ノーベル賞化学者の根岸英一氏が、6月6日、逝去された。

 米パデュー大学特別教授の根岸先生には、先生が2010年にノーベル化学賞を受賞された際に、インディアナ州のご自宅でインタビューさせていただいたのをきっかけに、その後も、いくつかの雑誌で、様々なテーマで取材させていただいた。

 根岸先生がロサンゼルスに学会のセミナーにいらっしゃった折りには、「インディアナ州にはない新鮮な寿司を食べたい」とおっしゃるので、日本人居住者が多いトーランスにある寿司店にご案内差し上げた。

 根岸先生にお会いした時、傍らにはいつもすみれ夫人(2018年3月に逝去)の姿があった。

 根岸先生の学問上の功績については、すでに新聞などで報じられているので、ここでは、すみれ夫人からうかがったお話を振り返りながら、先生のお人柄を伝えることで、先生を追悼させていただくことができたらと思う。

優しく、人をほめて育てる

 すみれ夫人の心が動かされた出来事がある。

 それは根岸先生が大学時代に所属していたコーラス部のクリスマスパーティーでの出来事だった。すみれ夫人はお兄さんに同伴されてパーティーに参加、一方、根岸先生は10歳下の妹さんを同伴して参加していた。そのパーティーで根岸先生はこう言ったという。

「妹は今まで九九ができなかったんです。でも、今日特訓をしてやっと九九が言えるようになったので、ごほうびにこのパーティーに連れてきました。ただ、妹があがってしまうといけないので、九九の質問は妹にはしないで下さい。三四はいくつ?などときかないで下さいね」

 そんな注意を促した根岸先生に、すみれ夫人は心を動かされた。

「弱みを持つ妹さんをかばう姿勢を見て、優しい人だなって思ったんです」

 当時、根岸先生が東大の学内誌に書いた寄稿文も、すみれ夫人の心の琴線にふれた。

「大学時代、下宿していた主人は週に一度は実家に戻っていたんですが、その時、妹さんがある絵を見て『この絵、下手ね』と頭ごなしにけなしたそうなんです。そんな妹さんについて、主人は寄稿文の中で、『そんな高飛車な姿勢は良くない。“次はもっとよく書けるよね”と言わなければだめだ』と言ってたしなめた、と書いていました。それを読んだ時、主人は人を育てるというアプローチをしているんだと思いました。人をほめて、育てようとする人なんだと感心したんです」

 もっとも、根岸先生は、同時に、ストレートに物を言うところもあったようだ。

「主人は“ダメなものはダメ”という人間なんですね。“バカ”なんて教室で言うとアメリカでは大変なことになるらしんですが、主人は、“バカと言われて悔しいんだったら、バカじゃないと言われるような人間になるべきだ”と言うんです」

イヤなことは忘れて前に進む

 根岸先生はポジティブ思考の持ち主でもあった。渡米当初、洗濯機もないギリギリの生活を送る中で出産し、子育てをした辛い経験が忘れられないというすみれ夫人に、こう言っていたという。

「僕はいやなことは全部忘れるんだ。いいことしか覚えていない」

 そんな根岸先生をすみれ夫人はこのように見ていた。

「主人はスイッチの切り替えが早いんです。イヤなことはすぐに忘れて、ポジティブに前に進んで行こうとします。悔しいことがあったら、ゴルフに行って球を打って忘れようとするのです。イヤなことが起きても後を引こうとしない。そんな姿勢も研究に結びついているんでしょうね。グズグズと後を引くと、精神的に落ち込んで研究も行き詰まってしまうかもしれませんから」

無鉄砲で“暴れ馬”だった

 満州で生まれ育った根岸先生はスケートが得意だったが、40歳の時にスキーも始めた。根岸先生が初めてゲレンデに行った時のこと、根岸先生にスキーのやり方を教えようとしていたある大学の先生が根岸先生の行動に驚き、すみれ夫人にこう話したという。

「最初に根岸先生にスキーのやり方を一から説明するつもりだったんですが、私がスキー靴を履いている隙に、先生はリフトに乗り込んでしまったんです。気づいた時は、先生はリフトから私に手を振っていました。先生は全くの初心者なのに、その度胸には怖いくらい驚きました」

 根岸先生の性格を熟知しているすみれ夫人はそのエピソードを聞き、納得したという。

「無鉄砲な主人の性格がよく出ています。主人は“暴れ馬”なんです。思い立ったら、いても立ってもいられず、イノシシのように突進しちゃうところがあるんです」

 しかし、このエピソードには落ちがある。後に、根岸先生は笑いながら筆者にこう話してくれた。

「実はあの時、リフトに乗り込んだまではよかったんですが、怖くてなかなか降りることができなかったんです」

カンツォーネまで歌った

 歌も、常に、根岸先生とともにあった。

 学生時代、すみれ夫人のお父様が指導するコーラス部に所属していた根岸先生は「東大に受からなかったら、芸大に行っていたかもしれない」とお話されていたほど歌に自信があり、カラオケで歌うことも大好きだったという。

「主人は“箱根八里”が大好きで、“花”や“故郷”や“尾瀬の歌”もよく歌います。歌謡曲も歌うし、美空ひばりの“みだれ髪”、それにカンツォーネ(イタリアのポピュラー・ミュージックのこと)まで歌うこともあるんですよ」

 根岸先生が設計のアイデアを出したご自宅も幾度か訪ねた。2階にあがる階段の脇に小さなステージが設けられ、グランドピアノが置かれていた。ある雑誌でグラビア撮影をさせていただいた時、そのピアノを奏でて下さった根岸先生。その優しく麗らかな音色が、今もどこからか聴こえて来るようだ。

2015年、パデュー大学に設置されている根岸先生の胸像の前で、根岸先生と。撮影:Ryuichi Oshimoto
2015年、パデュー大学に設置されている根岸先生の胸像の前で、根岸先生と。撮影:Ryuichi Oshimoto

夫婦愛の軌跡

 根岸先生に最後にお会いしたのは、2015年7月、80歳を迎えられた先生のお誕生日をお祝いした時だった。バースデーパーティーには、日本の研究者たちも多数お祝いに駆けつけていた。

 あれから来月で6年。

 2018年にはすみれ夫人が亡くなり、3年の後、根岸先生もすみれ夫人の元へと旅立たれた。

 いつも一緒だった根岸先生とすみれ夫人。お2人のことを思うと、浮かび上がる4文字がある。

 一蓮托生。

 渡米する日本人研究者が少なかった時代、ともに海を渡り、異国の地で辛苦を分かち合いながらもサバイヴしてきた2人。「うかうかしていたら、ノーベル賞行きのバスに乗り遅れる」と生き急いでいた根岸先生を傍らで支えていたすみれ夫人。ノーベル賞という夢をかなえた根岸先生は、ゴールに辿り着いて後ろを振り返った時、夫婦の長い愛の軌跡を見たことと思う。

 “夫婦愛の軌跡”の始まりのプロポーズ。新宿御苑で、根岸先生はすみれ夫人にこう告げた。

「あなたと二人三脚がしたい」。

 根岸先生とすみれ夫人の二人三脚は、旅立った世界できっと今も続いていることだろう。

 最後に、根岸先生、これまで、貴重なお話をたくさんして下さり、ありがとうございました。先生とすみれ夫人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。