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作家・辻村深月が最新作に込めた不登校への「共鳴」

石井志昂『不登校新聞』代表
作家・辻村深月さん

『ツナグ』『鍵のない夢を見る』などで注目を集めた直木賞作家・辻村深月さん。最新作『かがみの孤城』は学校で居場所を失った子どもが主人公だ。

『かがみの孤城』を不登校当事者・経験者に読んでもらったところ「泣きそうなほどリアル」「当時の状況が蘇って苦しかった」という声が集まった。

作者の辻村さん自身は不登校を経験していない。

辻村さんは「不登校の痛み」を題材に選び、当事者に何を訴えたかったのだろうか、不登校経験者らとともに辻村さんを取材した(2017年7月1日『不登校新聞』掲載)。

不登校経験者は自身が直面する悩みを打ち明けつつ質問した。その一部を掲載する。

Q私を不登校にした人を許せません(20歳・女性)

私は高校3年生のときに学校へ行けなくなりました。いやがらせを受けたり、からかわれたりしたことがきっかけでした。『かがみの孤城』に出てくる主人公は、いやがらせをしていた同級生を「消したい」「私の時間が奪われた」とも言ってました。私も同じ気持ちです。学校でのことは、いまでも思い出すと許せないしすごく悔しいです。その一方で早く忘れてしまいたいという思いもあります。「許せない」、そんな思いを抱えたままでいいのでしょうか?

インタビューのようす
インタビューのようす

A.許さなくていいです(辻村)

いやなことをしてきたり、からかってきたりした人のことは許さなくていいです。

『かがみの孤城』を書くにあたり、私はスクールカウンセラーにお話を聞いてきました。そのお話のなかでは「多くの子が『許せない』という気持ちを持つことができずに苦しんでいる」という話も聞いてきました。だから、この質問はとても嬉しい。許さなくていいんです!

主人公と同級生のなかで起きたことは、いじめでもケンカでもなかったと思うんです。でも、同級生が主人公の家の前にまで来たとき、どれだけ主人公が怖かったか、許せなかったか。心が摩耗しすぎて言葉にできないし、パニックに陥ってしまう。そこに至るにはどんな経緯があり、そのときどんな気持ちだったのか、長い長い説明が必要なんです。

そうやって受けた傷のかたちはみんなちがって、誰ひとりとして同じということはありませんし、長い説明以上のことにはなりません。なので当然「いじめ」と一言で表せることなんかじゃない。そこをすくい上げるのが小説の仕事だと思っています。

一方で、主人公にひどいことをした同級生のことも小説ではなるべくフェアに書きたかったんです。彼女たちにも事情があったのかもしれません。無神経な学校の先生も登場しますが、そういう先生に救われる人もいるかもしれません。傷つけた人にも事情があり背景はあるかもしれない。

でもね、それでもあなたは許さなくていいんです。傷つけてきた人の事情をあなたが推し量ったり、背負う必要はありません。大人と呼ばれる年齢になって、私は満を持して、みなさんに言いたいことあります。年齢にかぎらず「くだらない人はいます」と。「大人」なんて呼べるような立派な人なんていないし、理解しあえないことに大人も子どもも関係ない。

あなたが大切にしたい人を大切にするだけでいいんです。

Qなんのために生きるんですか?(14歳・女性)

私は中学生になってから不登校になりました。いろんな理由が重なって行かなくなったのですが、行かなくなってからしばらくは何もできませんでした。勉強をしなければと思いつつも何もできないし、学校にも行けない。なんにもしない時間が続いたとき、「なんで人は生きているんだろう」と思ったことがあります。辻村さんは何のために生きていますか?

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A生き方の比重は自分で決めて構いません(辻村)

私はいま余生をすごしています。30代ですが、もう余生です。上の世代から「まだ若い」と言われますが年齢の問題じゃないんです。

私もなんとか学校へ行ってましたが、人生で一番つらかったのが中学時代です。学校には圧倒的に悪い思い出が多いんです。それなのに、しんどかったからこそ、今もあの時期、とくに中学生時代が濃密だったように感じられるんです。苦しかったことも感動もいまとは比較にならないほど鮮烈でした。

私はあれだけ苦しかったんだから、もう余生です。

余生だから失敗してもいいし、余生だから挑戦もできます。すごく楽しいです、余生は。

小説家にもなれました。さきほど、大人になって伝えられることができたと言いましたが、もう一つだけ、みなさんに勇気を持って伝えたいことがあります。

それは「大人になっても大丈夫です」ということ。

生き方の比重は自分で決めてかまいません。何のために生きているかは、どんなに小さなことでも大きなことでも構わないと思います。楽しいことがあれば、それを生きる理由にしてもいいんじゃないでしょうか。そう思うとけっこう楽しいことってあります。

なので、どうかみなさんも余生の側までいらしてください。

――ありがとうございました(聞き手・石井志昂、子ども若者編集部)

イメージ写真:鐘
イメージ写真:鐘

◎肯定でも否定でもない「共鳴」

辻村さんの取材を通して私自身、考えさせられたことがある。それは「肯定」と「否定」について。

不登校への対応は、受容的に接するほうがいいのか、厳しく接するほうがいいのか、揺れる人は多い。

受容的な接し方とは「褒めて育てる」や「愛していると子どもに伝える」など、いわば肯定的なメッセージを言動で子どもに対して伝えていくというもの。

厳しい接し方とは「甘えさせてはダメ」や「登校を強制するなど毅然とした態度が必要」など、いわば本人の現状を否定するメッセージを伝えていくというもの。

「肯定」と「否定」だけを比べれば、肯定的なメッセージのほうが断然いい。多くの場合、不登校した本人が自分自身を否定せざるをえない気持ちを抱えさせられるため、他者からの否定的なメッセージは毒にこそなれ薬にはならない。

しかし本当の問題は対応が肯定的であろうと否定的であろうと、そんな表層的な技術ではなんの解決にもつながらないことだ。

技術で子どもをコントロールしようとしても、その打算的な思いは、子どものほうが見破り、不信感も募らせていく。そんな現状はいやと言うほど見せられてきた。

辻村さんが語ったことは、本人を否定もしなければ肯定もしていない。

不登校経験者に対し、当時の経験をふり返って「濃密な時間だった」と語った。その話に不登校経験者が興奮したのは、辻村さんが不登校に伴う激しい痛みへ共鳴していたからではないだろうか。

私には辻村さんが「あなたの痛みはあなたが生きた証なんだ」と語っているようにも聞こえた。

その思いは『かがみの孤城』からも感じられた。リアルな「不登校の痛み」が描かれていても、取材した不登校当事者が読後に「気持ちが救われた」と語ったのは「共鳴」をメッセージとして感じたからだろう。

肯定でも否定でもなく、共鳴すること。表層的な技術で人は救われないこと。不登校対応だけではなく、心の芯の部分から傷ついた他者とどう向き合っていくか、その指針を示していたような気がしてならない。

『不登校新聞』代表

1982年東京都生まれ。中学校受験を機に学校生活が徐々にあわなくなり、教員、校則、いじめなどにより、中学2年生から不登校。同年、フリースクールへ入会。19歳からは創刊号から関わってきた『不登校新聞』のスタッフ。2020年から『不登校新聞』代表。これまで、不登校の子どもや若者、親など400名以上に取材を行なってきた。また、女優・樹木希林氏や社会学者・小熊英二氏など幅広いジャンルの識者に不登校をテーマに取材を重ねてきた。著書に『「学校に行きたくない」と子どもが言ったとき親ができること』(ポプラ社)『フリースクールを考えたら最初に読む本』(主婦の友社)。

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