「いまは逆に清々しい気持ちです」

3月24日に引退を表明した元横綱・鶴竜親方は、土俵を去った心境をこう表現する。現役時代は決して大きいとはいえない体で、動きの速さを生かした技巧派の相撲が人気だった。土俵外では、心優しい穏やかな性格で多くの人から愛され、後輩力士たちからは「人格者」として崇められている。ファンから惜しまれた、突然の引退から約3ヵ月。鶴竜親方はいま、何を思うのか――。引退の胸中と、20年の土俵人生を、インタビューで振り返る。

親方として後進の指導に当たるいま

――親方としてのいまの生活はいかがですか。

「20年ぶりに、また新弟子に戻ったような感覚です。力士のときは必死だったけど、親方になったから、いまは気が楽です。その代わり、今度は自分の部屋の子たちの相撲を一生懸命見ているので、また見る目が変わりました」

――現在の仕事のやりがいは。

「教える立場になったので、若い子たちを鍛えて、一人でも関取にさせたいという思いがあります。自分が教えることで強くなって、関取になればうれしいでしょうし、楽しみです」

――親方としての仕事以外では、どんな楽しみがありますか。

「下の子がいま1歳なので、顔を見るだけでかわいいです。あと、最近車の免許を取ったので、自分で運転するのが楽しくてね。力士のときは運転禁止だったので、これまでは必ず誰かにお願いしていましたが、自分の運転で家族だけで休みの日に出掛けるのは、すごくいいなと思っています」

人にではなく、己に負けてやめたかった

――引退の決め手となった理由は。

「やっぱり、最後にケガした左太ももの肉離れです。次の場所にも影響が出ると思ったので、引退を決めました。もう限界だっていうことを、体が信号を出して教えてくれたんじゃないかな。もちろん、最後にもう一度土俵に上がりたいという気持ちは確かにありました。陸奥部屋の人たちや後援会の方々を喜ばせたいという思いがあり、それができなかったのは、一番残念です」

――精神的な理由もあったのでしょうか。

「そうですね。結局は気持ちなんですよね。気持ちがついてこないと体も元気にならない。ケガが続いたことによって、少しずつ心が削られていって、最終的には体がもう無理だと言ったのかなと思います。これまで、何度ケガをしてもまた立ち上がることを繰り返していたけど、連続休場が増えて、だんだんと気持ちがしんどくなってしまいました。あとは、土俵に上がって、自分のパフォーマンスを出し切れないんだったら、もう上がらないほうがいいと思って……。それで決めました」

(写真:日刊スポーツ/アフロ)
(写真:日刊スポーツ/アフロ)

――ボロボロになった姿を、お客さんに見せたくないと。

「自分はそうでしたね。そこは人それぞれだと思うけど、自分はベストの状態を人に見せられないなら、土俵に上がりたくありませんでした。テーピングをぐるぐる巻きにして、上がろうと思えば上がれたかもしれません。でも、それは嫌だった。こう見えて負けず嫌いなんですよ、顔に出ないだけで(笑)。人に負けてやめるより、己に負けてやめたほうがいいと思ったんです」

――そうした思いは、前から決めていたのですか。

「それは、ずっと思っていたこと。性格的にもそうですし、もっと言えば、優勝してやめたいっていうぐらいに思ってたんです。本当はそれが一番いいなと」

――引退会見では、「疲れた」とも話されていました。

「疲れたというか、肩の荷が下りたという感覚です。勝って当たり前の地位ですから、やめたらすごく楽になりました。朝、目が覚めて、もう何もしなくていいんだって。そう思うということは、それだけ相撲をやったってことなんです。体をいじめるのも、動かすのも嫌になるくらいやった。そういう意味で、いまは逆に清々しい気持ちです」

写真:ロイター/アフロ

ありのままの自分を認め、声援を力に

――横綱の地位について、大関以下との違いはどんなところにあると思いますか。

「それはやっぱり結果ですよ。常に優勝争いしないといけないし、優勝して当たり前。最低でも10番勝たないといけないので、8番でもいい大関以下とはまったく違います。そうなると、1回の負けが大きく響くので、精神的にも負担があります。優勝すればするほどわかってくることなので、あれだけ優勝している白鵬関は、十分に理解しているでしょう」

――横綱昇進から、精神面はどう変化してきましたか。

「上がった当時は何もわかりませんから、先輩たちにいろいろ聞いて、いいところは真似てみました。でも、変に自分を作り上げるのも違うんじゃないかなと思うようになったんです。大関から横綱に上がった鶴竜を、皆さんが認めてくれたわけだから、ありのままの自分でいいじゃないかと思えるようになって、それからすごく気が楽になりました」

――何かきっかけがあったんですか。

「横綱になって1年くらい経った頃でした。先輩たちの話を聞いたり、ビデオを見たりしていて、ふと、自分はいったい誰になろうとしているんだろう。何にこだわっているんだろうって、自分で気付けたんです。変わるのは、土俵上の結果と自分の相撲。それ以外のことは、いままで通りでいいじゃないかと」

――横綱としては、どんなモチベーションで取組に臨んでいましたか。

「正直、大きな目標はもうないんです。優勝回数といった記録の目標はあっても、番付は一番上ですから。そうなってくると、応援してくれる人たちの言葉や期待がすごく力になるんですね。力士の晩年は、ファンの方々が、もう一回土俵に上がるところを見たいと言ってくださって。やっぱり応援の力って大きいなと思いますよね。最後は皆さんの力を借りて、背中を押されてやっていました」

(写真:読売新聞/アフロ)
(写真:読売新聞/アフロ)

やり切れた土俵人生は「120点」

――ご自身の土俵人生、振り返ってみていかがでしたか。

「よく横綱にまでなれたなと思います。入門した当初は、横綱なんかとんでもない。まずは十両に上がれたらいいな、親孝行したいなと思っていたくらいでした。それからどんどん相撲が好きになっていって、ターニングポイントは十両に上がったとき。4~5年で関取に上がれたらいいほうだと聞いて、5年以内に上がろうと決めたら、丸4年で上がれた。自分で立てた目標をクリアできたことが、すごく自信になったし、それによって次の夢が広がった。決して、一気に上がったのではなく、本当に一つ一つ、壁にぶつかりながら乗り越えて、横綱まで上がれたと思っています」

――相撲をやり切ったという思いですか。

「やり切れたからこそ、自分で納得してやめられたと思います。それはすごく大事なことだし、そういう意味では、なんの悔いもない。逆に、悔いがあったら、会見で涙が出ていたかもしれないですね」

――最後に、土俵人生に点数を付けるとしたら、何点でしょうか。

「100点、いや、120点でもいいんじゃないでしょうか。もちろん、できなかったことはあるし、足りなかったこともあったかもしれない。でも、そう考えてしまうと、いままで頑張ってきた自分自身を否定することになるじゃないですか。だから、精一杯やってきて、横綱まで上がれて、十分満足していますよ」

プロフィール

鶴竜力三郎(かくりゅう・りきさぶろう)

1985年8月10日、モンゴル・スフバートル市生まれ。本名はマンガラジャラブ・アナンダ。陸奥部屋所属(入門時は井筒部屋)。第71代横綱。2001年9月に来日、井筒部屋に入門し、11月場所に初土俵を踏む。05年11月場所で新十両昇進を果たすと、その1年後には新入幕。動きの速い技巧派の相撲で、大関昇進前は7度の技能賞を受賞。14年3月場所で初優勝を果たし、その後横綱に昇進。今年3月で引退するまで、およそ7年間綱を張った。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

追記(6月14日11時45分):一部内容を差し替えました。