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EPAでワインは安くなるか?

猪瀬聖ジャーナリスト/翻訳家
(写真:アフロ)

日本と欧州連合(EU)の経済連携協定(EPA)交渉が妥結。EU産ワインの関税は早ければ2019年の協定発効と同時に撤廃、チーズも多くの品目で税率が大幅に下がる。ワインもチーズも消費者の健康志向などで国内消費は右肩上がり。国産品の人気も高まっている。そうした中の本場欧州からの輸出攻勢は、国内市場にどんな影響を与えるのか。

互角の戦いに

まずはワイン。輸入ワイン市場は長年、フランスが不動の1位を占めてきた。ところが一昨年、初めてチリに抜かれ、その差は昨年さらに拡大。フランスに次ぐ輸入量を誇っていたイタリアやスペインも、ここ数年は苦戦続きだ。

最大の原因が、2007年に発効した日本・チリEPA。通常、輸入ワインには、輸入価格の15%か1リットルあたり125円のうち低い方の税率が適用される。ボトル1本あたりだと、最大で93円の関税がかかる計算だ。しかし、チリワインの税率は、日本・チリEPAの発効以降、徐々に下がってきており、2019年にはついにゼロになる。この間、チリワインの輸入量は5倍に膨らんだ。

関税の影響を最も受けるのは、小売価格が1本1000円以下の、デイリーワインと呼ばれるタイプ。ワイン本体の価格が安いほど、小売価格に占める関税の割合が高くなるためだ。ワイン業界関係者は、「1000円以下のワインは、わずかな税率の差が売れ行きを大きく左右する」と指摘する。

しかも、1本500~1000円のワインは、販売数量全体の約半分を占め、最も売れ行きがいい。チリワインの輸入量が増えているのは、もともとこの価格帯のワインが多いのに加え、EPAの恩恵を受けて、この価格帯での価格競争力が強まっているためだ。

だが、EU産ワインの関税がゼロになれば、EU産ワインがチリワインに互角の戦いを挑める。フランスなどではワインの国内消費が落ち込んでいるだけに、即座に輸出攻勢を掛けてくるのは必至だ。日本の消費者にとってみれば、チリワイン並みの値段で、チリワインとは香りも味わいも異なるフランスやイタリア、スペインなどのワインを楽しむ機会が増えるため、EPAの恩恵は大きい。

逆に、1本2000円以上のいわゆるプレミアムワインは、価格全体に占める関税の割合が小さいため、関税が下がっても小売価格への影響は軽微。加えて、プレミアムワインを好む消費者は値段よりもブランドや味わい重視で選ぶ傾向が強く、100円や200円値下げしたからといって、売れ行きが伸びる可能性は小さい。つまり、値段の高いワインに関しては、EPAの影響はほとんどないと言っていいだろう。

日本ワインへの影響は軽微

では、ワイン愛好家の間で人気急上昇中の、「日本ワイン」への影響はどうか。

日本ワインは、「国産ブドウのみを原料とし、日本国内で製造された果実酒」(国税庁)のことで、国産ブドウの品質向上や注目の造り手の登場などにより、ワイン愛好家を中心にここ数年、人気が上昇。国や地方自治体も、地域経済活性化の起爆剤になり得るとして、日本ワインの市場拡大を後押ししている。

日本ワインの流通量は現在、ワイン流通量全体の4%程度に過ぎないが、それでも10年前に比べるとシェアは2倍に拡大。ワイナリーの数も2000年以降、急速に増え、現在は全国で260を超えるワイナリーが稼働している。

そんな日本ワインへのEPAの影響について、2013年に設立されたワイナリー「フジマル醸造所」(大阪市)の藤丸智史社長は、「影響は限定的だろう」と冷静に語る。その根拠は何か。

日本ワインの値段は下は1000円未満から上は1万円前後まで幅広いが、愛好家の間で人気が高いのは、比較的小規模な生産者のつくる1本2000円台~3000円台のワインだ。市場拡大のけん引役となっているのも、この価格帯。「この価格帯の日本ワインを買う人は、そのワインを飲みたいから買うという人たち。EPAで同じような価格帯の欧州産ワインの値段が多少下がったからと言って、安易に乗り換えることはない」(藤丸氏)との見方が、関係者の間では多い。輸入プレミアムワインと同じ理屈だ。

2015年に山梨県南アルプス市にワイナリー「ドメーヌ ヒデ」を設立した渋谷英雄氏も、「日本ワイン市場への影響はあまりないだろう」と話す。理由は、「ふだん飲みのデイリーワインは輸入ワイン、ハレの日に飲むのは日本ワインというふうに、消費者が飲み分けているから」と説明。むしろ、「関税撤廃でデイリーワインがより買い求めやすくなれば、ワインを飲む習慣が広がり、長い目で見れば日本ワインにもプラスになるのではないか」と予想する。

チーズ文化が広がるきっかけにも

チーズはどうか。輸入ナチュラルチーズには現在、輸入価格の29.8%の関税が原則かかっている。EPAが発効すると、カマンベールやモッツァレラなどソフトタイプのチーズについては、低関税の輸入枠を設け、その枠内で税率を徐々に引き下げ。枠は、初年度が2万トンで、税率がゼロとなる16年目は3万1千トンにまで拡大される。チェダーやゴーダなどハードタイプは、枠を設けず、全量が関税引き下げの対象となる。

チーズ文化の普及を目指すチーズプロフェッショナル協会の副会長で、自ら北海道新得町でチーズ工房を経営する宮嶋望氏は、「関税が引き下げられれば、輸入ナチュラルチーズの値段は間違いなく下がる。当然、国産ナチュラルチーズにも値下げ圧力がかかるだろう」と見る。

チーズの伝統国であるフランスやイタリアなどのチーズは、種類が豊富で風味も個性的、濃厚なものが多く、日本でもチーズ愛好家の間で非常に人気が高い。しかし、税率の高さに加え、賞味期限の比較的短いソフトタイプのチーズは空輸代の高さも加わり、小売価格が割高なのが市場拡大の妨げとなっている。

今回の合意が、日本に欧州のようなチーズ文化が広がるきっかけになる可能性もある。

国内のチーズ消費量は昨年度、約32万トンとなり過去最高を記録。だが、1人あたりの年間チーズ消費量は2kg強に過ぎず、フランスの27kgやドイツの24kgと比べると10分の1以下だ。しかも日本の場合、家庭での消費は、原料乳から直接つくるナチュラルチーズではなく、ナチュラルチーズをいったん溶かして乳化剤で固め直したプロセスチーズが主。プロセスチーズは値段が手ごろで、風味が穏やかで食べやすい半面、味は画一的だ。

宮嶋氏は、「ナチュラルチーズの値段が下がれば、消費者がナチュラルチーズの魅力を知る機会も増える。長期的に見れば、日本のチーズ市場の拡大やチーズ文化の普及に寄与するのではないか」と話す。

ジャーナリスト/翻訳家

米コロンビア大学大学院(ジャーナリズムスクール)修士課程修了。日本経済新聞生活情報部記者、同ロサンゼルス支局長などを経て、独立。食の安全、環境問題、マイノリティー、米国の社会問題、働き方を中心に幅広く取材。著書に『アメリカ人はなぜ肥るのか』(日経プレミアシリーズ、韓国語版も出版)、『仕事ができる人はなぜワインにはまるのか』(幻冬舎新書)など。

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