村上春樹の最新短編集『一人称単数』を読んで団塊世代の人生の畳み方と文化史的な継承について考える

文藝春秋社『一人称単数』村上春樹 販売ページより

2020年7月18日、村上春樹6年ぶりの最新短編集『一人称単数』が発売された。

村上春樹の長編は毎度発売前後にはあたかも祭りの様相を呈するが、短編集はそれに比べるとやや話題になりづらい――が、今年の出版界のなかでは大きな(そしてポジティブな)出来事である。

はたしてどんな内容で、どんなことを考えさせる作品なのか?

■いつものハルキ節は健在

村上春樹のいくつかの特徴的な展開、手法、語りは今回も登場する。

たとえば出会った女性とカジュアルに(インスタントに?)性行為に及ぶ主人公の男性。

付き合っていた女性の自殺。

「中心が複数あり、外延のない円」などと思わせぶりなことを語って消えていく老人。

ドーパミンに駆動されて女性の名前を盗んで我が物にするという猿。

「水辺で3年前に起こったことを忘れたのか?」と女に問われ、蛇の無数にいる街路に紛れ込んでしまう男性。

1955年に死んだはずのチャーリー・パーカーが63年に『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』というアルバムを出していたという架空のレビューを書いたのちに、ニューヨークのレコード店で同名のアルバムを見つける、とか、『羊をめぐる冒険』を刊行した年に『ヤクルト・スワローズ詩集』という本を出した、といった偽史(架空の歴史)。

といった具合だ。

■ハルキの長編がバズる理由

村上春樹の魅力といえば、比喩を多用した文体をはじめいくつも思い浮かぶが、やはり"答えより問いの多い”スタイルでの叙述だろう。

謎めいた存在や現象が描かれ、思わせぶりなことが語られ、「~~だろうか」「~~かもしれない」などと読者に問いかけたり、推測は書かれたりするが、作中で特に答えは示されずにどんどんと進んでいく。

ゆえに読者それぞれが想像を巡らせ、ああでもないこうでもないと読者同士で語り合い、考察や批評が誘発される。

そういった謎や問いかけ過多な書き方に加えて、現実世界の歴史的事実との微妙な差異や、先行作品・作家(ないし思想)を思わせる要素の存在がばらまかれていることが、「現実と小説の中の記述を比べれば/先行作品・作家と村上春樹を比べれば、謎が解けるのでは?」という誘惑をさらに促す。

実際には比べたところで評論が一本できあがるだけで何も謎は解けない(そもそも答えはどこにも書いていない)。

ただ多面的に用意されたフックに反応して「こういう読み方ができる」と積極的に動いてくれる人たちの存在が、ハルキの長編をバズらせてきた。

長編では「問いかけ過多な文体」×「偽史」×「先行作品への目配せ」が揃って押し寄せてくるが、しかし短編ではすべて揃ったものは少なく、一篇ごとにフォーカスされる要素がバラバラなために、読者が語りたくなる度合いは長編より薄い。

しかし逆に言えば「この作家は、こういう要素と、こういう要素と、こういう要素でできていて、自分はこういうところが好き(またはきらい)」と確認するには短編集はうってつけだ。

■自伝的な作品か?

この短編集では、視点人物はいずれも村上春樹を思わせる男性となっており、人生を回顧して書いているように思えなくもない。「スワローズについての詩集を出した」といった虚構が混じることもあり、ほかの記述も額面通り受け取る人はいないだろうが。

このコロナ禍で自分の人生のこれからをどうするか考えた人も多かっただろう。そのためにこれまでの人生がどうだったかを振り返った人も。

前半に収録された作品を読みながら私もそういうことを考えていたが、後半は日本語を解する猿が出てきたりするので、そんな読み方はやめてしまった(個人的には中盤以降に収録されている、ファンタジー文学的な手法が用いられた「クリーム」「品川猿の告白」、ラブクラフトを思わせる、忍び寄る恐怖演出が印象的な「一人称単数」が好みだった)。

しかし、『一人称単数』所収の小説のなかにどのくらい事実を書いているのかはともかく、一時期はよく「W村上」と並べて語られた村上龍も今年刊行した最新長編『MISSING』は自伝的な内容と幻想小説が入り交じった作品となっており、彼ら団塊前後の世代が人生を振り返るような作品を残したいと考える――どうやって人生を畳んでいくのかを考える時期に入っているのだろうとは思う。

『一人称単数』のなかでは何度も死がフォーカスされる。それ自体は初期作品から変わらないといえば変わらないが、30代で描いていた死と、自らの人生の残り時間をいやでも考えてしまう年齢で書くものとでは、やはり異なる印象を受ける。

このあとそれを見据えた長編をおそらく書くのだろうとも感じさせる。

『MISSING』にしろ『一人称単数』にしろ「最高傑作」とは言いがたいが、その自伝的な(?)要素もあいまって、彼らの仕事/ミームを誰がどのように継承していくのか、あるいはどういった部分は継ぐような存在はいないのか、彼らがデビューした70年代後半から現在まで、そしてこれからの文化史を考えさせられる作品である。