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「ひきこもり」という言葉に感じる違和感 レッテル貼りする社会 川崎殺傷事件について思うこと 

飯塚真紀子在米ジャーナリスト
川崎殺傷事件の事件現場には、花を手向ける人の足が途絶えない。(写真:ロイター/アフロ)

 川崎殺傷事件について書かれた日本の記事を読むと、よく取り上げられている言葉が「ひきこもり」だ。

 岩崎容疑者と同居していた叔父叔母の親族が、彼がひきこもり傾向があるという理由で、市に相談していたからだろう。もっとも、岩崎容疑者は「洗濯や食事、自分のことは自分でちゃんとやっているのに、ひきこもりとは何だ!」とひきこもりであることを否定していたという。

 何十年も前に日本で生まれ、すっかり定着した「ひきこもり」という言葉。BBC放送やナショナル・ジオグラフィック誌などのメディアも取り上げ、オックスフォード辞典にもHIKIKOMORIとして載るようになった。

 しかし、筆者はこの「ひきこもり」という言葉自体に違和感を覚えてしまう。

“レッテル貼り”感のある新語や造語

 「ひきこもり」は日本特有の社会問題にように考えられているが、海外にも「ひきこもり」に当たる人々は存在する。しかし、英語圏には「ひきこもり」のように作られた言葉がないので、こもりがちなことは“Social Withdrawal ”や“Social Isolation”と表現されている。つまり、社会から乖離し孤立した状態というように表現されている。

 そして、アメリカで起きた凶悪事件を振り返ると、そのような状態にあった犯人は少なくない。2017年にラスベガスで銃乱射事件を犯したパドック容疑者も人とは交わらず家にこもりがちな生活を送っていた。しかし、社会から乖離し孤立している状態にある人々は世の中には大勢おり、パドック容疑者のように事件を犯す人は本当にごくごくわずかだ。だからか、社会から乖離し孤立している状態にある人を犯罪者予備軍と結びつける偏見は見られなかったように思う。

 しかし、もし、そのような状態の人々を表現する「ひきこもり」のような言葉がアメリカで生み出されていたとしたら、今、日本の一部の報道がしているという、ひきこもりの人々を犯罪者予備軍に結びつけるような偏見がなされていたかもしれない。つまり、ある特定の言葉が生み出す偏見というのがあると思う。

 海外にいると、「ひきこもり」に限らず、日本では、次から次へと、ある特定の人々を指し示す新語や造語が生まれていることに驚かされる。古くは、ニート(イギリスで生まれた言葉だが、日本では「働く意欲のない無気力な若者」と本来の言葉の由来から離れた意味で使われている点で、日本独特の新語になったといえる)、パラサイト・シングル、フリーター、オタク、負け組、勝ち組などに始まり、最近では、貧困女子、腐女子、下流老人、上級国民、下級国民等々あげだしたらきりがない。そんな新語や造語をメディアが面白がって取り上げて流行語となり、じょじょに「現代用語の基礎知識」に載る言葉として定着している状況があるように思う。「ひきこもり」はその先駆者的言葉ではないだろうか?

 筆者がこれらの新語や造語に共通して感じるのは、人々をレッテル貼りしているということだ。言い換えると、“人を差別している感”、“人を分断している感”を感じてしまう。

 アメリカにももちろん人をレッテル貼りする言葉はある。様々な分野で新語も生み出されてはいる。しかし、多様化社会だからだろうが、日本のように、ある特定の人々を指し示すような言葉が流行語となってあまねく広がり、誰もが知っている言葉として定着するような現象はあまり見られないように思う。人々をレッテル貼りする恐れのある言葉は、アメリカ人が忌み嫌う差別や偏見に繋がるからだろう。

 「ひきこもり」のような新語(すっかり定着しているので、もはや新語とは言えないだろうが)を生み出すことは、ある社会現象や社会問題を浮き彫りにするのには有用かもしれない。

 しかし、新語や造語は、自分がそれに当てはまると感じている人たちの気持ちを考えて作られたり、使われたりしているだろうか? 「ひきこもり」や「負け組」や「貧困女子」や「下流老人」や「下級国民」という言葉で傷ついたり自信をなくしたりする人々の気持ちを考えて作られたり、使われたりしているだろうか?

レッテル効果

 心理学理論に「レッテル効果」というのがある。あるレッテルを貼られた人は、現実的にも、そのレッテルに当てはまるような行動をする人物になっていくというものだ。つまり、「ひきこもり」というレッテルが貼られたら、現実的にも、人はひきこもる行動をとるようになってしまうのである。環境が人の行動を生み出すということかもしれない。

 岩崎容疑者の犯行動機は不明だ。しかし、「ひきこもり」というレッテルが貼られたことと関係があり、それによって、傷ついたり、差別されたりしていると感じ、自分がレッテル貼りする社会の被害者だという思いに取り憑かれていた可能性もあるのではないか? 

 筆者が「レッテル貼り」に一因を求めたのは、拙著『そしてぼくは銃口を向けた』を取材するにあたり、高校銃乱射事件の銃撃犯やその関係者にインタビューした際、銃撃犯の多くがレッテルを貼られるという“いじめ”により、被害者意識を感じていたことがわかったからだ。

 ある銃撃犯は黒い服ばかり着ていたので「ベセル(銃撃犯が通っていた高校の名前)・ブラック」というレッテルが貼られ、ハイパーな行動が目立っていたある銃撃犯は「クラック・ベイビー(コカイン中毒の母親の影響を受けて生まれた子供のこと)」というレッテルが貼られ、ある銃撃犯は「サイコ(精神異常者)」というレッテルが貼られていた。

被害者意識が報復へと向かう

 レッテルを貼られて被害者意識に苛まれたある銃撃犯は、銃撃の理由を筆者にこう説明した。

「自分自身がただかわいそうに思えた。撃つことで、僕はこんなに不幸なんだ、こんなに苦しんでいるんだということをみんなに教えたかったんだ。撃つことで自分の苦しみを終わらせたかったんだ」

 

 心理学者のジョン・ニコレッティー博士は銃撃犯の心理をこう説明した。

「彼らは自分はいじめの被害者だという認識を持っている。しかし、ある時点で彼らは報復者へと転換し、銃撃を起こすのです」

 被害者意識に苦しんだ人は、力を取り戻すために、今度は自分が加害者に変わるというのだ。岩崎容疑者も何らかの被害者意識に苦しんだ末、報復者へと変わったのか?

 だからといって、もちろん、無差別殺人はいかなる理由であれ、許されるものではない。

 今回の事件を機に、社会の何が無差別殺人者を生み出したのか、私たちは様々な角度から議論する必要があると思う。筆者はその一因として、「ひきこもり」という“レッテル貼り”を感じさせる言葉に疑問を覚えた。

 

 そして思う。

 “レッテル貼り”を感じさせるような新語や造語を生み出したり使ったりするのは、もうやめにしてはどうだろうか?

在米ジャーナリスト

大分県生まれ。早稲田大学卒業。出版社にて編集記者を務めた後、渡米。ロサンゼルスを拠点に、政治、経済、社会、トレンドなどをテーマに、様々なメディアに寄稿している。ノーム・チョムスキー、ロバート・シラー、ジェームズ・ワトソン、ジャレド・ダイアモンド、エズラ・ヴォーゲル、ジム・ロジャーズなど多数の知識人にインタビュー。著書に『9・11の標的をつくった男 天才と差別ー建築家ミノル・ヤマサキの生涯』(講談社刊)、『そしてぼくは銃口を向けた」』、『銃弾の向こう側』、『ある日本人ゲイの告白』(草思社刊)、訳書に『封印された「放射能」の恐怖 フクシマ事故で何人がガンになるのか』(講談社 )がある。

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