就活ルール廃止の経団連会長コメントはコピペ?~過去の経済首脳発言を振り返る

就任挨拶をする中西宏明経団連会長(写真:つのだよしお/アフロ)

中西経団連会長、見直し示唆を発言で「ルール廃止」

中西宏明・経団連会長(日立製作所会長)は9月3日の定例会見で、現行の就活ルール見直しについて発言しました。

 「経団連が采配 違和感」 就活ルール 廃止提言 中西会長、21年卒から(中日新聞2018年9月3日朝刊)

経団連の中西宏明会長は三日、大手企業の会社説明会や採用面接の開始時期を定めている経団連の指針について、二〇二一年に卒業する学生から廃止すべきだとの考えを示した。同日の定例記者会見で明らかにした。

(中略)

 中西氏は経団連としての決定ではなく個人的な意見とした上で「採用日程に関し、経団連が采配すること自体に極めて違和感がある。経団連の意見として、こうしますとか、しませんとかは言わない」と語った。

 経団連に加盟していない外資系企業などはルールに縛られず早期に採用活動を始めており、会員企業からは日程の前倒しを求める声もある。また指針には罰則はないため「解禁破り」が後を絶たず、大手企業も水面下で学生に接触するケースが多い。

 こうした事情を背景に、中西氏は「就職や一括採用の在り方などで問題意識を共有する経営者は多い。これからよく議論する」とも指摘。一年を通じて人材を募る通年採用の拡大など望ましい人材確保の姿について模索する考えを示した。

 見直しに言及していますが、実質的には現行ルールの廃止も視野に入れており、「就活ルール廃止」というキーワードが一気に広まりました。

 さて、この就活ルール廃止(または見直し)ですが、経団連首脳の過去の発言を調べていくと、「コピペ?」と言いたくなるくらい、常に見直しを示唆しています。

古くは1980年代から

 コピペと言っても、中西会長が過去の経団連首脳の発言をそのまま盗用した、というわけではありません。が、就活ルール廃止の内容は、過去の経団連(2002年以前は日経連)首脳の発言と奇妙なほど重なります。

 あれこれ理屈があるにしても、やめたい、という意志はほぼ同じ。

たとえば1981年、この年は就職協定の枠組み(中央雇用対策協議会)から労働省が脱退。企業側と大学側で就職協定を続けることになります(1986年まで存続、1986年からは就職協定遵守懇談会による就職協定が1996年まで存続)。

 この1981年前後に日経連(日本経営者団体連盟)専務理事として就職協定と向き合ったのが松崎芳伸(富士製鉄など)です。『経済往来』1987年9月号の同氏による回顧録「わが日経連十七年 連載3 青田買いと就職協定」には、この事情が書かれています。

就職協定だ、青田買いだとやかましくいっているのだが、同族会社、オーナー・キャピタリストの企業の場合を考えてみたらどうか。これらの企業の坊ちゃん、嬢ちゃんは、大学四年生の十一月一日まで就職決定を待つということなどありはしない。大学三年でも二年でも、高等学校、中学校、小学校、幼稚園の段階でも、極端なことをいえば、「おぎゃあ」と産声をあげた瞬間から、「よい後継者ができた」と就職が決まっているではないか。そうでない家庭に生まれた子供だけが、大学四年の十一月一日まで、就職を決められないのはおかしいじゃないかという考え方が、私の頭の中にありました。

この回顧録では労働省が枠組みから脱退した理由として「正直者が馬鹿をみる」としていますが、これもどこかで聞いた話です。

バブルの絶頂期も会長が廃止を検討

1991年には、永野健会長(三菱マテリアル会長)が就任あいさつの際に、「現行の就職協定が今年も遵守されないようであれば、来年度からは廃止も含めた見直しをしたい」とコメント。

結局、このときは変更にならずに終わっています。この事情を『週刊ダイヤモンド』1991年9月7日号の記事「建前と本音の間で迷走する就職協定」にはこう書かれています。

(日経連が)就職協定見直し案のなかで問題点として挙げられている主要なポイントは「社会への第一歩を踏み出す学生にはオモテとウラの使い分けを余儀なくさせる現状は、教育上極めて好ましくないとの批判が強い」という内容である。

しかし、この主張も建前であり、本音でいえば、「守られるはずのない就職協定のお守り役をさせられ、問題があったときにツケを回されるピエロはもうご免こうむりたい」というのがいつわらざるところだ。

1996年の根本会長廃止宣言も同じ理屈

 1996年には根本二郎会長(日本郵船会長)も廃止を主張します。日本経済新聞の連載「私の履歴書」で根本会長は、当時をこう振り返っています。

九六年に私は定例記者会見で「もしも就職協定加盟企業のトップが協定を順守する意志がないなら、私は世話人代表を降りる覚悟であり、その場合、就職協定が廃止されることもある」と述べた。この発言に世の中は大騒ぎになった。しかし、私は一歩も引かなかった。就職協定というのは基本的には学生、企業の就職、採用活動の開始日を定めたもので、当時は「八月一日前後」が目標になっていた。しかし、実際はその大半は守られておらず、六月に内々定を出し、「拘束」まで行っている企業もあった。私にとって我慢できなかったのは「正直者がバカを見る」構造だった。学生に道義を教えるべき教育現場で企業と大学が学生を翻弄していることを見過ごすわけにはいかなかった。まさに「利の本は徳と義にあり」である。

ここでも同じ論理が繰り返されています。このときは日経連の中でも協定維持の意見も強かったのですが、結局、根本会長が押し切り、1996年に就職協定は廃止されます。

1996年の協定廃止で就活は早期化へ

 その代わりとして、内定開始日を4年生10月1日以降とする倫理憲章を企業側(代表世話人は根本二郎・日経連会長)が発表します。ただ、内定開始日は明記するものの、その他の日程は「大学側の学事日程を尊重し」など、曖昧にしています。

一方、大学側は「平成9年度大学及び高等専門学校卒業予定者に係る就職事情について」(申し合わせ)を就職問題懇話会の名で発表。こちらには

「学生に対し、7月1日前の会社訪問等を慎むよう指導する」

と日程を出しています。が、あくまでも大学側の要望であり、拘束力があるわけではありません。結果として、早期化が年々進み、2003年頃には3年生10月ごろに説明会開始(広報解禁)→4年生4月ごろに選考開始(選考解禁)というスケジュールが定着。

これが、2012年卒まで続きます。

2013年卒~2015年卒は3年生12月に広報解禁、4年生4月に選考解禁。

2016年卒は3年生3月広報解禁・4年生8月選考解禁と変更。

これが暑い時期の就活なんて、と批判され2017年卒からは3年生3月広報解禁・4年生6月選考解禁と変更になり、現在に至っています。

またも歴史は繰り返す?

 このように経団連・日経連首脳の発言を見直していくと、どの時代も就職協定やルールについて、後ろ向きな発言が同じ論理で繰り返しています。

 背景には、ルールと言っても、法的な拘束力のない、いわゆる紳士協定である点に注目できます。

 これは日本が法治国家でありながら、こと就職/採用に関する限り、罰則規定付きの法律で規制することが難しい、という事情があります。

 仮に、ですが、採用日程を法制化しても、広報解禁日以前に「これはインターンシップですから」「単なるセミナーで採用広報目的ではありません」「単に大学の先輩が後輩学生に会っていただけです」など、いくらでも抜け道があります。そもそも、現在の日本国憲法には第21条で集会・結社・言論・出版その他の自由を認めています。

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 もしも採用広報に制限を加えるのであれば、憲法改正まで考えなければならない話になります。

1928年から1934年までつづいた日本初の就職協定でも、紳士協定が災いして、好景気もあり、あっという間に崩壊しました。1928年には18社連名で始まった協定が後世、六社協定と言われるのは、開始当初の企業が次々と脱落。協定には最終的に日本銀行など6社しか残らなかったからです。

『日本就職史』(文藝春秋・1967年)の尾崎盛光は、この協定崩壊について、紳士協定である点を辛辣に書いています。

「不景気のときは紳士だが、景気がよくなると紳士ではなくなる。昨今のように好景気が続いていると、だれも紳士になり手がいないから、青田刈りが止まらない」

『日本就職史』刊行の1967年は好景気が続いていました。1962年には日経連が「守られないルールは教育上おもしろくない」との理由で、就職協定から脱退。野放し宣言を出します。

 中西会長の発言などを見ていると、なんだか歴史はまた繰り返すのか、としか思えません。

 では、就活ルール・日程はどうあるべきか、という話などは、長くなるのでひとまずおくとしましょう。

お詫び(2018年10月2日)

記事トップの中西宏明・経団連会長の写真について前任の榊原会長のものを誤って掲載していましたので差し替えました。関係者の方にお詫びします。