東京オリンピックを考える(3) エンブレム問題の混迷

(写真:ロイター/アフロ)

東京大会のエンブレムの使用中止が決まった。新国立競技場問題の混迷に続いて、オリンピックの顔とも言えるロゴが使用できなくなったことは組織委員会にとって非常にダメージが大きいと言える。いくつかの論点が散見されるが、大会開催に関わる本質的な問題について考えてみたい。

新国立の問題と通底するのが、審査過程(修正を含む)の不透明さと責任所在の不明確さである。審査員の配置が出来レースを演出した疑いをもたれているが、ニュース23の報道では委員ですら修正過程を知らされていなかったことが明らかになってきている。この点でも組織委員会の責任の範囲が不明確である。いったい誰が指揮をしているのかが見えない。

危機管理のまずさ

この問題の着火点は7月下旬、ベルギーの劇場のロゴと類似しているという報道がなされたことによる。その後発覚したように、佐野氏のデザイン制作にいくつかの致命的問題が含まれていたことは事実だが、この時点では商標登録されていない先方のロゴに対して、オリンピックのロゴであるという権力関係、権利論で押し切れると判断した組織委員会の判断は甘かったように思う。仮にデザインの専門家諸氏が述べるように、デザイン的に全く別物であったとしても、疑いがもたれた時点で何らかの危機管理が必要だった。例えば、偶然類似した(ならば)その関係性を逆手にとって、先方の劇場に何らかのメッセージを発信するとか、デザインの作成過程を丁寧に説明することはできたのではないだろうか。もちろんここ数日で報道されているように、2度の修正が専門家以外の手によるものであるならば、最初から無理だったことになるが。

エンブレムが示すメッセージ

そして何よりも問題なのは、エンブレムが示すメッセージが非常に希薄に感じられることである。64年大会のシンボルマークを制作した亀倉雄策氏は、「単純でしかも直接的に日本を感じさせる・・・日本の清潔なしかも明快さと、オリンピックのスポーティーな動感とを表してみたかった」(前村文博、2004、「日の丸とモダン」清水諭編『オリンピック・スタディーズ』せりか書房、134)と述べており、シンプルなデザインながら心に迫るものが目指された。一方で、今回のデザインは広告的、商業的に望ましいデザインという発想が先にあり、それが「展開力」という聞き慣れない言葉に集約されているように思うが、そのことが逆に大会コンセプトの不在を表しているように思えてならない。この大会は何を目指して招致され、何を生み出そうとしているのかが明確に見えないのである。デザインやそれに対する私たちの感想も、それを反映したものになっているのではないだろうか。

どのようなデザインを選ぶべきか

今後、新たなデザインが選考されることになるだろう。大混乱を招いたエンブレム問題であるが、これを奇貨として再出発すべきである。商標登録のための秘密性などから、採用されなかった他のデザインを公表して投票する仕組みなどは難しいとは思うが、最低限組織的にオープンな仕組みを構築する必要があるだろう。今更ではあるが、オリンピック開催の意義を改めて示せるような機会とすることができれば、この混乱も価値のあるものとなるはずだ。審査委員長の永井一正氏が述べているように、エンブレムを育てていくのには国民の力、愛情が必要だからだ。