太平洋戦争の口火を切った真珠湾攻撃から80年。 

 真珠湾攻撃というと、よく議論されるのが、アメリカは戦争が起きることがわかっていたのかということ。筆者がこれまで話をきいてきた日系人たちは、口を揃えて言った。「アメリカは戦争が起きることがわかっていた」と。そして彼らは戦争の予兆を肌で感じ取っていた。

貿易船から捨てられる石油

 広島や長崎で被爆した子供たちを戦後、小児科医として現地で診察し、『原爆の子どもたち』(Children of the Atomic Bomb)という著書を書いた日系2世のジェームズ・ヤマザキ氏にも戦争の足音が聞こえていた。ヤマザキ氏は、9.11アメリカ同時多発テロで崩壊した世界貿易センタービルを設計した日系人建築家ミノル・ヤマサキの妻テリの妹アキの夫でもある。

 ヤマザキ氏は今年3月に104歳で逝去されたが、学生だった開戦直前、ロサンゼルスのサンペドロ湾にある「ターミナル・アイランド」という島で、日系人にエンサイクロペディアという辞書を売るアルバイトをしていた。当時、その島には、日系人の漁師が多数居住し、日本人街もあったからだ。

 サンペドロ湾には、アメリカーアジア間の貿易の拠点として今も大きな役割を担っているロサンゼルス港もあるが、ヤマザキ氏は当時、そこで目の当たりにした光景から、戦争が近づいていることを肌で感じていた。拙著『9.11の標的をつくった男 天才と差別ー建築家ミノル・ヤマサキの生涯』の取材でお会いした折、こう話した。

「サンペドロのビーチに、戦闘機を積んだ大型の軍艦が停泊していたのです。それは、フランクリン・ルーズベルト大統領が、日本には鉄や石油を輸送しないと宣言した頃のことでした。石油を積み込むことができなくなった日本の貿易船からは、石油が捨てられていました」

 背景には、インドシナ半島に侵攻した日本に対する制裁措置として、アメリカ、イギリス、中国、オランダの4カ国が行った経済封鎖がある。アメリカは日本への石油の輸出を禁止し、米国内にある日本保有の資産を凍結した。

 ヤマザキ氏はまた、開戦前、物資不足に襲われていた日本の貿易会社が物資の輸入に奔走する様子も目の当たりにした。

「貿易会社は、戦争が起きる前にできるだけ多くの物資を積み込んで日本に戻ろうとしていました。彼らはロサンゼルス港で24時間体制で積み込み作業を行っていたのです」

 当時、日本に居住していた日系人の元には、アメリカ政府から警告する手紙が届いていた。それにはこんな趣旨のことが書かれていたという。

「1941年5月までアメリカに戻って来なければ、あなたがアメリカ市民であったとしても、政府はあなたの責任は持てません」

 東京で英語教師をしていたミノル・ヤマサキの友人はその手紙を見て思った。「戦争が始まるんだ」

連行する日系人リスト

 戦争が始まると、日系人社会の有力者たちは真っ先にFBIに連行された。当時、沖縄海外協会南カリフォルニア支部の役員を務めていたミノル・ヤマサキの妻テリの父親も真珠湾攻撃の翌日に検挙された。

 ヤマザキ氏はこんな見方をしていた。

「アメリカ政府は、戦争開始と同時に連行しなくてはならない日系人のリストをあらかじめ用意していたんです。彼らは戦争が起きることがわかっていたんですよ。戦争が起きるのを長い間待っていたんです」

 実際、日系人の歴史を研究し、後世に伝える活動を行っているNPO・Denshoによると、アメリカの政府機関は、第二次世界大戦の10年近く前から、日本との戦争の可能性をふまえ、日系人社会の調査を行っていたという。

アメリカに無条件の忠誠を誓うか

 開戦後、カリフォルニア州、ワシントン州、オレゴン州の西海岸3州に住む約12万人の日系人は、10カ所につくられた日系人収容所に強制的に隔離されることになった。ロサンゼルスに居住していた数万人の日系人たちは、まず、郊外のサンタ・アニータ競馬場の駐車場に建てられたバラック作りの一時収容施設に入れられ、そこから、アメリカ各地の収容所に移送され、有刺鉄線に囲まれた強制所での生活を強いられた。

 1943年には収容所に“出所許可申請書”が配られたが、それには「アメリカに無条件の忠誠を誓い、アメリカ軍に参加するか」、「日本の天皇や外国政府に服従しないと誓うか」と問う二つの質問も含まれており、これらの問いに“ノー”と答えた収容者はアメリカ政府から不忠誠者とみなされ、カリフォルニア州北部の荒涼とした砂漠地帯にある、監視度の高いツールレイク強制収容所に移送された。

飛び交った“ジャップ”という差別用語

 一方、ニューヨーク州に居住していた日系人は強制収容を免れた。そのため、彼らは収容所から日系人を救出しようと尽力する。

 当時、ニューヨークでは、日系人の強制収容に反対し、人権を保護するために、「アメリカ統一同盟」という芸術家たちを中心にした集まりが結成されていた。彫刻家イサム・ノグチもこの集まりに参加していた芸術家の一人である。

 そして、この集まりの副会長を務めていたのがミノル・ヤマサキだった。彼は、開戦翌日、30年間勤めていたシアトルの靴店から解雇された父や母、妻テリの妹の収容所行きを食い止めるべくニューヨークに呼び寄せたり、収容所に入れられたテリの両親を救い出そうと、当時、救出活動をしていたクエーカー教の人々に助けを求めたりした。

 強制収容は免れたものの、ニューヨークの日系人は差別の眼差しからは逃れることができなかった。ヤマサキはその実力から当時勤務していた建築事務所から解雇されることこそなかったが、政府機関から何度も尋問を受けたり身元調査をされたりしたという。

 ヤマサキは開戦の2日前に結婚しているが、開戦直前にした結婚は不審視され、「君が開戦の2日前に結婚したのは、日本がアメリカを攻撃することを知っていたからではないのか?」と詰問されたこともあった。

 新聞も憚ることなく、日系人のことを“ジャップ”という差別用語を使って書いた。議員の中には、彼らのことを“人間のクズ”とまで呼んで侮辱する者も現れ、ヤマサキは暴言に対して強く抗議した。

 戦後も、収容所から解放された日系人たちへの差別は続いた。通りを歩けば「ジャップ禁止」や「ジャップお断り」の看板が目につき、日系人たちは職や家を探すことも困難な状況だった。

 アメリカは終戦から43年が過ぎた1988年、強制収容は誤りだったと認める。当時の大統領ロナルド・レーガンは、強制収容された日系人に2万ドルの賠償金を支払い、公式の謝罪をする市民自由法に署名した。

 今年2月には、バイデン大統領も、日系人の強制収容につながったルーズベルト大統領の大統領令から79年を迎えるにあたって出した声明の中で、日系人の強制収容は「根深い人種差別だった。不道徳的で違憲だった」と訴えた。

 アメリカには今も様々な差別や憎悪が渦巻いている。イスラム系の人々やアフリカ系アメリカ人に対する制度的人種差別はもちろん、トランプ政権時に増加を見せたアジア系の人々への暴力は今も続いている。

 差別を撤廃することは難しい。差別が完全になくなることはないだろう。しかし、アメリカの歴史の中で、強制収容という日系人が受けた大きな差別が語り継がれていくことは差別の低減に繋がると信じたい。

(参考)

DENSHO

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