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ヘビへの恐怖は本能か

石田雅彦サイエンスライター、編集者
photo by Masahiko Ishida

生物の行動には「情動反応」というものがあります。食欲や性欲といった本能に関わるプリミティブな「感情」のことで、もちろん人間にも備わっている。我々はヘビのオモチャにドキッとしたり、極端なときには道に落ちている黒いヒモを怖がったりしますが、こうした恐怖の感情も情動反応の一種です。

この「恐怖の情動反応」は、果たして先天的にプログラムされたものか、それとも体験や学習によって後天的に獲得するものか、長い間、議論されてきました。我々はヘビを本能で怖がるのか、それともアポステリオリ(経験則)でヘビが怖いことを学習するのか、というわけです。

この研究で有名なのは、ジョン・ワトソン(John B. Watson)という米国の心理学者がやった条件付け学習の実験です。生後11カ月の男の赤ちゃんにネズミを見せ、彼が興味を持って触ろうとしたときを見計らって繰り返し不快で大きな金属音を聞かせて驚かす、というイジワルな実験。

彼は不快な音とネズミを関連付け、ネズミが嫌いになり、ネズミに似たウサギや毛がついた物体、さらに白ヒゲをつけたワトソンのサンタクロースの扮装さえ怖がるようになってしまったとさ、という話です。この実験は1920年に行われ、ワトソンは「人間のあらゆる性格は後天的な学習付けや条件付けで決まり、遺伝的な要素は排除できる」とまで極言しています。

では、ネズミではなく、ヘビの好悪についてはどうなんでしょうか。爬虫類好きもいますが、ほとんどの人間はヘビを怖がります。あの恐怖や嫌悪は、先天的な情動反応か後天的な学習か、どっちなのか。これについては、米国の心理学者スーザン・ミネカ(Susan Mineka)らの実験(Journal of Abnormal Psychology, 1989, Vol.98, No.4, 448-459)があります。

研究室で生まれ育ったアカゲザルは、一度もヘビを見たことがないのでヘビを怖がりません。こうした実験室育ちのアカゲザル6頭に、野生のアカゲザルが実際にヘビを怖がっている様子を録画したビデオを見せる、という実験です。24分もたつと、6頭とも同じようにヘビを怖がるようになりました。ほかのサルが怖がるのを見て、ヘビに対する恐怖心を学習したというわけです。

ところが、同じビデオを編集し、このヘビを、それぞれ作り物のヘビ、ワニ、ウサギ、花と入れ替えてアカゲザルたちに見せた。すると、野生のアカゲザルから学習して怖がるようになったのはヘビとワニだけで、ウサギや花を怖がることはありませんでした。アカゲザルには先天的にヘビやワニに対する情動反応があり、野生の仲間の反応でそれが目覚めたらしい。こうした危険を喚起する信号にウサギや花は入っていないのでは、というわけです。

恐怖の情動反応が、先天的かどうかについては、日本でも同じような実験が行われています。これは京大霊長類研究所の正高信男氏らがやったもので、サルや人間の赤ちゃんにヘビを含んださまざまな生物の絵を見せました。すると、ヘビに対する反応が最も速かった(PLoS ONE 5, 11: November 30, 2010)。

実験では、ヘビを見たことのない3歳児20人と4歳児34人、そしてヘビを知っている大人20人それぞれに9枚の写真から1枚を選んでもらいました。たとえば、花の写真8枚の中にヘビの写真1枚が混じったもの、ヘビの写真8枚の中に花の写真1枚が混じったもの、またヘビの代わりにクモやムカデ、細長いホース状の写真が混じったものを見せ、それぞれのヘビと花の写真を選ぶ時間を計測した、というわけです。

すると、ほかの写真では選ぶ時間に差がなかったのに、ヘビを選ぶ場合は幼児も大人もほんの少しだけ速かった。ヘビを怖がるというより、ヘビに対する反応が速い。これはヘビへの恐怖を選択的に学習したアカゲザルの実験を裏付けています。ヘビを怖がるのは先天的な本能、我々にもともと備わっている情動反応なのではないか、というわけです。

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Human Young Children as well as Adults Demonstrate ‘Superior’ Rapid Snake Detection When Typical Striking Posture Is Displayed by the Snake

我々の恐怖の情動反応は、どこから来るんでしょうか。脳のどの部分で引き起こされる反応なんでしょうか。

一般的な情動反応は、脳の扁桃体に関わっているらしいことがわかっています。扁桃体は記憶にも関係する脳の部位なので、情動反応と記憶には何かつながりがあるのかもしれません。

いずれにせよ、情動反応を起こす脳へ情報を送るためにはデバイスが必要です。脳だけで外界のことを知ることはできない。

たとえば、嗅覚。基本的に草食獣は肉食獣の臭いを嫌い、シカの害を防ぐためにライオンの尿をまいておく、という実験もあります。日本のシカは、ライオンなど見たことも食べられたこともないはずなのに、先天的にライオンの尿に恐怖を感じ、怖がる行動をとるそうです。

嗅覚と情動反応の関係については、小早川高氏、小早川令子氏らの研究(Nature vol.450, 7169, pp503-508, 2007)があります。野生のマウスは、ネコなどの天敵の臭いを嗅ぐと恐怖を感じます。しかし、マウスの嗅覚細胞で特定の部位を除去すると、ネコを見ても怖がらないマウスになってしまった。除去しない部位ではネコの臭いを嗅げるので、除去した部位に恐怖の情動反応を引き起こす機能がある、というわけです。

アカゲザルの場合は視覚、マウスの場合は嗅覚といった外界からの情報を受け取るセンサーが重要、ということになります。センサーから入ってきた情報によって、扁桃体に刺激が伝わり、何らかの遺伝子が働いて恐怖などの情動反応が起きる。

で、ここからは余談になりますが、今の我々にとって話題になる恐怖といえば「放射能」です。東京電力福島第一原子力発電所の事故後、放射能を怖がるあまり、南の島まで逃げていった女性作家やアルファブロガーもいる。我々のこうした放射能に対する恐怖というのは、果たして先天的なものか後天的なものか。

情動反応を引き起こすためには、外界の情報を得るためのセンサーが重要です。しかし、生物に放射能を感知できるセンサーは備わっていない。原発事故を起こしたチェルノブイリでは、ずっと固有の野生ネズミやツバメなどの渡り鳥の生態調査が行われている。遺伝的に何らかの影響があるのでは、という研究もある反面、ネズミの個体数が激減したり渡り鳥が来なくなる、という影響は報告されていません。

福島第一原子力発電所周辺では飼い主が避難したあとに放置されたイヌやネコ、ウシなどが棲息しています。もし生物に放射能を感知するセンサーがあるなら恐怖を感じて逃げるはずです。となると、放射能を怖がるという情報は後天的に与えられたものであり、ワトソンの実験ように学習によって我々は恐怖の情動反応を引き起こしている、と考えられる。

では、なぜ放射能の恐怖の情報が我々に与えられてきたんでしょうか。筆者はそれを「核戦争プロパガンダ」のため、と考えています。核兵器を抑止力にするためには、放射能への恐怖を周知させなければなりません。センサーのない我々に植えつけられた「情動反応」、それが放射能への恐怖だった、というわけです。

※この原稿は2012年6月3日にアゴラに発表した内容を改題改訂したものです。

サイエンスライター、編集者

いしだまさひこ:北海道出身。法政大学経済学部卒業、横浜市立大学大学院医学研究科修士課程修了、医科学修士。近代映画社から独立後、醍醐味エンタープライズ(出版企画制作)設立。紙媒体の商業誌編集長などを経験。日本医学ジャーナリスト協会会員。水中遺物探索学会主宰。サイエンス系の単著に『恐竜大接近』(監修:小畠郁生)『遺伝子・ゲノム最前線』(監修:和田昭允)『ロボット・テクノロジーよ、日本を救え』など、人文系単著に『季節の実用語』『沈船「お宝」伝説』『おんな城主 井伊直虎』など、出版プロデュースに『料理の鉄人』『お化け屋敷で科学する!』『新型タバコの本当のリスク』(著者:田淵貴大)などがある。

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