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「国際的な子の奪取に関するハーグ条約」批准がはらむ問題点

伊藤和子弁護士、国際人権NGOヒューマンライツ・ナウ副理事長

「国際的な子の奪取に関するハーグ条約」について、日本政府が批准を決め、その実施に関わる国内法案も今国会に上程された。

http://www.moj.go.jp/content/000108925.pdf

この「ハーグ条約」とは、国際結婚の破たん等に伴って、親の一人が、16歳未満の子どもを国境を越えて移動させ、それがもう一人の親の監護権を侵害している場合に、これを「不法な連れ去り」とし、子どもをもといた国に原則として返還するという条約だ。

これまで日本では、国際離婚に伴い、子どもと一緒に親が実家のある日本に戻ってくることが違法だとは考えられていなかった。私は子どもを連れて日本に帰国した女性たちの相談をよく受けるが、外国で夫から深刻なDV(ドメスティック・バイオレンス)にあい、命の危険を感じて逃げてきたという女性、母子ともに生活に困窮し、実家のサポートを得てようやく帰国できた女性など、やむを得ない事情を抱えて帰国した例が多いのが実情だ。

そもそも、日本でも、DV被害に苦しむ女性の多くは精神的に追い詰められ、周囲に相談できずに夫からも周囲からも孤立していることが多い。「裁判に備えて証拠を残す」というような合理的思考も働かず、最後の最後まで我慢し続け、それでも耐えられなくなり、恐怖にかられて、子どもとともに一時避難をするのが通常であり、先に法的手続をとったうえで別居する事例はほとんどない。

まして海外でDVにあった場合、親戚や友人も近くにいない、経済的基盤もない、言葉の壁から行政や司法のサポートも受けられない、というなかで、被害者は、精神的にも経済的にも追い詰められている。法的手続をとる、というのは外国に住む者にとってはとても大変であり、DVから逃れるため、子どもを連れて帰国したい、という気持ちになるのは責められない。

しかし、ハーグ条約を批准すれば、帰国せざるを得なかった事情などは考慮されることなく、子どもと帰国したというだけで違法とみなされ、残された親が返還を求めれば、子どもを原則として返還しなければならないことになる。

この条約は子どもの権利のための条約だ、という人がいる。子は、もともといた国に戻すのが、子どもの利益に合致するのだ、というのが前提だという。しかし、子どもの権利や子どもの最善の利益がどこにあるかはケースバスケースであり、個々の実情に応じて、また子どもの意思を尊重して決められるべきであり、子どもをもといた国に返還するのが当然に子の利益だ、と決めつける理屈はおかしい。実際には、子どもの福祉よりも連れ去られた親の監護権を優先して、原則返還するというのが、条約の基本理念だといえよう。

これが果たして国際的なコンセンサスといえるのか。条約加盟国は欧米中心に80数か国、原則返還は国際的なコンセンサスとはいえない。

一方、日本を含む世界190か国以上が批准している子どもの権利条約3条は「子どもに関する措置をとるにあたっては、子どもの最善の利益を主として考慮する」と定めている。どの国でどの親と生活するか、は子どもにとって重大な決定であり、返還ありきではなく、子どもの利益を最優先に判断がなされるべきだ。

ヨーロッパ人権裁判所は、最近、子どもの利益を害する返還命令は子どもの権利条約に違反する、との判決を出している。

子どもの権利条約発効以前に作られたハーグ条約の在り方そのものが見直しを迫られており、無批判に加入するということでよいのか、疑問だ。

ハーグ条約には、返還の例外が定められている。国会に提出された国内法案の28条には、ハーグ条約と同様の例外事由が掲げられている。それは、

(1)子の連れ去りから1年以上が経過し、子が新たな環境に適応していること。

(2)連れ去った当時、申立人が子に監護権を行使していない、

(3)連れ去った当時、連れ去りに同意したなどの事情があること。

(4)返還が,子の心身に害悪を及ぼし,子を耐え難い状況に置く重大な危険があること。

(5)成熟した子どもが返還を拒んでいること。

(6)返還が人権保護に関する基本原則に反すること 

とされている。

しかし、法案では(4)と(6)以外については、それでも返還が子の利益だと認められる場合は返還が命じられると規定されており、裁量の余地を残している。子どもが嫌だと拒絶しても、子どもが1年以上日本で生活し、新しい環境になじんでいても、裁判所が返還を命じる可能性があり、その際の返還の基準は曖昧である。

法案は、「子に対する重大な危険」を判断するにあたって

1. 返還を申立てた親から子が暴力等有害な言動を受けるおそれの有無

2. 連れ去った親が返還を申立てた親から、子どもの心理的外傷を与えることとなる暴力等を受けるおそれの有無

3. それぞれの親について返還後に子を監護することが困難な事情の有無。

を考慮する、としている(法案28条の2)。しかし、単に考慮要素を列挙するだけで、2011年の閣議了解に比べても著しく後退している。

諸外国では、原則返還というハーグ条約の強いルールのもとで、これらの返還例外事由が極めて制限的に解釈され、子どもが強く反対、「父から虐待された」と訴えても返還されるケースが多くみられる。条約上、母親に対するDV行為の存在は、返還例外事由とされていないため、DV事案でも原則として返還が命じられている。

日本でも、結局は裁判官の広範な裁量に委ねられ、原則返還というハーグ条約や各国の実務、国際的なプレッシャーを受けて、不当な返還命令が出されることが危惧される。

2011年、アメリカでは、子の連れ去りを理由に日本人女性が逮捕され、子どもを返還しない限り懲役12年の刑に処すとする判決が出された。日本人の母親が子どもを連れて日本に帰国したことを理由に、約5億円の損害賠償の支払いが命じられたケースもある。

アメリカ等、多くの国では、国境を越えた子の連れ去りは犯罪とされ、厳罰に処される。

こうした状況では、子に返還命令が出されたとしても、母親は、訴追や逮捕の危険がある国に一緒に帰国することは難しい。母親がついていけない場合、子どもは一人で返還され、家庭内で暴力をふるっていた可能性がある父のもとで暮らすか、それが適切でなければ施設に入れられるか里親に出されることになる。それが子どもの福祉に合致するのだろうか。

なかには、母親が訴追やDVの危険にも関わらず子どもと一緒に戻り、裁判所で子どもの監護権を求めるケースもあるが、「子を連れ去った」ことがマイナス評価され、監護権をはく奪されることも少なくない。

母親がDVや児童虐待等の有害行為から自分と子どもを守るために逃れてきた場合、子を強制的に返還されたうえ、子に会いたくても刑事訴追を恐れて一生子に会えない、監護権を奪われる、という事態は、子にとっても女性にとってもあまりにも過酷である。

こうした状況を考えるなら、子どもや女性の権利を後退させることがないよう、子への虐待や母へのDVがあった場合、また、母親が子と一緒に帰国できない事情があるなど、返還が子どもの最善の利益といえない場合には、法律で明確に、返還を認めない、と規定すべきであろう。

法案では、返還の審理は家庭裁判所において、調査官も関与して行う、としている。何度もいうようだが、子への虐待やDVは密室で行われ、被害者は精神的に追い詰められて証拠保全という合理的な考えをしにくく、まして海外で起きた暴力については、周囲の協力や相談体制もないまま証拠が保全されない場合が少なくない。証拠を保全する余裕もなく命の危険を感じて逃げてきた女性や子どもに対し、証拠の欠如を理由に不当な返還命令を出すことがあってはならない。返還という重大な処分による取り返しのつかない危害を防止するため、子や母親の供述を重視し、また、DVの保護命令と同様に関係諸機関への相談等の事実が認められるケースでは、広く返還例外を認めるべきである。

さらに、法案では、子の返還命令が出た後、命令を実行に移すために、執行官が親に対して威力を用いたり警察を出動させて、親の監護から子を解くことができるとされている。

このような強制的な引き離しは子どものトラウマをもたらす危険が高く、執行官が返還を強制するという仕組みは極めて問題である。母親が警察や執行官に取り押さえられて、子どもから引き離される、そのような光景を目撃した子どもの心情を考えるとあまりに残酷である。

このようにハーグ条約には問題が山積であり、国際結婚に失敗し、助けを求めて日本に逃れてくる女性や子どもの人権保障が後退する危険がある。そうした懸念が払しょくできないようであれば批准などすべきでないのであり、十分な国会審議を望みたい。

(2012年2月14日、NHK視点論点での私の発言を、法案条文に基づき加筆修正しました。本稿は団体見解でなく個人見解です)。

弁護士、国際人権NGOヒューマンライツ・ナウ副理事長

1994年に弁護士登録。女性、子どもの権利、えん罪事件など、人権問題に関わって活動。米国留学後の2006年、国境を越えて世界の人権問題に取り組む日本発の国際人権NGO・ヒューマンライツ・ナウを立ち上げ、事務局長として国内外で現在進行形の人権侵害の解決を求めて活動中。同時に、弁護士として、女性をはじめ、権利の実現を求める市民の法的問題の解決のために日々活動している。ミモザの森法律事務所(東京)代表。

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