東京オリンピック開催3年前に考えておくこと

(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

 3年後の2020年7月24日、東京オリンピックが開幕する。開催が決定してからすでに4年が経過したことになるが、ここまでの準備期間は混乱の連続だった印象しかない。今回は現在の準備状況を俯瞰し、3年後に向けた、特に課題の部分を指摘してみたい。なお、この一連のコラムでは、特に表記がない場合、東京オリンピック・パラリンピックのうち、オリンピック大会について論じることにする。

オリンピックに向けて盛り上がっているか

 3年後を見据えて真っ先に考えておかなければならないのは現在の気候だろう。多少の変動はあるにせよ、猛暑日が連日続く中で開催されるオリンピックは選手にとって、さらにはそれを観戦(のために移動)する観衆にとって過酷なものになることは間違いない。熱中症のニュースが連日報道される中、死を招く危険性を率先して犯すのは愚そのものである。このことは日本に住む多くの人びとから共感を得られる問題だろう。早朝、夜間の競技開催など、さまざまな工夫が行われるだろうが、開催日程の変更という最高の回避方法が存在する。ちなみに1964年大会は10月10日に開催されている。日程変更が行われないのはテレビ放映権の問題が関係していることは周知の通りだが、IOC要人をこの時期に招待して体感させるなど、危険性を発信するためにやれることはあるはずだ。開催が迫ればますます変更は難しくなる。

 次に、オリンピックの話をするときの定番となりつつあるのが、混乱とともに盛り上がっていないというワードである。多くの人が成功したと考えている1964年大会ですら、実は直前まで盛り上がりに欠けたことはあまり知られていないが、一部の関係者を除き、自らの生活に直結しないオリンピックに今から熱狂できる人がそれほどいるはずはない。その意味で、盛り上がりに欠ける感覚は実に正常なものである。大会に期待をするのは個人の自由だし、そこに強制の感覚を持ち込むのはやめるべきだ。大会が迫ったときに熱狂へと転換する可能性とナショナリズムの高まりについては、後日改めて書き記したい。

未解決の課題

 開催地や会場、競技場の建設などはほぼ固まりつつあるが、東京以外に拡散した開催地の輸送や警備費の分担は現時点でまだ決まっていない。原因の一端は64年大会に比べて、全く指揮能力のない担当大臣をはじめとして、国の関与が中途半端なことだろう。復興や共謀罪の審議など、オリンピックを政治的手段として利用する言説は増え続けている一方、全くサポート体制は整っておらず、ナショナリズムの高揚という果実だけ得ようとしているように感じられる。

 また、全体の費用がどの程度かかるのかについても、3兆円という数字が一人歩きしただけで、不透明なままである。加えて、競技施設の建設費に加えて、それらが大会後にどれほどの維持・運営費を必要とするのか、ほとんど試算が公表されていないことが問題だ。長野冬季オリンピックのスパイラル(ボブスレー、リュージュの競技施設)がこの度廃止されることになったように、長野大会の教訓に学ぶことはまだまだ多い。議論のポイントはあくまでも大会後に置くべきだ。

 そして、最近飛び込んできた競技施設の建設工事に従事していた労働者の過酷な長時間労働と自殺のニュースである。64年大会を成功に導いたとされる建設労働者の成功神話は、『オリンピックの身代金』(奥田英朗、角川書店、2008年)で描かれたような、過酷な労働環境と表裏一体であった。猛暑開催と同様に、人命に優先するイベントなどあってはならない。都知事が発言していたように、2016年に行われたリオ大会では、驚くほどむき出しの仮設施設が並んでいたという。日本で守られるべき基準はあるものの、完璧を求めず、無駄を生まないために知恵を絞ることはできるのではないだろうか。

 国全体の課題では、今後選手の強化政策と予算について、30個の金メダルを目指す方針の是非が議論されてくるだろう。筆者は大会後に持続できないシステムは構築すべきではないと考えている。むしろ、64年大会が大衆化を推し進めたように、この大会をきっかけとした地域スポーツへの支援、拡充を行うべきだろう。現在各地に作られている総合型地域スポーツクラブのクラブハウスの建設など、場所作りにその予算を傾けてはどうかと思う。このような論点がもっと議論されてしかるべきだろう。

議論の場を失わないこと

 以上に紹介した未解決の課題の多くは、オリンピックを返上すれば霧消するものばかりだ。ただし、それでもオリンピックに期待する声が(一部の利権者を除いたとしても)聞こえてくることをどのように考えれば良いだろうか。筆者が批判的な立場をとりながら反対論に向かわないのはこのことを考えたいからである。現在の議論はオリンピックを善悪の価値判断にのせて、賛成・反対のいずれかを問うものが多い。例えば、東日本大震災を経験したすぐ後に、大会招致を表明することに異議は残るが、復興が遅々として進まないことと、そのことから関心が薄れていくことはオリンピックのせいではなく、社会の側に問題がある。むしろオリンピックはそのことを社会の鏡として顕在化させてくれる貴重な存在である。

 そのことはオリンピックを絶対視することとも違う。IOCがこれまでの原則を曲げて、2028年の開催都市を今年中に決定することにしたように、レガシーという価値観を投げ捨て、存在意義を紡ぎ出せなければ、1970年代がそうだったように、オリンピックは簡単に危機を迎え、消滅の道を歩むだろう。

 最後に提案したいのは、オリンピックそのものに由来する問題、日本社会に由来する問題、その両方にまたがる問題を腑分けして論じることである。そうすれば復興の問題などは、オリンピックの問題とは全然関係なく、日本社会が解決しなければならない問題として論じられるだろう。東京大会がそれを利用しようとするのはその次の問題である。賛成・反対論ともに、何でもオリンピックのせいにするのはそろそろやめてはどうだろうか。