日本は世界の中でも自然災害が最も多い国の一つだ。さらに近年は災害の規模も大きくなり、頻度も増している。そうした災害現場で、小型重機等を使い一般のボランティアでは難しい土砂撤去や屋根の補修等の作業を行う「プロボノ」といわれるボランティア団体がいる。広島県呉市に本拠地を置く「コミサポひろしま」もその一つだ。代表の小玉幸浩(こだま・ゆきひろ)さんは2014年から災害ボランティアとして全国の被災地を奔走する。人生をかけて災害支援に取り組む理由、そして活動を続ける中で直面するリアルな悩みについて話を聞いた。

転機はふらっと立ち寄ったハローワーク

2018年の西日本豪雨災害の現場で(筆者撮影)
2018年の西日本豪雨災害の現場で(筆者撮影)

災害が起きるたび、全国の被災現場に駆けつけ、小型重機等を使って一般のボランティアでは難しい土砂撤去や屋根の補修等の作業を行う。今では「災害現場にこの人あり」と他のボランティア団体や被災者から信頼を集める小玉幸浩さん。しかしかつては暴力団に所属していたこともあるという異色の経歴を持つ。

小玉さんは18歳のとき暴力団に入った。その後、出たり入ったりして39歳で足を洗うも覚せい剤をやめられず、40歳で刑務所に服役した。

「刑務所から出たら、人も、金も、つくった建築の会社も、何もかもなくなっとった。呆然としてね。職を探そうとふらっと行ったハローワークで介護職の求人票を見つけて。その時、なんでか『残りの人生、人のために生きてみるのもええかな』と思ったんよね」

職業訓練校での介護実習等を経て、小玉さんはある青年の自宅に派遣された。佐田尾俊輔さん。生まれながら筋肉が発達しない難病で、首と指先しか動かすことができなかった。それでも彼はパソコンを操り、電動車椅子サッカーに熱中していた。

そんな彼の生き様を見て、小玉さんは目が覚める想いだったという。

「なんて自分はあまちゃんだったんだと思ってね。自分だったら…って考えたよね」

それまでの生き方を初めて深く後悔した。そして彼のためにできることは何でもしようと決意した。毎日、佐田尾さんの家に通い、身の回りの世話をした。抱っこして一緒に湯船に浸かり、食事も介助しながら一緒に食べた。散歩をしたり、二人でただテレビを見ることもあった。

佐田尾さんを介護し始めたのが2011年。奇しくもそれは東日本大震災が起きた年だった。大震災のニュースを二人で見ては「日本人ならボランティアに一度は行かんといけんよね」。そんな話もした。佐田尾さんと過ごす毎日が小玉さんの日常となり、彼の存在が小玉さんの救いになっていた。

辛い別れ、そして災害支援の道へ

「最強のふたり」という映画のポスターを真似て撮影した記念写真(画像提供:小玉さん)
「最強のふたり」という映画のポスターを真似て撮影した記念写真(画像提供:小玉さん)

しかし介護を初めて3年目。佐田尾さんは症状の悪化により入院。闘病の末、2014年7月19日、息をひきとる。小玉さんは家族とともに最後を看取ったが、ショックが大きすぎてその時の記憶はないという。その日以降、小玉さんは家の外に出ることができなくなり、引きこもってしまった。

「何もする気がないなって。毎日ただテレビをぼーっと見とった」

佐田尾さんの死からちょうど1ヵ月後の8月20日、広島市でのちに「広島土砂災害」と名付けられる大規模豪雨災害が起きた。地元のテレビニュースは連日、災害現場の様子を報道し続けた。小玉さんはそれを一人、家のテレビで見ていた。映し出される悲惨な状況を見て、佐田尾さんと交わした言葉を思い出した。

「日本人ならボランティアに一度は行かんといけんよね」。

「行かにゃあいけん」

佐田尾さんに背中を押された気がした。Facebookで見つけたボランティアグループに連絡を取り、災害現場に向かった。

災害現場にはいろんなボランティアがいた。指示されるまま、支援物資の仕分けをしたり道具の洗浄をしたりした。慣れてくると、ボランティアセンターの運営なども手伝うようになった。「もっと自分にできることはないか」。そんなことを考え始めていた矢先のこと、ボランティアセンター閉鎖のニュースが飛び込んできた。

「災害からたった1ヵ月で、土砂に埋もれた家がまだいっぱいあるのに閉鎖するっていうんよ。『まだ終わってないじゃろ』と。それなら自分たちがやろうや、と」

10人ほどの有志で『広島土砂災害コミュニティサポート』という団体を立ち上げた。それが現在の「コミサポひろしま」の始まりだった。

被災者に最後まで寄り添う

画像提供:コミサポひろしま
画像提供:コミサポひろしま

当時の想いは、今も小玉さんのボランティア活動の礎になっている。支援を必要とする被災者がいる限り、最後まで支援を続ける。それが彼のポリシーだ。

これまでも関東東北豪雨の被災地である茨城県常総市で半年以上、熊本地震のあった益城町では1年8ヵ月、西日本豪雨災害の時は発生から2年、災害現場で復旧作業を続けた。

「土砂に埋まったり、屋根が壊れた家を見たらみんなもうダメだと諦めてしまうんよね。解体しかないと思ってしまう。でも土台さえ残っとればリフォームできる可能性もあるんよ。きれいにしたら『住めるかも』と思ってもらえるかもしれんじゃん」

家がなくなり、人が去れば、長い時間をかけて培われてきたコミュニティもあっけなく崩壊する。そんな現場をいくつも見てきた。いったん壊れてしまったコミュニティを、また新たに築くことは難しい。だから、被災してもできるだけ多くの人が住んでいた場所にとどまれるように、と願いながら作業する。

2018 年西日本豪雨災害の現場(筆者撮影)
2018 年西日本豪雨災害の現場(筆者撮影)

だが小玉さんがそれを口に出して被災者に伝えることはない。決めるのはあくまで家主。自分にできることは「土台を傷めないよう、土砂をきれいに取り去ることだけ」だという。そのために残った柱や壁を丁寧に養生して作業を行うのが小玉さんのやり方だ。

「解体するしかないと思っとった人が、土砂が取り去られた家を見て『やっぱりリフォームしたい』と言ってくれた時が一番、嬉しいんよね」

そう話す小玉さんの表情は柔らかい。

当面の課題は平時の活動資金

画像提供:コミサポひろしま
画像提供:コミサポひろしま

災害が起きたときはできるだけ早く駆けつけたい。そして求める人がいる限り、現場にとどまって作業を続けたい。だから定職に就かず、アルバイトで日々の生計をたてている。経済的にはかなり不安定で、決して楽な生活とはいえない。

災害現場に迅速に駆けつけ、自衛隊や消防団では難しい柔軟な対応や専門的な作業をこなす彼らを自治体は大いに頼りにする。だが、災害が起きていない時に彼らを支援する仕組みは少ない。日本の民間の災害ボランティアは、多くの人の善意と個の犠牲のうえに成り立っているといえるだろう。

ちなみに海外ではどうか。例えばドイツでは、災害ボランティアを支える組織として、国が連邦技術支援隊(THW)を設け、ボランティア達が活動しやすいような各種保障等が整備されているという。

日本もこれだけ災害の多い国である。国や自治体には最優先でこの課題に取り組んでほしいと願う。また一般企業も災害が起きた時の支援だけでなく、平時にこそ災害ボランティアの支援や後進の育成に手を差し伸べてほしい。CSR活動の一環として取り組めば、企業のブランドイメージも向上するだろう。誰かが犠牲を払うのではなく、win-winな関係で防災の取り組みが進むことを願う。

小玉さんが目指すボランティアのカタチ

画像提供:コミサポひろしま
画像提供:コミサポひろしま

小玉さんは今年55歳。経済的にも体力的にも限界に近い。それでも小玉さんは歩みを止めない。昨年は初めてクラウドファンディングにチャレンジした。ボランティア活動の合間を縫って、屋根のブルーシートの掛け方の講習会や講演会を行ったりもした。そこまで小玉さんを駆り立てる原動力とはいったい何なのだろう。

「作業してね、家主さんに泣きながら感謝されたら、ほんま感動するんよ」

目の前に助けを求める人がいる、そして喜んでくれる人がいる。それこそが小玉さんのモチベーションのすべてだという。さらに最近は、熊本豪雨災害の被災地で出会った秀岳館高校の学生や先生たちの交流も大きな支えになっているという。

「建設工業科の生徒と被災した自治集会所リフォーム作業をさせてもらっとるんですよ。先生もほんま一生懸命取り組んでくれて。自分が学生の時にこんな先生たちに出会えとったらって思ったよね」

この体験は彼らの将来にきっと役立つはずだと信じている。そして一緒に作業をした生徒の中から一人でも二人でも、将来、ボランティア活動をしてくれる子がでてくれたら。それは小玉さんのささやかな願いでもある。

画像提供:コミサポひろしま
画像提供:コミサポひろしま

画像提供:コミサポひろしま
画像提供:コミサポひろしま

災害時の備えは水や食料など物資だけではない。それは被災地で作業するボランティアの姿を一度でも見たことがある人ならわかるだろう。ボランティアの存在なしに、被災地の復旧はあり得ない。

何より災害が起きたとき、彼らを頼りにするのは誰でもない、私たち自身だ。防災意識を高め、被災地で活動してくれる彼らに何ができるかを考えたい。

2022年3月1日;記事一部修正

コミサポひろしま公式サイト

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