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北朝鮮に渡った「在日」はどのように生き、死んだのか(3) 90年代、帰国者にも餓死者が続出していた

石丸次郎アジアプレス大阪事務所代表
福岡から12歳で帰国した金綾子さん。40年を北朝鮮で過ごし脱北した。アジアプレス

1959年に始まった在日朝鮮人の帰国事業で、9万3340人が北朝鮮に渡った。彼・彼女たちの「生き様」と「死に様」は、ほとんど知られていない。筆者は20年前から中国や日本に脱北した帰国者の聞き取りを始めた。彼・彼女たちの証言の連載の3回目は、90年代飢饉の中で死んでいった帰国者たちについて。

■誰も知らなかった帰国者の「身世打令」

1999年夏、前述した「在日」のボクシング関係者の親族と延吉市で会った。岡山出身の李昌成(リ・チャンソン)さんと福岡出身の金綾子(キム・ルンジャ)さん夫婦、それに娘のスギョンさん(当時19歳)、スミさん(当時16歳)の4人で、同情を寄せる中国朝鮮族に匿われて1年が経っていた。

その朝鮮族は、食べて寝るだけの4人の面倒を見るのにほとほと疲れていた。私は、朝中国境取材のために延吉市内に借りていたアパートに彼らを迎えることにした。日本に戻っている間はどうせ空き家になるし、この一家と同居してじっくり帰国者たちの生き様を聞きたいと思ったのである。

この時期、大勢の帰国者が中国に逃げ込んでいたはずである。私が直接会った人をざっと挙げると、平壌から単身逃げて来た東京出身の男性、鳥取米子出身の父娘、福岡出身の女性、大阪西成出身の女性、茨城出身の母娘らがいた。延辺や黒龍江省の農村で話を聞かせてもらった。

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動画 香川県出身で北朝鮮で困窮生活送る日本人妻を秘密撮影

彼・彼女らの体験は、日本で出版されたいくつかの手記と共通している部分が多かった。例えば、新潟から出た帰国船が清津港に到着した時の失望、乏しい食糧配給に帰国間もなくからひもじい思いをしたこと、日本から来た異分子として監視と差別に晒されたこと、失言や振る舞いから政治犯収容所に送られた帰国者が少なくなかったこと、などである。

帰国者の手記本の内容が決して的外れでも、特殊な体験でもないことが分かった。一方、彼・彼女らは、私のまったく知らない帰国者の生き様、死に様について話してくれた。おそらく誰にも話したことのなかった「身世打令」(シンセタリョン)。そのうちの一部を紹介したい。

日本入りした脱北者として初めて大学を卒業したリ・ハナさん。帰国者2世だ。写真キム・ヘリム
日本入りした脱北者として初めて大学を卒業したリ・ハナさん。帰国者2世だ。写真キム・ヘリム

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◆清津市の帰国者に餓死多発

前出の李昌成さん、金綾子さんの家族は咸鏡北道清津(チョンジン)市の羅南(ラナム)区域に暮らしていた。清津は、平壌、元山と並んで帰国者が大勢住む地域である。金綾子さんは61年に帰国してからずっと清津の近くに住んでいたため、40年来の帰国者の知人が大勢いた。

特に40~50年生まれの世代は、高度成長期の入り口にあった日本で青春の真っただ中を送ったこと、朝鮮語習得の苦労、軍隊や警察に配置されないなどの帰国者差別を共通して体験し、仲間意識が強かったようだ。清津の帰国者が90年代末の飢饉の中で次々と死んでいったことを、綾子さんは次のように証言した。

李昌成さん(右端)と金綾子さん(左端)が90年代半ばに北朝鮮で撮った最後の帰国者親族の集合写真。李さん一家4人だけが2000年に韓国入りした。他は生死不明。(アジアプレス)
李昌成さん(右端)と金綾子さん(左端)が90年代半ばに北朝鮮で撮った最後の帰国者親族の集合写真。李さん一家4人だけが2000年に韓国入りした。他は生死不明。(アジアプレス)

「清津の帰国者は本当にたくさん死にましたよ。帰国者仲間からブンちゃんと呼ばれていた兄さんがいてね。喧嘩は強いし、男前だし、女の子の憧れだった。日本から仕送りもあってはぶりも良かった。それがいつしか止まり、痩せてしょぼくれたオヤジになっていったんだけど、帰国者同士で集まると、『俺たちは腐っても帰国者だ。自尊心失わず生きて行こう』なんて言うてたよ。

『苦難の行軍』になって飢え死にがいっぱい出始めた時、ブンちゃんの家に寄ったら、何も食べ物がなくて、痩せに痩せててね。パンを食べさせたら喜んで『ルンジャ、俺が死んだら、日本の見える海沿いに埋めてくれよな』と言うてました。

その数日後に死んだんで、仲間で海の見える山に埋めましたよ。

東京から来た「ジャック」と呼ばれてた帰国者は、お腹がペッタンコになって最後は『ぜんざいが食べたい』言うて死んだ。「オバケ」というあだ名の姉さんは、大阪で総連の仕事をしていた。『豚肉を少し食べられたら恨(ハン)はないよ』と言うので、代わりに魚の天ぷら持って行ってあげたけど、2日後に死んだ」(続く)

連載1回目 北朝鮮に渡った在日はどのように生き、死んだのか(1)「日本に連れて行ってください」 私は懇願された

連載2回目 北朝鮮に帰った「在日」はどのように生き、死んだのか(2)北の人を「ゲンチャン」と呼んだ帰国2世 

※在日帰国者たちの記憶を歴史に刻む作業を、在日コリアンと日本人が協働で担うNGOを昨年立ち上げました。「北朝鮮帰国者の記憶を記録する会」

※在日総合雑誌「抗路」第2号(2016年5月刊)に書いた拙稿「北朝鮮に帰った人々の匿されし生と死」を大幅に加筆修正したものです。

北朝鮮地図(製作アジアプレス) 
北朝鮮地図(製作アジアプレス) 
アジアプレス大阪事務所代表

1962年大阪出身。朝鮮世界の現場取材がライフワーク。北朝鮮取材は国内に3回、朝中国境地帯には1993年以来約100回。これまで900超の北朝鮮の人々を取材。2002年より北朝鮮内部にジャーナリストを育成する活動を開始。北朝鮮内部からの通信「リムジンガン」 の編集・発行人。主な作品に「北朝鮮難民」(講談社新書)、「北朝鮮に帰ったジュナ」(NHKハイビジョンスペシャル)など。メディア論なども書いてまいります。

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