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我々が「忘れっぽい」理由を遺伝子から考える

石田雅彦科学ジャーナリスト、編集者
photo by Masahiko Ishida

記憶を引き出す仕組み

強烈な記憶というのは、誰でも長く頭の中に残っています。しかし、それも時間の経過とともに次第に薄れていく。忘却とは忘れ去ることなり、忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ。この厄介な記憶にも、遺伝子が関係しています。この記憶、どういう仕組みで今まで私の頭の中に入っていて、どんなきっかけで出てくるんでしょうか。

人間の脳については、まだまだわからないことだらけですが、記憶はどうも何かの物質として頭の中にあるわけじゃないらしい。記憶とは、頭の中の神経の細胞、ニューロンの組み合わせ、つまり神経回路網です。ある特定のニューロン群が組み合わさり、一つの記憶のデータになっている。

たとえば、私には数年前に京都を旅した記憶がありますが「あれは秋のことで、嵐山の紅葉がキレイだった」という記憶があり、これはニューロン群Aといった組み合わせになる。「その前の年は、どこへ旅行したんだっけ? あ、韓国のソウルへ行ったんだ。あれも秋で街路樹のイチョウがキレイだった」という記憶がニューロン群B。過去に旅をしたこと、同じような古い都を旅したこと、色づく木々の美しさに心を奪われた体験などは、おそらくAとBで共通するニューロンを使っているんじゃないかという仮説があるのです。

だから、一つの体験を思い出すと、芋づる式に関係した記憶をたぐり寄せることができる。人間の脳の中には、約100億個のニューロンがあるそうです。この全てを記憶に使っているとは限りませんが、記憶の組み合わせに使っているニューロンの数は千差万別でしょうし、ニューロンを使った組み合わせは、仮に一億個でも膨大な数になります。

短期で覚えられるのは5つから7つ程度

こうしたニューロン群を構成し、何かを記憶するためには材料が必要です。

過去の体験は、一種の学習です。この体験という学習が、記憶の材料になる。もちろん、私たちの脳は、実際に体験してないことを想像することができます。しかし、これも過去に自分に起きた何らかの記憶を材料にして作られている。まったくの体験ゼロから想像するなんてことはできません。

学習と記憶は、交互相互に繰り返され、影響し合います。また、慎重で臆病はセロトニンという記事で紹介した「情動」も、学習と密接に関係する。まず、情動反応がベースにあり、その上で体験を学習し、情動の反応や体験を記憶していきます。情動と学習、そして記憶は、切っても切れない関係にあるのです。

体験した学習という記憶の材料は、目や耳といった五感から脳へ入力されます。パソコンでいえば、キーボードでデータを入力する感じですが、人間ではそこからの段階が問題。入力された情報が、どうやって脳の中へ貯蔵され、ニューロン群の組み合わせという記憶になっていき、自由自在に、あるいはひょんなキッカケで記憶が引き出されるのか。パソコンなら、データをハードディスクに保存し、保存されたファイルを探して開け、そのデータを再生する、このプロセスを人間の脳はいったいどうやってるのでしょう。

まず記憶には、大きく分けると「短期記憶」と「長期記憶」があります(*1、米国、カリフォルニア大学サンディエゴ校の研究者リチャード・C・アトキンソンらによる論文)。短期記憶は、覚える数が限られています。また、時間がたてばすぐに忘れる。覚えられる数は、大体五つから九つ、7プラスマイナス2くらいと言われています(*2、米国の認知心理学の権威、ジョージ・アーミテージ・ミラーの論文)。数秒とか数十秒で忘れてしまう。それが短期記憶です。

一方、長期記憶は、かなりの数を覚えられ、長いものは一生残っています。短期記憶が最初の材料になり、それをもとにして記憶が貯蔵され、長期記憶になる。こうして脳に記憶が貯蔵されることを「記憶の固定化」と言います。

たとえば、電車が迫ってるホームの端から落ちそうになって怖かった。そんな体験があるとします。すると恐怖の情動が作動し、脳の中で「危ないから気をつけろ」という指令が出る。こうした機能が繰り返されることによって、短期記憶が固定化されます。翌朝、同じホームに立ったとき、怖かった記憶を思い出すでしょう。これは恐怖の情動体験の短期記憶が固定化されていたので翌日、思い出すことができたというわけです。

たくさんある記憶に関係した遺伝子

こうして記憶を固定するのは、いったいどんな遺伝子なんでしょう。

あることを体験して学習すると、即時型最初期遺伝子という遺伝子群が活発に働き始めます。これは、c-fos遺伝子とかArc遺伝子、Zif268(*3、英国、ケンブリッジ大学の研究者らによる論文)、といった遺伝子群。また、即時型最初期遺伝子以外に、CREB(*4、米国、コールド・スプリング・ハーバー研究所の研究者らによる論文)、脳由来神経栄養因子と呼ばれるBDNF(*3、英国、ケンブリッジ大学の研究者らによる論文)、そしてIAP(Intracisternal A Particle)なんていう遺伝子が記憶の固定化に関係しているのでは、と考えられています。アルファベットが並んでいるばかりでなんだかよくわかりませんが、どれも記憶の固定化と脳の可塑性と関連づけられる遺伝子ばかりです。

命の危険があるような強烈な記憶は残りやすいけど、電車に乗らなくなるといつしか忘れてしまうこともあります。記憶というのは不安定なもの。せっかく固定化された短期記憶も、思い出すたびに不安定になる。記憶がいい加減というのは、こうした仕組みでわざと不安定に作られてるからです。

だから、時間をおいて何度か思い出し、さらに再び覚えることで、ようやく長期記憶になる。長期記憶になれば、しっかりと脳に貯蔵されます(*5、米国、コロンビア大学の研究者らによる論文)。固定化された記憶を思い出して再び固定化する。思い出して覚えるという脳のこの働きを、「記憶の再固定化」と言います。一度、脳に貯蔵された長期記憶も、思い出すたびに不安定になっていて、それが再固定化されるたびに強く記憶に刻み込まれていく。

こうした記憶の再固定化に関係している遺伝子もあります。さっき出てきたやZif268やCREBといった遺伝子、GSK-3βを作る遺伝子などが長期記憶を作るためにも働いている(*6、日本、理化学研究所の研究者らによる論文)。また、長生きに関係した遺伝子として知られるSIRT1遺伝子も長期記憶を強化しているようです(*7、米国、マサチューセッツ工科大学の研究者らによる論文)。

脳の可塑性と長期記憶

人間の脳の大きな特徴の一つは「可塑性」と言われています。可塑性というのは、粘土みたいに形を変えられたり、目的に応じて自在に機能を変化することのできる能力のことです。だから、赤ちゃんが言葉を覚えたり、会議で知恵を絞ってアイディアを作り出したり、損傷を受けた脳の機能が別の部位で再生するようなことができる。

脳の遺伝子は、神経細胞に作用するもの、神経細胞以外で働くものを含めて無数にあります。これらが相互に関係してるんですが、こうした遺伝子は脳の可塑性を実現しているのかもしれません。

では、記憶を再固定化するのにも、脳の可塑性が働いているんでしょうか。これについては、おそらくそうだろうと考えられています。なぜなら、短期記憶の固定化で働く遺伝子は、あらかじめ用意されたタンパク質を利用しているのに対し、長期記憶については遺伝子がタンパク質を新たに作りだしているからです。

この長期記憶のためにできたタンパク質が、脳の可塑性に関係している可能性がある。すでにあるものを使うか、新しいものを作り出すか。これが短期記憶と長期記憶の大きな違いです。

では、どうして脳は記憶を固定するために、こんな面倒なことをするんでしょう。

記憶をとどめるのも遺伝子の働き

私の個人的な旅の話なんですが、韓国のソウルへ旅行したとき、ミョンドンの路地裏に小汚い料理屋が何軒か並んでいて、その中の一つの店でメチャクチャ美味しいチゲを食べたことがあります。何年かたってから再びソウルへ行ったとき、以前の記憶をたぐり寄せながらその路地裏へ行ってみました。

でも、同じような店構えが並んでいて、どの店でチゲを食べたのかはっきり思い出せない。まぁいいかと行き当たりばったりで選んだ店に入ります。しかし、なんとメニューにチゲがないではないか。愕然としました。

気を取り直し、ビビンバを頼みます。期待しなかったんですが、これがまたメチャうまかった。こうして私は、ミョンドンのあの路地裏に行けば、けっこうな確率でうまい店に当たることを学習し、それを長期記憶としているのです。

記憶の再固定化というのは、記憶をアップデートし、リニューアルすることです。これは脳の可塑性と考えることができます。特定の記憶に新たな体験を重ね、記憶を修正したり違う情報を付け加える。似たような記憶の違いを比較し、記憶のネットワークを広げたりしている。

では、ごく日常的なつまらないことを、何十年もたってからマザマザと思い出すのはどういう仕組みなのでしょう。おそらく、そのつまらない短期記憶は、何かの拍子に固定化され、そのまま脳のどこかへしまいこまれ、自分では自由に引き出せない記憶になっていたのかもしれません。別の記憶を再固定化のために思い出す際、それぞれのシナプス群にたまたま共通する神経細胞があり、それが引っ張り出されてきたというわけです。

日々生きている間に感じる短期記憶は、それこそ膨大な量になります。そんな短期記憶のいったいどれを覚え、どれを忘れるのか。脳の中で働くCREBなどの遺伝子を活発化させることができれば、記憶力が良くなるのかもしれません。

しかし、日常のささいなことまで覚えていたくない、というのも人間の本心でしょう。それが大失恋なら早く懐かしい想い出になってしまえばいい。そう考えるのもまた自然です。何十年も前の平凡な風景は、その一瞬だけが偶然に記憶の底から浮かび上がるからこそ宝物になるのです。

(*1:Atkinson, R.C. and Shiffrin, R.M. "Chapter: Human memory: A proposed system and its control processes". In Spence, K.W.; Spence, J.T.. The psychology of learning and motivation (Volume 2). New York: Academic Press. pp. 89-195.(1968).

(*2:George A. Miller, "The Magical Number Seven, Plus or Minus Two: Some Limits on our Capacity for Processing Information", Psychological Review, 63, 81-97.

(*3:Jonathan L. C. Lee, Barry J. Everitt and Kerrie L. Thomas, "Independent Cellular Processes for Hippocampal Memory Consolidation and Reconsolidation", Science 7 May 2004: Vol. 304 no. 5672 pp. 839-843

(*4:Alcino J. Silva, Jeffrey H. Kogan, Paul W. Frankland and Satoshi Kida, "CREB AND MEMORY", The Annual Review of Neuroscience. 1998. 21:127-48

(*5:VF Castellucci, TJ Carew and ER Kandel, "Cellular analysis of long-term habituation of the gill-withdrawal reflex of Aplysia californica", Science 22 December 1978: Vol. 202 no. 4374 pp. 1306-1308 DOI: 10.1126/science.214854

(*6:Tetsuya Kimura, Shunji Yamashita, Shinobu Nakao, Jung-Mi Park, Miyuki Murayama, Tatsuya Mizoroki, Yuji Yoshiike, Naruhiko Sahara, Akihiko Takashima, "GSK-3β Is Required for Memory Reconsolidation in Adult Brain", PLoS ONE 3(10): e3540. doi:10.1371/journal.pone.0003540, October 28, 2008

(*7:Jun Gao, Wen-Yuan Wang, Ying-Wei Mao, Johannes Gra*ff, Ji-Song Guan, Ling Pan, Gloria Mak, Dohoon Kim, Susan C. Su & Li-Huei Tsai, "A novel pathway regulates memory and plasticity via SIRT1 and miR-134", Nature 466, 1105-1109 (26 August 2010)

科学ジャーナリスト、編集者

いしだまさひこ:北海道出身。法政大学経済学部卒業、横浜市立大学大学院医学研究科修士課程修了、医科学修士。近代映画社から独立後、醍醐味エンタープライズ(出版企画制作)設立。紙媒体の商業誌編集長などを経験。日本医学ジャーナリスト協会会員。水中遺物探索学会主宰。サイエンス系の単著に『恐竜大接近』(監修:小畠郁生)『遺伝子・ゲノム最前線』(監修:和田昭允)『ロボット・テクノロジーよ、日本を救え』など、人文系単著に『季節の実用語』『沈船「お宝」伝説』『おんな城主 井伊直虎』など、出版プロデュースに『料理の鉄人』『お化け屋敷で科学する!』『新型タバコの本当のリスク』(著者:田淵貴大)などがある。

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