劣な非人道的なファクス、メール、恫喝(どうかつ)脅迫の電話等で、事務局がまひしているのも事実。行政が展覧会の中身にコミットしてしまうのは控えなければならず、芸術祭じゃなくなる。しかし、諸般の状況を総合的に鑑み、円滑な運営のための判断だ」と述べた。

出典:朝日新聞

 この件が巡っては、炎上批判殺到などの報道に接し、私も大変懸念していたが、中止という最悪の事態となった。

 このような形で表現の自由が剥奪されるという事件は、日本における不寛容なナショナリズムの暴走など「表現の不自由」が極限に達した現実を象徴する出来事であり、私は言葉がないほど衝撃を受けた。

■ 原点に立ち返って考えてほしい。このような社会でよいのか。

 テロ予告や脅迫によって表現が圧殺された、そして「日本国民の心を踏みにじる行為」などとして現職市長が展示の中止を求めた、そうした圧力によって、論争的な表現が表現機会を奪われる事態に追い込まれたという事態は、極めて深刻である。

 私は部外者だが、これは誰もが無関係でいられない、社会全体で考えなければならない深刻な問題である。

 ここでは当たり前のことをいくつか指摘したいと思う。

 本来、民主主義社会では大前提とされなければならないことばかりであり、このような大前提を確認しなければならない現状は非常に残念である。

 

■ 「日本国民の心を踏みにじる行為」なら表現の自由をはく奪できるのか。

 表現の自由といえどももちろん、絶対無制約ではない。

 しかしながら表現の自由は、多元的な価値観の共存を大前提とする民主主義社会を支えるため、必要不可欠な権利と認識され、近代社会以降、高度な人権保障が必要とされてきた人権カテゴリーである。

 特に、戦前に表現の自由が弾圧されたまま、多大な人命の犠牲を国民に強いる戦争へと突き進んだ過去への反省にたち、日本国憲法では表現の自由に対する保障は優越的地位を占めるものとして最大限尊重されることとなっている。

 他人の権利を侵害するなど、「公共の福祉」に反する場合でない限り、表現の自由の制約は正当化されない。

 自分と意見が合わない、政府見解と異なる、まして「日本国民の心を踏みにじる行為」などといった抽象的情緒的な理由により、表現の自由が侵害されることがあってはならない。

 多元的な価値観を保障する民主主義社会においては、自分と異なる意見を述べる自由を保障することは非常に大切である。

 まして多数派の見解でないからと言って言論が弾圧されることがあってはならない、仮にそれがいかに「不快」であってもである。

 そして表現内容をチェックして事前に表現を禁止し、表現を禁止することを「検閲」というが、日本国憲法は検閲を絶対的に禁止している。なぜなら、表現機会そのものを奪ってしまうことは、表現の自由のはく奪であるからだ。

憲法第21条

1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

政府見解と異なるとか心を傷つけるなどの理由で表現の自由が奪われたり、はく奪されることはあってはならないのである。

■ 政府、公権力はどう対応すべきだったのか

 憲法は第一には公権力を縛るものである。

 公権力が正当な理由なく表現に介入したり、暴力的な形での表現の圧殺に加担する側に回ることは決して許されないはずである。

 また、公権力は私人が表現の自由を行使していることを理由として、その生命身体に重大な危害を加えられる危険がある場合、当然に表現者の立場に立って表現者を守り、表現の自由を保護するを果たさなければならない。

 ところがこの件では名古屋市長が表現の自由を守るどころか、誹謗中傷や脅迫など言論の自由を封殺させる動きを助長する役割を果たした。そして現在も態度を改めない。

  河村市長は中止も「「やめれば済む問題でない」と展示者に謝罪を要求、

河村氏は、芸術祭が名古屋市も経費を負担し文化庁も関与する公的な催しだと指摘。元慰安婦を象徴する少女像の展示は「『数十万人も強制的に収容した』という韓国側の主張を認めたことになる。日本の主張とは明らかに違う」と話した。

出典:産経新聞

 という。極めて由々しき事態である。

 また、本来警察がもっと機動的に迅速に役割を果たせなかったのか問われなければならないだろう。

 FAXや電話の発信者がなぜ一つも突き止められないのか、日本の警察のレベルはそんなものではなかろう。

 表現に対するテロ予告行為に対しては民主国家として放置してはならないはずであり、こうした事案において警察が役割を果たせないとすればそれは法治国家としてあるまじき事態だ。

 明確な検証、総括が必要だと思う。

■ 政府は何をし、何をしなかったのか 

 本来、このように世論がエスカレートしてテロ犯罪予告がなされる事態においては、民主主義国であれば政治リーダーが自制を求め、表現者を守る役割を果たすべきである。しかし首相にそうした動きはなかった。

 本件について菅官房長官は以下のように対応した。

菅義偉官房長官は2日の記者会見で、文化庁の補助事業として愛知県内で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、慰安婦像をモチーフにした「平和の少女像」や昭和天皇の写真が燃えているように見える作品が展示されていることについて「事実関係を精査した上で適切に対応したい」と述べ、補助金を交付するかどうか慎重に判断する考えを示した。

出典:産経新聞

 このような発言も、むしろ展示への攻撃を助長する役割を果たしたと考えられる。

 加えて、将来にわたる日本の表現の自由に対して重大な萎縮効果をもたらすものであり、著しく不適切である。

 国の補助金、ひいては税金というものは国民全てのために使われるものであって、政府見解と異なる表現だからという理由で税金の交付や助成金支給が認められないということがあってはならない。当然のことである。

 例えば国会の運営には多額の税金が使われているが、政府見解と異なる主張をする野党に支出することは問題だから野党の質問時間をなくする、野党には予算を与えない、そのようなことがあり得ないのは当然だと誰もが理解できるだろう。

 民主主義を否定するものであることが明白だからだ。

 しかし、多元的価値、民主主義的価値は国会の中で保障されなければならないのと同様に、国会の外でも市民にも当然尊重されなければならない。

 学問、芸術そして表現の自由、その他の民間活動の領域において、国が支出する税金で実施される事業について、時の政権の一定の見解に属していない、ないしは批判的であるからと言う理由で、補助金が支給されない、ということはあってはならない。

 まして、補助金の支給を再検討する、補助金を支給する条件として表現の一部の中止を求める、とすればそれは表現弾圧を意味するであろう。

 そうした方向は日本をただひとつの色に統一し、暗黒の社会に導くものである。

 本件が前例となり、政府見解に反するから、日本の心を傷つけるからと言う理由で、補助金を出さないことが公然と容認されることがあってはならない。

 まして政府見解に反するから、日本の心を傷つけるからと言う理由で、表現が圧殺されて仕方がないというような社会になってはならない。

■ 少女像がなぜ日本の心を傷つけるのか 

 本件では特に少女像が標的となった。

 日韓の間でいわゆる「慰安婦問題」が深刻な政治課題となり、政府見解とそれ以外の見解の対立があることは多くの人が承知している。

 しかしなぜ物言わぬアートである少女の像が日本の心を傷つけるのだろうか?

 慰安婦問題は曲がりなりにも日本政府が河野談話で謝罪している第二次世界大戦中に起きた深刻な女性に対する人権侵害である。

 強制連行の有無等について政府見解と韓国の見解に対立があるとしても、慰安婦制度、そして慰安婦にさせられた結果、「数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負」った少女たち女性たちがいることは歴史的な事実である。

 今回の動きは、ナショナリズムのエスカレートの結果、日本にとって都合の悪い歴史的事実については論争や検証、対話を続けるのでなく、日本の表現空間から丸ごと葬り去ろうとする危険な風潮に見えてならない。

 こうして意見の対立がある論争的な問題について「物言えば唇寒し」という状況が日本中に広がり、誰もが議論をやめ、思考を停止した後に日本にどんな未来が待ち受けているだろうか。

 だれもが真剣に考えるべきである。(了)

 

弁護士、国際人権NGOヒューマンライツ・ナウ副理事長

1994年に弁護士登録。女性、子どもの権利、えん罪事件など、人権問題に関わって活動。米国留学後の2006年、国境を越えて世界の人権問題に取り組む日本発の国際人権NGO・ヒューマンライツ・ナウを立ち上げ、事務局長として国内外で現在進行形の人権侵害の解決を求めて活動中。同時に、弁護士として、女性をはじめ、権利の実現を求める市民の法的問題の解決のために日々活動している。ミモザの森法律事務所(東京)代表。

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