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映画『青くて痛くて脆い』のとんでもなく面倒くさい主人公をどう理解すべきか?

飯田一史ライター
映画『青くて痛くて脆い』公式サイトトップページより

 2020年8月28日公開の映画『青くて痛くて脆い』は、主人公が面倒くさい作品である。

 共感どころか、理解するのが難しい。

 なぜなら本人も終盤「僕はどうしたらいいんでしょう」などと漏らすように、何がしたいのかよくわかっていないからだ。

 原作からの変更点をおさえながら、この共感しがたい人間をいったいどう理解すればいいのか――そういう人物を通じて何を描いた作品なのか? を考えてみたい。

■『青くて痛くて脆い』あらすじ

 就活を終えた大学4年生男子の田端楓は、大学入学時に出会った意識が高くて空気を読まない女性・秋好が理想高く立ち上げたサークル「モアイ」の最初期に行動をともにしていた。

 ところがモアイに他の人間が入ってきて人数が増えるうち、フェイドアウトしてしまう。

 今では「モアイ」は就活対策を目的とした人間が集まる俗物的なサークルと化しており、楓は大学生活最後になすべきこととして「そんな理念の組織じゃなかったはずだ」という想いから、モアイを崩壊させようと決意し、友人の董介とともにひそかに接近を始める。

■原作との違いから見る楓と秋好の位置づけの差異

 以下、原作との比較を行うため、ネタバレが避けられない。未見・未読の方は注意されたい。

 映画版と原作の違いをひとことで言えば、映画版の楓の方が行動がひとりよがりである。

 映画の秋好は理想主義者であることや、人との接し方がほとんど変化していないからだ。

 たとえば楓がモアイに行かなくなった理由は、映画版では秋好とある男性が食堂でいっしょに食事をしているところに遭遇し、ふたりが付き合っていると確認できたことにある。つまり、そこで強烈な疎外感を感じたことが原因になっている。一方、原作では秋好が「現実的には難しいかなあ」などと言う現実主義者になってしまったことに失望して楓はフェイドアウトする。

 また、映画版では、楓がモアイから入手した名簿に関するExcelのパスワードのくだりがない。つまり映画版では、モアイの幹部が入手した個人情報を企業に流していた件について、秋好が事前に知っていたのかどうか曖昧にされている。また、逆に原作では曖昧なまま終わっていた、名簿提供に対する企業からモアイへの見返りは、映画版では明確に「なかった」(金銭的なやりとりはなかった)とされている。

 原作より単純化されている部分もある。

 たとえば楓がそつなくきれいごとを言って就活を成功させたというくだりが映画版では存在しない。

 原作では、自分を偽って内定を得たくせに「なりたい自分になる」というモアイの理想を取り戻す、とかよく言えるなあ、と読者は思い、「現実的には」発言と名簿のくだりによって秋好・モアイと楓は「どっちもどっち」「お互い様」と感じたものだが、映画版では秋好はほとんど変わらないのに、楓だけが異様にこじらせている、という印象が強まっている。

 原作では、楓が持ち出す「モアイは変わってしまった」「俺の知る秋好はもういない」という表向きの動機の説明にも一理あるように描いている。しかしそのうえで、楓は本音の深いところでは、違うことが動機だったのだと、すべてが終わってから楓自身が気付く。

 ところが映画版は秋好にさほど変化はないので「モアイが変わった。秋好は死んだんだ」という楓の建前はかなり無理があるように見える。

■現実と他者を無視した理想主義者の行き着く先が楓である

 結局、映画版の『青くて痛くて脆い』は何の話なのか?

 楓は「人に不用意に近づきすぎないことと、誰かの意見に反する意見を出来るだけ口に出さないこと」を信念に生きている、と作中で語られる。

 秋好から「どう思う?」といくら訊かれても意見せず、サークルの創始者のひとりであるにもかかわらずフェイドアウトしていったのは、この信念が災いしたと言える。

 楓のなかで、以前から抱いていた信念(処世術)と、本音のところの欲求・感情が衝突したときに、摩擦を恐れて彼は信念を優先してしまった。それが秋好と楓が離れていく原因になった。

 映画版の秋好は信念と欲求・感情と行動が一致しているし、他者と触れ合うときはそのすりあわせをしようとしている。

 対して楓は信念と感情に齟齬があることに無自覚なまま、信念を優先し、自分のみならず他者にも押しつけるので極端な破壊的行動に走っていく。

 つまり映画版『青くて痛くて脆い』は「理想や信条をハードコアに突き詰めて自分を律し、他人に強制すると破滅的な行動を招く」という、ある意味では連合赤軍事件などを思わせる作品なのだ。

 現実との接点や着地点をまったく考えないレベルの理想主義者であり、他人にもそれを押しつけて暴走していくのは秋好ではなく楓である。

 原作にはなく、映画にしかない重要な描写に、モアイとフリースクールとの関わりがある。森七菜演じる不登校のバンド少女・西山瑞希と楓は関わるが、途中でモアイをフェードアウトしたために、楓は彼女の進路に影響を与えたことを知らない。

 このエピソードが、この映画を考える上で重要だ。

 集団に馴染めない人間には2種類いる。なじめないからと自分で別の集団をつくってしまう人間と、どこにいってもなじめない人間だ。前者が秋好で、後者が楓だ。

 では後者は役立たずなのか? そうではない。どこに行ってもなじめない人間は、集団になじめない人間の支えになることができるのだ、と映画版『青くて~』は示している。

 ただし楓はそのことに気づけない。居場所がない人間に自然と寄り添える存在だったにもかかわらず「モアイには自分の居場所がない」と思って去ってしまったからだ。

 瑞希に対する楓の行動が「人に不用意に近づきすぎないことと、誰かの意見に反する意見を出来るだけ口に出さないこと」という信念に基づく行為かといえば、そうではないだろう。

 しかし、彼女にポジティブな影響を与えることができた。

 人間の行動は理念や理想からすべてが生まれるわけではないし、信念に基づく行動だけが何かを良い方向に変えるとは限らない。

 信念と本音が衝突したときには本音に向き合ったほうがいいし、理想はただただハードコアに追求するよりも現実にいる他者と話し合い、折り合いを付けながら追い求めていったほうがいい。理念にひもづかない行動から何かが生まれることもある。この作品は、そういった理想や信念との付き合いかたを描いている。

 理想があるのに感情をオモテに出せず、一歩踏み出せなかったことが積み重なり、結果、誰よりも理想だけを追い求めてこじらせまくった面倒くさい人間になってしまったのが、田端楓なのだ。

ライター

出版社にてカルチャー誌や小説の編集者を経験した後、独立。マーケティング的視点と批評的観点からウェブカルチャー、出版産業、子どもの本、マンガ等について取材&調査してわかりやすく解説・分析。単著に『いま、子どもの本が売れる理由』『マンガ雑誌は死んだ。で、どうするの?』『ウェブ小説の衝撃』など。構成を担当した本に石黒浩『アンドロイドは人間になれるか』、藤田和日郎『読者ハ読ムナ』、福原慶匡『アニメプロデューサーになろう!』、中野信子『サイコパス』他。青森県むつ市生まれ。中央大学法学部法律学科卒、グロービス経営大学院経営学修士(MBA)。息子4歳、猫2匹 ichiiida@gmail.com

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