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卵はなぜ「物価の優等生」なのか? 吉川元農相の疑惑で発覚した不都合な真実

猪瀬聖ジャーナリスト/翻訳家
(写真:ロイター/アフロ)

「物価の優等生」と言われてきた鶏卵。栄養価も高く、日本人の食卓に欠かすことのできない食材だ。だが実は、日本の鶏卵は、世界の潮流であるアニマルウェルフェア(動物福祉)や人の健康への観点から、様々な問題が取りざたされている。それを図らずも白日の下にさらしたのが、22日に議員辞職に追い込まれた吉川貴盛元農相の現金授受疑惑だ。

飼育法の規制強化撤回を依頼?

吉川元農相は体調不良を辞職の理由としているが、鶏卵生産大手アキタフーズ・グループの元代表からの現金供与疑惑がからんでいることは、誰の目にも明らかだ。疑惑は、政府がアニマルウェルフェアの観点から採卵用鶏の飼育方法の規制強化を検討していたところに、規制強化の撤回を依頼する目的で、元代表が当時農相だった吉川氏に現金を渡したのではないかと報じられている。

普段食べている鶏卵がどんな環境で生産されているのか、いちいち想像する消費者はあまりいないだろう。スーパーで売られている鶏卵のパッケージは、自然や健康をイメージさせるキャッチコピーや写真、イラストであふれている。「きっと大切に育てられ幸せに暮らしているに違いない」と思うかもしれない。だが現実は、必ずしもそうとは限らない。

くちばしを切り落とされる

日本の採卵用鶏の飼い方で、獣医学の専門家や市民団体、海外から一番問題視されているのが、複数の鶏を金属製の小さなケージ(かご)に入れて飼う「ケージ飼い」だ。特に「バタリーケージ」と呼ぶ、身動きがほとんどとれず、羽も伸ばせない小さなケージに閉じ込めて飼う飼い方は、残酷だとして、世界的に廃止の動きが広がっている。

動けない以外にも、例えば、鶏どうしが嘴(くちばし)で突き合って怪我するのを防ぐため、嘴の先が切り落とされる。これは「デビーク」や「ビークトリミング」と呼ぶ鶏の管理法で、デビークされた鶏はエサを食べるのに苦労すると言われている。ケージの床は、産んだ卵を集めやすいよう傾斜がついており、一生、不自然な立ち方を強いられる。密飼いなので、病気にもなりやすい。

EUは2012年に禁止

欧州連合(EU)は2012年、バタリーケージを全面禁止し、バタリーケージより広く、鶏がくつろげる巣箱や止まり木などを備えた「エンリッチドケージ」での養鶏に移行した。最近は、ケージそのものを使わない「平飼い」や「放し飼い」が増えている。

米国は、鶏卵を大量に調達する大手食品メーカーや、外食大手、小売大手が先頭に立ち、ケージ飼い追放に取り組み始めている。ハンバーガーチェーン最大手のマクドナルドは2015年、鶏卵の調達先を平飼いの生産者に段階的に切り替えると発表。翌2016年には、小売り最大手のウォルマートが、2025年までに、すべての鶏卵を「ケージフリー」(ケージを使わない)で生産されたものに切り替える方針を公表した。

今月、米小売り大手のコストコは、日本を含む全世界の店舗で、販売する鶏卵を今後数年かけてケージフリーに切り替える方針を株主に示した。すでに中国では、コストコに納入する養鶏業者が、5万羽が飼育可能なケージフリーの鶏舎を建設中と報じられている。

B5サイズの空間で一生を過ごす

対照的に日本では、今もケージ飼いが圧倒的だ。公益社団法人畜産技術協会が2014年に全国の採卵養鶏農家に実施したアンケート調査によると、採光窓や換気窓のついた開放鶏舎、窓のないウインドウレス鶏舎合わせて、ケージ飼いをしている農家は547戸。これに対し、平飼いは44戸、放し飼いは10戸だった(重複回答)。

さらにケージのタイプで分けると、エンリッチドケージを採用しているのは、ケージ飼いをしている農家全体の1%にも満たない。つまり、ほぼすべてのケージが、EUでは禁止されているバタリーケージというわけだ。ちなみに、鶏1羽あたりに割り当てられるスペースに関する質問で最も多かった答えは、「370平方センチメートル以上430平方センチメートル未満」。B5用紙1枚(468平方センチメートル)より小さい。「370平方センチメートル未満」という答えも1割弱あった。官製はがきを2枚並べたよりも25%大きいサイズだ。

鶏卵業界は、鶏卵を長年にわたり安く安定的に提供できているのは、ケージ飼いなどによる効率的な経営が一因と強調している。

中身のない日本農林規格

22日付の毎日新聞は、元農相の現金授受疑惑は、エンリッチドケージの導入をめぐるものだったと報じた。同紙によると、2018年9月、国際的な家畜の安全基準を定める国際獣疫事務局(OIE)が、日本を含めた加盟国にエンリッチドケージの採用を義務付ける案を提示。案の内容に強い懸念を抱いた日本の業界団体は対策協議会を設置し、政策担当顧問に就任したアキタフーズ・グループの元代表が、同年10月に農相に就任した吉川氏に反対意見を伝えた。OIEは2019年9月、結果的に日本の意見を反映した修正案を、各国に提示した。

半年後の今年3月、農水省は「持続可能性に配慮した鶏卵・鶏肉」の日本農林規格(JAS)を制定した。規格の要件として「アニマルウェルフェアへの配慮」という項目も入っているが、ケージ飼いへの言及はない。日本農林規格調査会のある委員は筆者の取材に対し、「アニマルウェルフェアと書いてあるのに、ケージ飼いやデビークに触れていないのはおかしい」と農水省の姿勢に疑問を呈した。

人の健康への重大な懸念も

ケージ飼いは、アニマルウェルフェアの観点からだけでなく、人への影響も懸念されている。鶏卵に関してはサルモネラ菌による食中毒が時折ニュースになるが、実は、それより怖いのが、薬剤耐性菌の問題だ。

鶏に限らず、家畜全般に、病気予防の目的で抗生物質をエサに混ぜる管理法がある。一般に、密飼いのほうが動物にストレスがかかり病気を発症しやすいため、抗生物質の投与量が多いと言われている。特定の抗生物質を家畜に与え続けると、抗生物質に耐性を持つ薬剤耐性菌が生まれ、それが何かのきっかけで人の体内に入ると、病気の際に処方された抗生物質が効かず、死に至る可能性もある。

経済開発協力機構(OECD)によると、世界全体で毎年、推定70万人が、薬剤耐性菌が原因で死亡しており、2050年にはその数が1000万人に達し、がんによる死者数を超える可能性がある。世界保健機関(WHO)は2015年の総会で、各国が薬剤耐性菌の問題に取り組むための国際枠組みとなるグローバル・アクションプランを採択した。

マクドナルドが平飼い卵への切り替えを決めたのも、消費者の懸念が強い薬剤耐性菌の問題が理由の1つと報じられている。

東京五輪にも関係

欧米諸国はアニマルウェルフェアへの関心が高いだけに、吉川議員の現金授受疑惑を機に、日本の畜産業の実態により厳しい目が向けられる可能性も高い。

現金授受疑惑を報じた英ガーディアン紙は、「日本の養鶏業界は、(EUの専門機関である)欧州食品安全機関が家畜を病気にかかりやすくすると指摘するバタリーケージ飼いを維持するため、政治家へのロビー活動を繰り返してきた」などと伝えた。

来年の東京五輪にも影響を及ぼしそうだ。

2012年のロンドン五輪で銀メダリストを獲得した米国サイクリングチームのドッチィ・バウシュ選手ら、米国、カナダ、ニュージーランドなどのアスリート9人は、東京五輪・パラリンピックで使用する鶏卵を100%ケージフリーにするよう、東京都知事、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会に求めている。

選手らによると、ロンドン五輪と、前回のリオデジャネイロ五輪では、アニマルウェルフェアに配慮し、ケージフリーの鶏卵が選手村で提供されたという。国際オリンピック委員会(IOC)は、五輪の開催は自然環境の破壊や資源の無駄遣いとの批判の高まりに答えるため、1990年代から環境保護重視の姿勢を打ち出し、1996年には五輪憲章に「持続可能性」を明記した。開催都市がケージフリー鶏卵を提供しているのも、この一環だ。

日本でも、ケージフリーの鶏卵は、健康を気にかける一部の消費者の間で以前から人気がある。スーパー大手のイオンが今年2月、ケージフリーの「平飼いたまご」を自社ブランドで発売するなど、鶏卵市場が変わる兆しも見え始めている。

ジャーナリスト/翻訳家

米コロンビア大学大学院(ジャーナリズムスクール)修士課程修了。日本経済新聞生活情報部記者、同ロサンゼルス支局長などを経て、独立。食の安全、環境問題、マイノリティー、米国の社会問題、働き方を中心に幅広く取材。著書に『アメリカ人はなぜ肥るのか』(日経プレミアシリーズ、韓国語版も出版)、『仕事ができる人はなぜワインにはまるのか』(幻冬舎新書)など。

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