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映画『ドラえもん のび太の新恐竜』に見る「正解主義」の呪縛 『天気の子』と『新恐竜』の差異

飯田一史ライター
映画『のび太の新恐竜』公式サイトトップページより

 2020年8月7日に公開になった映画『ドラえもん のび太の新恐竜』は1980年に公開された映画『ドラえもん のび太の恐竜』の続編的な作品であり、2018年公開の『のび太の宝島』に続いて川村元気が脚本を手がけている。

「歴史を変えてはいけない」というルールの中でどこまでが許されるのか、ルールを守りさえすれば目の前の存在を見殺しにしていいのかという問いを投げかける――のだが、その着地点に筆者はいささかの違和感がある。

(ネタバレには最大限配慮するが、気になる方は以下、注意されたい)

■『のび太の新恐竜』あらすじ

 のび太は、恐竜展の会場でジャイアン、スネ夫にバカにされて「恐竜の化石を見つける、できなければ目でピーナッツを噛む」と約束してしまう(なお、むぎわらしんたろうによるマンガ版では、これは『のび太の恐竜』で出会ったピー助を仲間の元に返したあとだと明確に描かれている)。

 卵の化石を見つけてタイム風呂敷を使って孵化させると、それは未来の図鑑にも載っていない新恐竜だった。しかしのび太の部屋で飼うことには限界があり、元いた時代の仲間のもとへ返してあげることに――。

 と、かなりの程度『のび太の恐竜』をなぞるように進む。

 ただし、桃太郎印のきびだんごや空気砲と言ったおなじみのひみつ道具は登場するが、いつものようにはいかない。

 さらには『ドラえもん』作品としては従来からは一線を超えるような展開・描写もある。

 本作のポイントは作中で、ある人物(組織)が、従来からの流れで考えると『ドラえもん』の世界内ルール的にアウトなのび太たちの振る舞いを容認する――なぜならそれこそが実はルールに沿った行いだからだ、と意味づけることだ。

■『天気の子』と『新恐竜』――『君の名は。』以後の「正しさ」へのこだわりの違い

『新恐竜』終盤の展開は川村元気がプロデュースを務めた新海誠監督の『君の名は。』を思わせる。

 東日本大震災を想起させる表現に溢れていた『君の名は。』で、もともとの歴史の流れでは隕石衝突によって消滅するはずだった町の存亡が回避され、「歴史を変えた」展開に対して、一部で「震災をなかったことにするような歴史修正主義的な表現だ」といった批判が起こった(筆者もそうした論陣を張ったひとりである)。

 それに対して新海誠は「世界がどうなろうと、誰に何を言われようと君を守る」と主人公がエゴを貫き、東京が大雨に沈む作品『天気の子』をアンサーとして作った。

 対して『新恐竜』は「のび太がルールに従わずに私的正義を貫く」にはならない。のび太の主観的な振る舞いとしてはそうなのだが、第三者的にはそれが「実はルールに則っている」「正史になる」と意味づけられる。

 これが「主人公が『ルールを守らない』という外形になるのはまずいので、ルールの解釈・運用の仕方を従来から変えて対応してセーフにした」というどこかの為政者みたいな振る舞いに見えて非常にモヤモヤする(映画では涌井学によるノベライズ版にある「これこそが正しい歴史なのだ!」という発言がなかったのでまだよかったが……)。

『天気の子』は、世間・社会からの圧力よりも私的な正義・信条を重視するというスタンスを選んだ。

 一方『新恐竜』は「私的な正義・信条を貫くことが公的に共有される歴史になる」という着地点になっており、「正しさ」にこだわっているように見える点が危うく感じる。そこから「外形的に正しさを守っているのだから何をやってもいい」まではほんの一歩だからだ。

 現代は「正解がない時代」だとよく言われ、既存のルールや慣例、常識は疑ってかかる必要があることはたしかだ。

「正解がない時代」ということが意味するものは2つある。ひとつは「多様な考えが許容される(唯一の正解がない)」ということ、もうひとつは「あらかじめ答えがわからないから、自ら(にとっての)正解を見つけなければならない。選んだことを『正解にしていく』のが求められる」ということだ。

 どちらにしても「客観的・社会的に共有される唯一の正解はない」ことは揺るがない。

 ところが『新恐竜』では、のび太たちの蛮勇こそが「歴史の正解」だった、という結論になる。

 結局「客観的・社会的に共有される唯一の正解はあり、それを判断する人たちがいる」という従来的な前提に立っている。

 こういう感覚自体に違和感がある。

 そしてこれが藤子・F・不二雄亡きあと『のび太の恐竜』の「公式」の「続編」(歴史)として作った上での結論として考えると、余計に危うく感じる。「今まで通りのものを守っていくだけではダメ」「新しいことを取り入れていかなければ時代に置き去りにされ、長く続けていくことはできない」――のび太くらいの逸脱こそが新たな『ドラえもん』の「(唯一の)正史」を作る、という独善的な態度に見えかねないからだ。

(ついでに言えば、『新恐竜』の終わり方だと『のび太の恐竜』に登場し、今作に再登場したあのキャラクターはおそらく助かっていない。「今作に新しく登場させた存在を生かし、旧作に登場した存在を生かさなかった」という線引きも合わせて考えると、さらにモヤる)

【2020年8月12日追記:助かっているのではと思わせるカットがあるとの指摘があった】

■「ざんねん」な特徴を持つ生きものの多様性肯定の話なのか、先に与えられた正解に努力して達するという話なのか

 また、普通に考えるとアウトなのにルールの解釈によって「正しい歴史」にする、という「外形的な正しさ」「単一の正しさ」へのこだわりは、作品のメッセージをブレさせているようにも見える。

 というのも、恐竜としては不出来なキューの存在は、「一見だめに見える特徴が、見方を変えるとだめではない」という、多様性を肯定する意味合いを持っているはずだ。

 ところがそこに歴史を絡めるから「唯一の正しい歴史」という「単一の正解があって努力してそれを目指す」的な前提に沿わせないといけなくなって、齟齬が起きている。

 のび太は最後ほかの人間と同じやり方で例のあれを成功するが、「多様性」か「単一の正解か」という話で言えば、あれは完全に後者の「単一の正解があって努力してそれを目指す」やり方であって、キュー的ではない。

 そうではなく、キューのように他の人とは違うやり方で成功する、またはあれではなくあやとりや射的のような得意分野で勝負することで違った成功を収める、というほうがメッセージは一貫していたと思う。

 また、のび太たちの行動に対してあの組織が一枚岩になるのではなく、最後まで疑念を向け続ける存在もいたほうが(歴史や進化に対する解釈・判断がひとつに収束しないほうが)よかったのではないか。

 第三者がのび太たちの振る舞いが正解なのかどうかを「事前に」ジャッジせずに、そこは宙ぶらりんにするかせめて「事後に」判断したほうが現代的だったように思う(それはそれで批判も起こっただろうが)。

 断っておくと、筆者はのび太が幼きキューのために奔走し、必死で看病するシーンではウルっときたし、8割以上は作品を肯定したい気持ちがある。ところが終盤が問題含みに感じたのでここまで長々と書いてきた。

「こういうものもあっていい」「歴史はこうだったかもしれない」くらいに思える着地点であれば楽しく鑑賞できたのだが……。

ライター

出版社にてカルチャー誌や小説の編集者を経験した後、独立。マーケティング的視点と批評的観点からウェブカルチャー、出版産業、子どもの本、マンガ等について取材&調査してわかりやすく解説・分析。単著に『いま、子どもの本が売れる理由』『マンガ雑誌は死んだ。で、どうするの?』『ウェブ小説の衝撃』など。構成を担当した本に石黒浩『アンドロイドは人間になれるか』、藤田和日郎『読者ハ読ムナ』、福原慶匡『アニメプロデューサーになろう!』、中野信子『サイコパス』他。青森県むつ市生まれ。中央大学法学部法律学科卒、グロービス経営大学院経営学修士(MBA)。息子4歳、猫2匹 ichiiida@gmail.com

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