東京五輪2020の卓球競技、水谷隼と組んだ混合ダブルスで、日本卓球界に初の金メダルをもたらした伊藤美誠。多彩な技術が対戦相手を苦しめてきた。その一つが「チキータ」と呼ばれる打法だ。しかし伊藤のチキータは、他の選手が使うチキータとは根本的に異なる独特のものである。

「チキータ」は、もともとは1990年代にピーター・コルベル(チェコスロバキア)という選手が使い始めて脚光を浴びたもので、バックハンドで卓球台の上のボールに対して「横回転」(回転軸が鉛直方向の回転)をかける攻撃的打法だ。軌道が曲がることから、サッカーの「バナナシュート」と同じ発想で、アメリカのバナナのブランド名から名づけられた。

チキータの画期的な点は、肩、肘、手首の関節を上手く使って小さな回転半径でラケットを180度以上も回転させてボールに強烈な回転をかけることだ。この原理を使いつつ、スイングの方向を変えることで「前進回転」に応用し、卓球界に革命を起こしたのが中国である。

【参考記事】五輪でも威力を発揮した「チキータ」とは何か 卓球史上最大の技術革新

軌道が下に曲がる「前進回転」は、速いボールを安全に入れることができ、得点に結びつきやすい。そのため現代の卓球選手は「前進回転」「横上回転」といった、前進回転の要素を持つチキータを中心に使う。それらは必要に応じて「チキータ」と総称されたり、回転ごとに区別して表現されたりする。

筆者作成
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「横上回転」または「前進回転」のチキータをする張本智和
「横上回転」または「前進回転」のチキータをする張本智和写真:アフロスポーツ

そうした中にあって、伊藤のチキータは異彩を放っている。「前進回転」も「横上回転」も使わず、「横回転」を中心とし、スイング中の打球位置やラケットの傾きを変えることで、回転方向に微妙な差をつけるチキータなのだ。実は伊藤がバック面に貼っている「表ソフトラバー」は、摩擦係数が小さいために前進回転のチキータをしようとするとボールが落ち、かなり難しい。反面、相手の回転の影響を受け難いため、複雑なラケット操作をしてもミスが出にくい。そのため、伊藤は表ソフトにしかできない独特のチキータをしているのだ。

筆者作成
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これらのボールの回転方向の違いは、軌道の差は生まないが、相手のラケットに当たったときの跳ね返り方向の差を生む。時計の文字盤で言えば2時と3時、あるいは3時と4時といった方向の違いだ。そして、ネット上空20センチほどの幅を通したい(高いと打ち込まれるため)卓球競技では、この差は決定的だ。この差を見分ける眼力が勝敗を決する。

【参考記事】テレビが決して伝えない「卓球選手が曲がるサービスを出す本当の理由」

「横回転」のチキータをする伊藤美誠
「横回転」のチキータをする伊藤美誠写真:YUTAKA/アフロスポーツ

「わずかな横下回転」のチキータをする伊藤美誠
「わずかな横下回転」のチキータをする伊藤美誠写真:エンリコ/アフロスポーツ

伊藤のチキータは、このカムフラージュが巧妙で、特に「横下回転」を打つときには、打球後にラケットを上に振り上げる動作がフェイクとなり、相手にはどうしても「横下回転」に見えない。また、表ソフトは比較的ラケットに垂直に近い方向にボールが飛び出すため、相手はラケットを正面に近い方向から見ることになり、傾きがわかりにくい。そのために多くの対戦相手がネットにかける。甚だしい場合には卓球台の上に落とす。

相手はラケットを正面に近い方向から見るために前後の傾きがわかりにくい
相手はラケットを正面に近い方向から見るために前後の傾きがわかりにくい写真:松尾/アフロスポーツ

今回の東京五輪で、孫穎莎(中国)は伊藤のチキータに対して女子シングルス準決勝では2球とも返球したが、女子団体決勝では1球はネットミスし、2球はネットにカスって入れ、まともに返球できたボールは1球もなかった。入念な対策をしたはずの孫穎莎でさえも、ギリギリの対応だったことがわかる(当然ながらこのクラスの選手には、理由のない「うっかりミス」など1球もない)。

伊藤のチキータの威力とは、一般に思われているような、曲がることでもなければ速いことでもない。回転軸の傾きがわかり難いことなのだ。

現代卓球を象徴する「前進回転」の速いチキータとは一線を画する、伊藤のチキータ。それは彼女が使っている「表ソフトラバー」という制約を逆手にとった、それでしかできないチキータなのであり、また、卓球における回転の威力がどのようなものなのかを物語っているのである。