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映画『ファーストラヴ』には「わきまえた」女性が味わう地獄が描かれている

飯田一史ライター
映画『ファーストラヴ』公式サイトトップページより

 島本理生が2018年に刊行した直木賞受賞作を原作に、堤幸彦監督が映画化した『ファーストラヴ』が2021年2月11日に公開された。

 テレビ局のアナウンサー試験の面接後に画家の父を包丁で刺殺した聖山環菜が「動機はそちらで見つけてください」と語ったとメディアで報じられて物議を醸した事件について出版社から執筆依頼を受けた臨床心理士の真壁由紀が、本を書くことを前提に環菜とその周辺人物に取材を進めていく。

 ロマンスのようなタイトルだが、動機の謎をめぐって環菜が置かれた状況が徐々に解き明かされていくサスペンスであり、チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』ばりのフェミニズム小説である。

 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長であった森喜朗が「女性は話が長い」が、組織委員会の女性は「わきまえておられる」という女性蔑視発言を理由に2021年2月12日に辞任したが、本作は男社会のなかでわきまえた――男性が定める規範に逆らわず、あきらめて欲望を受け入れるしかなかった――女性の地獄が描き込まれている。

■原作小説と映画版の差異

 原作では心理士の由紀と弁護士の庵野迦葉が、事件を起こした環菜、環菜の母、環菜の父が主宰していたデッサン教室の受講者などから丁寧に聞き取り、そこで抱いた違和感、引っかかりをもとに各人の発言の嘘や言い落とし、隠蔽をひとつひとつ剥がしていく。

 映画版は情報量の多い原作の構造をなるべく削ぎ落とさずに映画の尺に収めようとした都合上やむを得なかったのだろうが、北川景子演じる主人公の心理士が「本当に心理士なのか」と疑いたくなるくらい他人の話を傾聴せずにテンポよく自分の見立てや意見を対話相手に押し付け、「彼女には心の闇がある!」という前提で突っ走るので、前半は面食らってしまった。

 しかし後半での環菜も立って自ら証言する法廷シーン以降は「作品テーマを表現するためにあえて前半をああしていたのか?」と思いたくなるほど対照的に良かった。

 以下、少しネタバレ込みで(なるべく伏せるが)作品評を展開するため、原作未読または映画未見の方は注意されたい。

■告発の仕方も知らず、告発する言葉も持たない人間は誰にどう訴えることができるのか

 文学理論家ガヤトリ・スピヴァクがインドの被差別カーストの女性について書いた『サバルタンは語ることができるか』では、そもそもそういう立場に置かれた人たちは、歴史的に語る権利も与えられてこず、自らを語る言葉も持たされてこなかったことを指摘し、差別と抑圧の実行者のみならず、被差別民を擁護する側に回った英国のエリート知識人が「東洋人」の「女」という「弱者」を(勝手に)代理し、表象してきたことの暴力性を指摘する。

 たとえばインドには夫の死後、その遺体を焼く薪に残された妻が身を投げる「寡婦殉死」という慣習があった。「彼女たちは自ら殉死したのだ」とインドの男性は讃え、英国側はそれに眉をひそめて「悪習を根絶して女性を救おう」と振る舞うが、どちらも当事者である彼女たちに耳を傾けるわけではなかった。声をあげること自体が許されてこなかったがゆえに、望んでいなくても受け入れるしかなかった。

『ファーストラヴ』の聖山環菜もこれと似た環境にあった。

 第三者によって意味づけされ、客観的・構造的に把握されないと、自分がどういう状況に置かれているのか、なぜその行動に至ったのかわからないことはしばしばある。環菜はこういう状況にあったが、しかし、だからといって他人が「あなたはああだからこうなった」と決め付けていいわけではない。

 彼女は男性からの性的な視線や暴力にさからえないように育てられてしまった。誰も自分の話をきちんと聞いてくれず、「嘘つき」扱いしてわかってくれない――助けてくれない。そもそも、ひとがひとの話を聞くのは本当に難しい。頼まれてもいないのにすぐに助言や説教をしたり、「それってこうだよね」と決めつけをしたりしてしまう。苦しい状況にあることにくわえて、「話を聞いてもらえない」「理解してもらえない」ことが絶望になる。だから誰かによる暴力から助けてもらうには、話を聞いてもらう困難を選ぶよりも、別の誰かに身体を差し出すほうが早いという諦念がある。彼女は声をあげていいことも、声のあげかたも知らない。

 だから自分の行為を「おまえはこうなんだ」と他人から意味づけられると、本当は違和感があっても表面的には受け入れる。男性からの欲望を受け入れるのと同じで、そこには諦めと沈黙がある。

「わきまえる」とはそういうことだ。

『ファーストラヴ』は「誰もわかってくれない」という苦しみを抱えた人物を描いていく作品なのに、映画版では心理士がクライアントの話を聞くより先に自分の言葉でなんでも勝手に説明して、勝手に環菜の気持ちを代弁してわかった気になっていてまずくないか、日本映画のなんでもセリフで説明する悪癖はこの作品でやってはいけないだろうと中盤まで筆者も絶望していたが、終盤に至り、しかし、そうか、ここに着地するのであれば環菜とそれ以外の人物の振るまいが効果的な対比として機能し、演出として成立している、と思わされた。

 

 映画のラストは原作同様、環菜は「自分で自分のことを書く」と決める。他人から意味づけされるだけでなく、自らの行為とそれをもたらした環境を探り、声をあげることを決める。ここがすばらしい。

 けれども、「それをやってもいい」と彼女が気づくこと、できるようになることを阻害してきたものが何だったのかは、2021年の日本社会の現実と照らし合わせて考えなければならない。

ライター

出版社にてカルチャー誌や小説の編集者を経験した後、独立。マーケティング的視点と批評的観点からウェブカルチャー、出版産業、子どもの本、マンガ等について取材&調査してわかりやすく解説・分析。単著に『いま、子どもの本が売れる理由』『マンガ雑誌は死んだ。で、どうするの?』『ウェブ小説の衝撃』など。構成を担当した本に石黒浩『アンドロイドは人間になれるか』、藤田和日郎『読者ハ読ムナ』、福原慶匡『アニメプロデューサーになろう!』、中野信子『サイコパス』他。青森県むつ市生まれ。中央大学法学部法律学科卒、グロービス経営大学院経営学修士(MBA)。息子4歳、猫2匹 ichiiida@gmail.com

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