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「クモが怖い」は遺伝するか

石田雅彦科学ジャーナリスト、編集者
Photo by Masahiko Ishida

獲得形質は遺伝するか

「獲得形質は遺伝しない」。筆者が高校時代に生物の教師がこう言った。

獲得形質というのは、生物の個体が生まれた後に後天的に得た能力や身体的な変化のことだ。この逆は先天的な性質で、有性生殖の生物では両親から受け継いだ遺伝子の情報によるものとなる。

つまり、生まれた後に獲得した能力や身体的な変化は遺伝子には反映されず、子孫には受け継がれない。遺伝情報は不可逆だということが、従来の生物学、遺伝学の「常識」であり「セントラルドグマ」という不可侵の教義だった。

この「ドグマ」に逆らい、過去にはソ連などの旧共産圏で「獲得形質は遺伝する」という学説(ルイセンコ論争)が流布したことがある。その結果、農法がゆがめられて大飢饉が起き、悲惨な飢餓に陥った。反共産主義プロパガンダの立場から、獲得形質は「絶対に」遺伝しない、と主張するイデオロギー的に影響された主張も一部で根強かった。

だが、これまであまりにもこうしたダーウィン的な進化論が牢固頑迷な教義だったことに対して一種の「反省」から、揺り返しも起きている。それが「ネオ・ラマルキズム」や「エピジェネティクス(epigenetics)」と呼ばれている立場だ。

これらの立場は、もちろん後天的な獲得形質は遺伝しないという原理原則は押さえつつ、しかし「遺伝子は後天的に修飾されることもある」という考え方によって従来の不可逆的「教義」を一部修正するというものだ。

たとえば、一卵性双生児の遺伝子はまったく同じであるはずだが、それぞれの個人で少しずつ表現型が異なる、という場合もそうだろう。親の世代で使われなかった機能に関係する遺伝子に修飾が加えられ、子の世代にその修飾が遺伝することもある。

この「修飾」は分子レベルでは主に、DNAのメチル化(また脱メチル化、DNAの一部に化学的な修飾が加えられる)、そしてヒストンの化学的修飾、という二つの説明でなされることが多い。

ヒストン、というのは長大(約1.8メートル)なDNAを巻き取り、各細胞の核内に格納するためのタンパク質のことだ。図のように糸巻き状になっていて、ヒストンの化学的な修飾は米国の研究者チャールズ・デビッド・アリス(Charles David Allis)氏らが発見した(*1。後天的にヒストンに付箋のような目印がつき、それが個体の機能に反映し、子孫にも伝えられる、というわけだ。

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図の引用元:Stephen B. Baylin & Kornel E. Schuebel, "Genomic biology: The epigenomic era opens", Nature 448, 548-549, 2 August 2007

恐怖体験はエピジェネティクス的に伝えられる?

前置きが長くなったが、今日のお題は「恐怖の体験は遺伝するかどうか」だ。世の中は「重力波」の発見で大騒ぎだが、こっちはひっそりやっていこう。

ネズミがネコを怖がるのは、ネコの臭いが嗅覚センサーを経て脳の扁桃体へ伝わり、すくみ反応や回避行動につながるからだ。生まれてから一度もネコを見たことも襲われたこともない子ネズミも、ネコの臭いをかいだ途端、恐怖反応を起こす。

では、こうした機能は、どうしてネズミに備わったのだろう。そして、どうやって遺伝子に残されるようになったのだろう。

こうした疑問について古今東西、様々な研究が続けられてきた。たとえば、オスのマウスにある臭いをかがせ、同時に電気ショックを与えて恐怖体験を記憶させる実験がある*2)。米国エモリー大学の研究者によるもので、この体験をさせた「オス」のマウスの子どもに同じ臭いをかがせて反応を観察した。

子どもは人工授精させたので、父親の「文化的」な影響はまったく受けていない。同じ臭いをかがせた子のマウスは、親と同じ反応を示し、さらに孫にまで同じ反応が「遺伝」した。また、親のオスマウスでは、嗅覚と恐怖体験をつなぐ神経細胞が何倍も増えていた。後天的な経験が、DNAやヒストンを修飾し、それが神経細胞の増加につながっていたのかもしれない。

ところで、広場恐怖症や先端恐怖症、高所恐怖症など多種多様な恐怖症を持つ人がいるが、動物に対するものでも「ヘビ恐怖症(Ophidiophobia)」や「ニワトリ恐怖症(Alektorophobia)」、節足動物のクモを怖がる「クモ恐怖症(Arachnophobia)」などがある。これらの恐怖症もまた、恐怖を与える動物と接触した際の祖先の記憶が遺伝子になんらかの影響を与え、子孫や人類全体へ伝えられてきたものなのだろうか。

クモはわりに危険な生物である

クモ恐怖症について言えば、クモは我々が考えているほど安全な動物ではない。

海外邦人医療基金のニュースレター「続・話題の感染症16『毒をもった身近な生物(1)クモとクモ毒』」によれば、クモに咬まれることによる中毒症を「クモ刺咬症(Araneism、Araneidism)」と言う。そのほとんどは、咬まれても症状はそう重くないが、イトグモ刺咬症(Loxoscelism)によるものでは南米のチリで63人(1873〜1975年)も死亡しているらしい。クモに対する祖先の嫌な記憶が、今のクモ恐怖症につながっているとも考えられる。

もちろん、こうした研究によって、獲得形質はDNAそのものに影響を与えない、という「ドグマ」が崩れたわけではない。だが、遺伝子の学問的な研究結果や成果は、極端なことを言えば「進化論」という思想的立場と一致しないこともある。

個体の経験が子孫に伝えられることは、ずっと過小評価されてきた。遺伝子を後天的に修飾するというエピジェネティクスの考え方は、iPS細胞などの再生医療や創薬、遺伝病の解明などで利用され、すでに確立している学問分野なのだ。

  • 1)Strahl, BD and Allis, CD (2000), "The language of covalent histone modifications.", Nature 403, 41-45, 2000
  • 2)Brian G Dias & Kerry J Ressler, "Parental olfactory experience influences behavior and neural structure in subsequent generations", Nature Neuroscience 17, 89-96, 2014
科学ジャーナリスト、編集者

いしだまさひこ:北海道出身。法政大学経済学部卒業、横浜市立大学大学院医学研究科修士課程修了、医科学修士。近代映画社から独立後、醍醐味エンタープライズ(出版企画制作)設立。紙媒体の商業誌編集長などを経験。日本医学ジャーナリスト協会会員。水中遺物探索学会主宰。サイエンス系の単著に『恐竜大接近』(監修:小畠郁生)『遺伝子・ゲノム最前線』(監修:和田昭允)『ロボット・テクノロジーよ、日本を救え』など、人文系単著に『季節の実用語』『沈船「お宝」伝説』『おんな城主 井伊直虎』など、出版プロデュースに『料理の鉄人』『お化け屋敷で科学する!』『新型タバコの本当のリスク』(著者:田淵貴大)などがある。

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