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1万5千回ノグソした男 うんこから考えるSDGs

飯田一史ライター
自分のした野ぐそ跡を次々掘り返して取材者に見せ、哄笑する伊沢正名さん(69歳)

 野ぐそはエコロジーである。

 人間が、自然界に生きる他の生物に対して貢献できるほとんど唯一の行為である。

 こう言われてあなたはどう思うだろうか?

伊沢正名『ウンコロジー入門』(偕成社)
伊沢正名『ウンコロジー入門』(偕成社)

 このような考えに基づき1974年から現在まで野ぐそを続け、このたび『ウンコロジー入門』(偕成社)という本を刊行したのが“糞土師”(ふんどし。うんこを土に還す達人)を名乗る伊沢正名さんである。

 これまでした野ぐその回数は1万4700回以上。

「野ぐそなんてとんでもない!」と反射的に感じてしまう人は多いだろう。

 そのほとんど生理的な反発に対して、伊沢さんは自身の経験と自然観察、そして日本人とうんこの歴史を紐解きながら、少しずつ説得していく。

 この本では、生物がするうんこがいかに他の生物に食べられ、植物・動物・菌類からなる生態系の命の循環に必要かがわかりやすく解説される。

 伊沢さん自身の野ぐそがアリやフン虫、イノシシ、ネズミなどからカビ、コケ、キノコなどに食べられ・分解され、それらの生きものがしたうんこがさらに他の生きものに食べられる過程の調査記録が記されている箇所は白眉である。

 私たちが野ぐそを異様な行為だと感じ、うんこをただただ忌み嫌うようになったのは、ごく最近――たったここ数十年で起こった変化である。

 実は現代日本人のうんこ観は自然観とつながり、大きな社会課題ともつながっている。

野ぐそを埋めた後は目印の木を。誰にでも自由に野ぐそしてもらうため近所の山を買った。「他人の所有地ですると不法侵入だとうるさいですから。元々自然は全ての生きもののもので、誰かのものじゃないんですけどね」
野ぐそを埋めた後は目印の木を。誰にでも自由に野ぐそしてもらうため近所の山を買った。「他人の所有地ですると不法侵入だとうるさいですから。元々自然は全ての生きもののもので、誰かのものじゃないんですけどね」

■ウンコロジストの半生――仙人・キノコ・糞土思想

――伊沢さんは写真家を経て糞土師になられたそうですが、現在のうんこ観に至った経緯からうかがえればと思います。1950年生まれとのことですが、人間不信に陥り高校を中退、仙人になりたいと考えたそうですね。

伊沢  中学に入って、地元の岩瀬から水戸へ通うようになったんですが、通学列車の中で、通勤中の大人が会社や上司の悪口や、「こんなひどいことやってるのか」と幻滅するような本音を平気でしゃべっているのが聞こえてきました。あるとき私の脇に座った自衛官が「年度末だから使っていない食糧を処分しないと」と言っていました。

 残すと次の年に予算がとれないから、未開封の一斗缶に入った醤油を全部ドブに捨てたそうです。そんなことを聞いて学校に行くと、私の通っていたのは進学校だったものだから、今度はいかに良い大学に行かせるかということが先生の関心の中心で、テストで点を取るためだけの授業。そういうことにうんざりして、人間社会から離れる究極の手段として、山で暮らそうと考えたんです。

――時代的にはちょうどヒッピー、フーテンが流行っていた頃ですよね。

伊沢  高校を中退してから、私もヒッチハイクしたりなんかして全国を旅しました。そうするとみんな親切なんですね。「泊まるとこないならうち来る?」って言ってくれたりして。だから街中で見ていると「大人は汚い」と思っていたけども、「人間って両面あるんだな」と思いなおして人間社会に戻ってきたんです。その頃は自然破壊や公害のことがとくに問題視されてきた時期で、私は自然が好きだったから、自然保護運動を始めました。

――具体的には?

伊沢  当時、茨城ではそういう団体はなかったから、自分でつくったんです。各学校の生物部や山岳部などに行って「自然保護運動をはじめよう」と声をかけ、最初は高校生中心で自然観察会や登山道のゴミ掃除を始めました。また、学園祭や水戸の街中でも自然破壊の写真の展示をしたり、議会に自然保護の請願を出したりしました。

――伊沢さんは団塊世代(1947~49年生まれ)より少し下ですが、その頃は学生運動がさかんでしたよね?

伊沢  ええ。大人や社会に対する不満、怒りがありましたから。私が高校をやめたとたんに東大安田講堂事件(69年1月18~19日)が起こって学生が機動隊と対決しているのを知って「くそー、失敗した! 大学に行っていれば俺も戦えたのに!」とそのときばかりは後悔しました(笑)。

――思想的に影響を受けた人は?

伊沢  政治に関することで影響を受けた人はいないですね。勉強嫌いで、本も読まなかった。ただ、きのこを知ってからは菌類学者の今関六也先生の「きのこの哲学」から影響を受けました。

――伊沢さんは偶然山で出会ったタマゴタケの美しさに惹かれたことがきっかけでキノコやコケを撮る写真家になったそうですが、ご著書に「1973年秋に自然保護への考えが変わった」とあります。どう変わったのでしょう。

伊沢  それまでは縄文杉やトキなど、「貴重な自然を守ろう」という考えでした。モノとして自然を見ていたんです。でも菌類が動植物の死骸やうんこを土に還し、その分解されたものがさらに新しい命につながっているという自然の循環が見えてくると、「生き物は必ず死ぬけどそれを使って新しい命がうまれる」という循環が大事なんだ、と気づいたんです。

――そのことと、自分たちがしたうんこやおしっこを処理する施設が近くに作られることをイヤがる住民たちによる反対運動への違和感から、うんこを土に還して自然に活かしてもらうための野ぐそを始めるわけですね。

伊沢  オイルショックの「店頭から紙がなくなる」という騒ぎを機に、それならばと葉っぱを使いはじめたんですが、完全に紙をやめるのは不安で、最後の仕上げだけは紙を使っていたんです。でも1990年に近所の林で野ぐそしていたときに、うんこをするための穴を掘っていたら白い紙がぽろっと出てきた。うんこも葉っぱもとっくに分解されているのに、紙だけはいつまで経っても分解されていなかった。これはまずいと思って、完全な葉っぱ野ぐそを確立しました。

――その後、自然写真家として成功された伊沢さんですが、せっかく写真を撮ってキノコの自然界での役割を説いても、キノコを食べる目的で見る人が多くて、かえって自然が荒らされることになり、90年代半ばには違和感を持ち始めたそうですね。

伊沢  ええ。食べるという実用性が重視されるんですね。「原寸大のきのこ図鑑を作ろう」とある出版社に言われて進めていたら、営業から「食べられるきのこ中心でやってくれ」と横やりが入って頓挫したこともありました。きのこは食べられるもの以外にもいろいろあり、むしろそのほうがかたちも様々でおもしろいのに。あれは残念でした。

――2006年にはついに写真家をやめ、「糞土師」(ふんどし)を名乗られるようになったわけですが、現在はどうやって生活しているのでしょうか。うんこ専業ですか?

伊沢  いやあ、まだなかなかうんこだけでは食っていけないですね(苦笑)。全国で講演会をしながら、昔の写真や本の印税なんかもあって、暮らしています。

取材に同行した書籍の担当編集が約一月前にした野ぐそを掘り返し確認。分解が進み、臭いは消えていたが、同時期にした伊沢氏のものとは異なりカビや動物には利用されていなかった。前日に食したコンビニ弁当のせいか
取材に同行した書籍の担当編集が約一月前にした野ぐそを掘り返し確認。分解が進み、臭いは消えていたが、同時期にした伊沢氏のものとは異なりカビや動物には利用されていなかった。前日に食したコンビニ弁当のせいか

■現代日本のうんこ観はいかに形成されたか?

――伊沢さんの本や有田正光、石村多門 『ウンコに学べ!』(ちくま新書)によると、日本では大正時代まではうんこは肥やしとして商売上の奪い合いになるほどだったのが、昭和になって化学肥料の生産が本格化するとうんこの経済価値が下がり、余った糞尿が河川に不法投棄されるようになったそうですね。

 昭和40年代までが海洋投棄全盛期で、昭和50年代になると陸上の処理施設ができてくるものの、コストを安くしようと民間業者の不法投棄が繰り返された。ただ現在は「海を汚染する」という理由で国際的に海洋投棄は基本的に禁止され、最終的には重油で燃やしてセメントの材料になっていることが多い、と。

 そう考えると現在の処理方法が一般的になった――言いかえると日本人のうんこ観が今のようなものになった――のはたかだかここ4、50年ということですよね。

伊沢  私は歴史の専門家ではないのでたしかなことは言えませんが、近代以降で大きく捉え方が変わったのは、江戸時代から明治になって西洋文明が一気に入ってきたときと、戦後になって化学肥料が普及したときの2回でしょうね。

 産業革命以降の機械文明の台頭で自然観が西洋化されて、自然は共生関係にあるものではなく、収奪可能な「モノ」として扱うようになり、そのあと戦後に化学肥料が出てきてうんこは使い道のないごみになった。そうして人間は自然とのつながりを完全に断ち切ってしまった

 それまではうんこを有効活用して、なんらかのかたちで生きものの世界に還していたんです。

――荒俣宏さんが監修した『うんこ図鑑』(日本図書センター)によると、タイには川の上に建てられた水上トイレがあり、床に穴があいていてそこにうんこを落とすと川の魚が食べてくれると。沖縄でもかつてはトイレの穴の下に飼育しているブタがいて、うんこを食わせていた。

 やはり『うんこ図鑑』によるとトイレを使ってうんこをしているのは現在でも人類の約3人に2人で、それ以外はビニール袋やバケツ、あるいはなにもない屋外でうんこしており、うんこを紙で拭くのは約3人に1人しかおらず、むしろ水で始末するのが主流で、あとは小石や砂、草、藁、縄、木でできたへらなど多様な方法で処理しているとあります。

 だから、今の水洗トイレとトイレットペーパーによる処理方法も、その後、処理場で分解して最後は燃やすのも、決して「当たり前」のことではない。でも今ではそれ以外のやり方が不潔に思える人が多いのはなぜなんでしょう?

伊沢  外国の人は「日本は街中にゴミが落ちていなくてきれいだ」とか「トイレも清潔だ」と言ってくれるけれども、それは日本人の衛生観念がエスカレートしすぎたことの裏返しなんですよ。なかでもうんこはくさい、汚い、不衛生というので追いやられた。

 問題なのは、それを自分自身でつくりだしているという意識がないことです。自分たちが動物や植物などの生きものを食べた結果出てきたものがうんこなのだから、製造者責任としてきちんと自然に還すべきだというのが私の考え。

 それ以上に人間が自然に貢献する方法がありますか?  日本ではお米の生産量よりも多い年間約1000万トンものうんこが生産され、それを処理するために電気や重油といった資源が膨大に使われ、自然に負荷をかけているんです。適切なやり方で野ぐそをすれば、他の生きものの命になって、自然が豊かになるというのに。

野ぐそ後、約2か月でミミズやカビ等に分解され、ミミズに食べられ栄養たっぷりの団粒土になり木の根が伸び、どんぐりも芽生え始めた。「このくらいになると土に甘みがあるから舐めてみない?」。丁重にお断りした
野ぐそ後、約2か月でミミズやカビ等に分解され、ミミズに食べられ栄養たっぷりの団粒土になり木の根が伸び、どんぐりも芽生え始めた。「このくらいになると土に甘みがあるから舐めてみない?」。丁重にお断りした

■都市と糞――コンクリートを剥がし、野ぐそ革命を!

――糞尿を遠ざけるべき理由として「病気(疫病)の原因になる」「分解が追いつかないと土壌や水が汚染されて臭い」というものが真っ先に挙げられますが、これは都市化が原因で、自然が分解しきれないくらいの量が狭い土地に放たれるからであって、著書内の伊沢さんの計算によると、分散して住めば日本人全員が野ぐそしても十分な土地はあると。

伊沢  そう、だから人口数と人口密度が問題なんです。東京湾がトライアスロンできないくらいうんこまみれだという報道がありましたけど、あれだけ人口が増えたら処理しきれないということでしょう。熊本では地震が起きたときに水道も屎尿処理場も停止して野ぐその習慣がない人たちは困り果てたわけですけど、首都直下地震が起きたらそれとは比べものにならない混乱が起きますよ。

――ただ、都会だとやはり野ぐそは難しいですよね? 伊沢さんの読者のなかには、バケツに土と落ち葉を入れて家に確保しておき、それにウンコをして時間のあるときに林に戻しに行くという“バケツ野ぐそ”をしている都市生活者もいるそうですが、そもそも近所にそんな土や林すらないぞ、という人もいると思うんです。

伊沢  だから、革命を起こさないといけないんですよ。

 もともと土からコンクリートに変えた理由はなんですか? 雨が降ったら道がデコボコになってクルマが走りにくいとか泥を跳ねて服が汚れるとか、そういう人間中心的な利便性の追求のためでしょう? それをひっくりかえさないといけない。不要なコンクリートは剥がして地面を出したり、そこに木を植えて林をつくる。そういうまちづくりが必要なんですよ。現状を変えようともせずに、「今の状態では野ぐそなんかできない」なんて言うやつはくたばっちまえ、と言いたい(笑)。

――コンクリートの歩道をハンマーで破壊して投石した神田カルチェ・ラタン闘争を思わせる発想です。

伊沢  まあ、それ以上に人間の数をいかに減らすかが問題ですね(笑)。

――伊沢さんは日本の人口は江戸時代の3000万人くらいまで減らすべきだとおっしゃっていましたね。

伊沢  人間が自然と共生しようとするなら、あのくらいが限界だと思うんです。文明レベルとしても、江戸時代は産業革命前だから手工業と家畜がいるレベルの農業で、自然に対する負荷は小さかった。でも江戸時代のからくり人形なんて、すごかったわけでしょう? 科学技術がなくても知恵があれば人間は良いものを作れるし、自然と共生できる。

 じゃあどうやって人口を減らすか? 一番簡単なのが戦争、死刑。でもそれには大反対。何が善で何が悪か。それは視点によりますからね。みんな自分が好きなものが善、嫌いなものが悪です。人間社会の争いは、自分の好みの押し付け合いなんですよ。その延長線上に法律もある。だからそういうやりかたは反対です。

 私の考えはものすごく極端な言い方をすれば「自然と共生できないやつはくたばっちまえ」と(笑)。だって人間以外の動物はみんなうんこと死体を自然に還しているから、自然の中での共生関係が成り立つ。人間もそうならないといけない。

自宅の庭にはお尻を拭くのに適した葉っぱをつける木をいくつも植えている。野ぐそを所望する客人に庭を貸すことも。
自宅の庭にはお尻を拭くのに適した葉っぱをつける木をいくつも植えている。野ぐそを所望する客人に庭を貸すことも。

■うんこの哲学

――今後はどういった活動を?

伊沢  次の本では「野ぐその哲学」について書きたいと思ってるんですよ。先日、浄土真宗大谷派で出している「同朋新聞」でインタビューを受けたら非常に評判がよかったらしく、今度は講演会に呼ばれました。浄土真宗をひらいた親鸞といえば悪人正機、他力本願ですよね。善人こそどうしようもない、と。人間にできること、わかることはたかがしれている。でも自分はなんでもできる、自分は善人だと思っている人こそが傲慢になってとんでもないことをする。

「人は善をなさんとして悪をなす」という言葉もあるように。私は「野ぐそなんてとんでもない」と批判してくるいわゆる良識派や、結局のところ自然よりも人間を優位に考える人間中心的な考えの人権派と闘っているつもりですから、同じものを感じてくれたんじゃないでしょうか。

 だから今度は「うんこになって考える」という思想・哲学の本を書きたいんです。

 うんこをもとにして、人はどう生きるべきかを説きたい。宗教は深いですけれども、観念の世界でわかりにくいですよね。実際に目で見ることができない。でも野ぐそはちょっと掘り返すだけで、その行く末まで、つまり命の循環までかんたんに見ることができる。それが私の唱える糞土思想の強みです。宗教の領域である命の話にうんこで斬り込みたい。

 野ぐそをして掘り返すといろんなことが見えてくる。さっき、山で見たでしょう? コンビニ弁当を食べた次の日にしたうんこは1ヶ月経ってもカビが寄ってこない、とかね。まあそれでも初夏には全部分解されて、木の根なんかが伸びてきていると思いますけどね。そうやって自然の力を自分の目で見ることにはすごい説得力があるんです。

家に天然お尻拭きを確保。「枯れ葉じゃ拭けない、冬はどうすると言われるけど、少し湿らせばしっとり。このチガヤの穂はミンクのような肌触りで、何年でも保存できます。トイレットペーパーよりよっぽどいいですよ」
家に天然お尻拭きを確保。「枯れ葉じゃ拭けない、冬はどうすると言われるけど、少し湿らせばしっとり。このチガヤの穂はミンクのような肌触りで、何年でも保存できます。トイレットペーパーよりよっぽどいいですよ」

[本稿掲載の写真の撮影はすべて筆者による]

ライター

出版社にてカルチャー誌や小説の編集者を経験した後、独立。マーケティング的視点と批評的観点からウェブカルチャー、出版産業、子どもの本、マンガ等について取材&調査してわかりやすく解説・分析。単著に『いま、子どもの本が売れる理由』『マンガ雑誌は死んだ。で、どうするの?』『ウェブ小説の衝撃』など。構成を担当した本に石黒浩『アンドロイドは人間になれるか』、藤田和日郎『読者ハ読ムナ』、福原慶匡『アニメプロデューサーになろう!』、中野信子『サイコパス』他。青森県むつ市生まれ。中央大学法学部法律学科卒、グロービス経営大学院経営学修士(MBA)。息子4歳、猫2匹 ichiiida@gmail.com

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