オリンピック・パラリンピックのボランティアは何をもたらすのか

(写真:高沢礼男/アフロスポーツ)

 2018年3月に公表された「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会 大会ボランティア募集要項(案)」について、参加者の交通費や宿泊費が自己負担になっていることなどに批判が向けられている。今後有識者などによる検討を経て、7月下旬に具体的な要項が作成される見通しだが、会議ではやりがいのPRが必要とする意見が出されたという報道を受けて、「やりがいの搾取」ではないかと批判が相次いでいる。先行事例でもある長野オリンピックのケースをみながら、この問題を別の角度からとらえてみたい。

長野大会におけるボランティア

 1998年に開催された長野大会では、会場整理、警備、輸送などの運営ボランティアとして約3万人、文化交流ボランティアとして約1万5千人が携わった。公募された1万人に対して、全国各地から約3万人の応募があった(長野大会の情報は『公式報告書』より)。会場配置が決定されるまでに、事前研修が3回実施され、大会前の国際競技大会には約2,500人が実践研修として参加している。

 ボランティアの処遇については、会場までの往復旅費は個人負担ながら、宿泊の必要な人には組織委員会が手当てをし、大会中の輸送については無料シャトルバスが用意された。8日以上参加した人にはオーバージャケットなどが支給され(それ以外の人は貸与)、IOC会長のサイン入り参加証明書と記念ピン、閉会式リハーサルの入場券や屋外競技の入場券などが配付された。

レガシーとしてのボランティア

 筆者は長野大会から10年を経た地域の社会学的研究を2008年から継続してきたが(『〈オリンピックの遺産〉の社会学』)、長野市の人びとがポジティブな遺産(レガシー)として真っ先にあげていたのがボランティア組織の形成と経験であった。08年当時、大会に携わった人たちが大なり小なり活動を継続し、同窓会的な集まりも開かれていた。そのように継続されているものに加え、次のような語りも印象に残る。例えば、善光寺付近の旅館での聞き取り調査では、なんとなく観光客に見せてあげている(泊めさせてあげている)という感覚だったものが、大会を経ておもてなしの心をもつように変わった、というのである。とかく競技施設の後利用に代表される、物理的な遺産の有無と効果が議論される中で、長野市の人たちがボランティアについて真っ先に語ることの意味を、20年大会に向けて考えておく必要があるだろう。

 長野大会では、1994年のリレハンメル大会の「Team'94」という名称を引き継ぎ、「Team'98」が総称として用いられた。また、大会は広域にわたる会場で開催されたため、白馬会場の「Hakuba Team'98」のような組織がそれぞれの地域で立ち上がった。現在でもいくつかの組織は自発的に活動を継続している。例えば、スピードスケートの会場となったエムウェーブで大会運営をサポートする「エムウェーブ友の会」、里山整備や会場の植林を行う上記の「Hakuba Team'98」などが著名な組織である。筆者の聞き取りでは、ボランティアに対して強いやりがいを表明する語りの他、大会後に当該地域で継続的に活動する人びとの姿が浮かび上がる。そのことは昨今の「やりがいの搾取」という言葉にかき消されてしまう側面でもある。

ボランティアは良いことばかりか

 上にみたことは、主にポジティブに評価されているボランティアの一側面である。一方で、98年当時、スポーツにおけるボランティアの用語法は定着していなかったこともあり、宿泊費などを支給することに対しては批判も存在した(お金をもらうのはボランティアではない)。経費の増大を抑えるために、より参加日数が長く、宿泊が必要のない参加者が優先されたばかりか、公務員の派遣が半ば義務的に割り当てられていったように(『長野オリンピック騒動記』)、それは動員という言葉と隣り合わせでもあった。社会学者の仁平典宏が論じるように、近年ボランティアの概念はそれまでの贈与的な、他者のために行われる行為の表象という解釈から、そのこと自体にやりがいや楽しみを感じるといったように、担い手に効用をもたらす互酬性を基盤に据えたものに意味論的に変化している(『「ボランティア」の誕生と終焉』)。さらには、この20年の変化を経たボランティアの意義を検討する必要があるだろう。

20年大会のボランティアの議論には何が必要か

 話題の経費問題でいえば、経費削減のためとはいえ、ボランティアに完全に依存した体制は再検討が必要だ。まだ検討案の段階とはいえ、宿泊費の不支給は長野大会より後退している。長野大会後の活動が継続した要因として、宿泊施設での交流をあげる人もいる。日当を出すことはボランティアの定義上難しいとはいえ、食事(弁当等)の提供は最低限必要だろう。また、少ない日数でも参加できる枠組みの構築が理解を広めることにつながると思われる。現在の10日以上活動できる人という条件は、参加者をかなり限定してしまう。それでもこの機会を通じて、ボランティアをしたいという人は一定数いるはずで、そのやりがいは否定されるべきではない。その人びとが地域や社会で活躍する人材になるのであれば、貴重な遺産になるはずだ。不足する人数は、通訳などの専門知識・能力をもつ人びととともに、有償で募集すれば良い。その方が一定の経済効果も見込まれるのではないか。懸念されるのは、長野同様に、公務員や関連企業からの動員や、現在全国の大学が組織委員会と締結している連携協定による人員の割り当て派遣である。そのことはボランティアの定義と相容れない。

 現在、マラソンブームの到来と大会開催が全国各地で始まっている。各地でボランティアの募集と、さまざまな組織を通じて動員的な割り当てが当たり前になっている。地域活性化につながりうるイベントの開催には、このような人びとの存在が前提になっているため、一概にその意義を否定することはできないが、NPOなどの登場とともに、本来公共セクターが担わなければならない経費が縮減されていることにも目を向けていく必要がある。このような議論を追加できれば、ボランティアの意味合いも大きく変わってくるはずである。