ゾンビとロボットから「人間とはなんぞや」をくそまじめに考える

ロボット研究者の石黒浩氏と私の共作小説『人はアンドロイドになるために』と同タイミングで、地域アートに関する編著などを手がけるSF・文芸評論家の藤田氏による『新世紀ゾンビ論』が刊行された。世間では人工知能とVRに注目が高まるなか、むしろ/あえて、ゾンビとロボットという、人型ながら人間ではないものたちから社会の変化、そして「人間とは何か」を考えてみた。

■「新しいゾンビ像から現在の社会を分析する」vs.「ロボットが普及した近未来社会とは?」

藤田 さて、石黒浩さんと飯田一史さんの共著の小説集(!)『人はアンドロイドになるために』と、ぼくの『新世紀ゾンビ論:ゾンビとは、あなたであり、わたしである』が、同時期に筑摩書房から刊行されました。これは偶然なのですが、なにがしかの縁ではあるので、対談してみようということになりました。

共通しているのは、「人間」が何か別のものに変わろうとしているその揺らぎに鋭敏に反応したということでしょうか。

飯田 それぞれ「人間とロボット」「人間とゾンビ」という対比から思考していく本ですね。

ただ大きな違いとして、まず、ゾンビはいまだフィクションの存在であるけれども、アンドロイドは現実につくれる(可能性がある)という点があります。

アンドロイドも、もともとは虚構の世界の話だったけれども、石黒さんが現実につくってみたらいろいろわかってきたので、その知見をもう一回フィクションに投入してさらに先のことをシミュレーションしてみた、というのが今回の小説です。

藤田 確かに、その差は大きいですね。

ぼくの『新世紀ゾンビ論』は、「いまこの世界はこうで、人間はこういう環境を生きているから、ゾンビ作品が流行したり、ゾンビの性質が変わる」という現状を説明する論のなで、「現実にアンドロイドが実装されるとどうなるのか」という未来志向のアンドロイド本とはちょっと違う。

石黒さんと飯田さんの小説は、アンドロイドが人間の生活をどう変えるかとか(介護とか、コミュ症の人を助けるとか、作曲したり演技したりするとか)を描きつつ、それに対峙する人間や社会の変化を描く内容ですね。

飯田 そうですね。

藤田 ロボットが社会に普及していくことに対する反発もあるし、犯罪も起こるし、急進主義の思想も出るし。そういうパターンを色々と考えて、その日が来ることに対して備える(?)小説。今あるアンドロイドやAIのリアルをベースにして、「こうもなりえる」というリアリティを感じて、良い部分も、悪い部分も、考えてもらう。

「アンドロイド」というとまだ新奇な感じだけど、インターネットとか、TVとか、自動車とか、活版印刷とか、車輪とか、新しいテクノロジーが出てきて、混乱を伴いながらも普及していくという流れは人類史で何回もあった現象なわけで、アンドロイドもそういう道を辿るだろう。そうなると何がどう変化するだろうか、という大きな視点での思考実験ですね。

■思考実験、問いかけとしての小説

藤田 議論に入る前にお聞きしたいんですが、この小説集は、ロボット研究者の石黒浩さんとの共著とのことですが、どういう経緯で書かれたんですか?

飯田 文春新書から出た石黒さんの本『アンドロイドは人間になれるか』で僕が構成(石黒さんの語りおろしをまとめた)した関係で、石黒さんと話をしていたら、あるとき「小説書きたいんよねえ」「書けばいいじゃないですか」「いっしょにやりません?」「え? はい」みたいな流れですね。

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石黒さんとしては前から書きたいと思っていたけれども、一人だとなかなかできない、進まない、というところで、たまたまお声がけいただき、スカイプで何度も議論しながら作っていきました。「共作」と言うと、どこからがどっちの作業なのか、どっちのアイデアなのかという話になりがちですけど、実際やってみて思ったんですが、切り分けは難しいですね。

藤田 石黒さんが研究者として「仮説と検証」という作業をしながら発見していく以外に、思考実験として「ロボットが当たり前にいる社会とはどういうものなのか」を小説として書くことで初めて見えてくるものもある、というようなことを書かれていましたね。

しかし、どうなんでしょう、この本は石黒さんが小説を書くことで発見した知見を披露しているというより、アンドロイドのいる未来について考えてもらう作業を読んだ人に一緒にしてもらって初めて完成する、という感じがしましたが。

飯田 それはそうですね。純粋にストーリーを楽しんでもらうというより、問いかけであると。石黒さんがもともとそういう方だからでしょうね。

藤田 科学者が小説に挑む必要性を感じるというのは面白いですね。石黒さんは元々、SF好きな方なんですか?

飯田 SF映画はかなり観ていると思いますが、小説はそんなでもないみたいです。「飯田くん、人にすすめられたんだけど、神林長平って何読めばいいの?」って聞かれたことがあったくらいなので(笑)。

ちなみに『人はアンドロイドになるために』で、短編と短編の合間にロボット研究者が語るというスタイルはもちろんアシモフの『われはロボット』オマージュです。

藤田 グレッグ・イーガンの翻訳で有名な山岸真さんが、アシモフのつくった「ロボット三原則」が出てこない(のがいい)的なことを仰っていました。ポストヒューマンSFだとも。

飯田 ロボット三原則は、石黒さんの作るロボットのベースにはそもそもないですからね。今のロボット研究者の多くはそうなのではと。

藤田 今回の短編集の中では、宗教と芸術の未来を考えていく4話目「時を流す」が一番ラジカルで面白かったです。

飯田 アンディ・ウォーホルのアンドロイド100体作っていっせいにキャンベルスープのポスター描くインスタレーションさせるとか、キリスト像みたいなアンドロイド使って遠隔操作したり、自律型としてペッパーみたいに対話できる聖人アンドロイドをつくるとか、そういう話ですね。ストーリーは破綻しているんですが、アイデアはいろいろ入っているかとは思います。

藤田 ええ。究極的なところで、宗教と芸術の話に突入していき、破綻も込みで、宗教と科学が入れ子になって、互いに相手の裏を掻こうとしてぐるぐるしていく感じがよかったですよ。

SFの人なんだなぁ…… ってのが、ちゃんと分かりましたよ。飯田さんの、音楽への愛も伝わった。ボカロ小説研究や、マクロス愛などとの一貫性も見えてよかったです。

飯田 そうですか(笑)。

■ディスられがちな「走るゾンビ」「美少女ゾンビ」を肯定する!

藤田 ゾンビ作品って「進歩も芸術も人間も社会もどうでもいいヨー」的なところがあるんで(あるいはそういう風になっている世界の中で、なんとか人類の生存を維持しようとする世知辛い世界なので)石黒・飯田本のポジティヴさが眩しいです(笑)。

飯田 『新世紀ゾンビ論』は、ロメロタイプの20世紀型ゾンビ(腐ってる、のろい、感染する等々)を正統として扱い、『さんかれあ』や『魔法少女まどか☆マギカ』などに出てくる「見た目が美少女のゾンビ」とか、ゲーム発で映画でも普及した「高速で走るゾンビ」を単なる亜流、よくない例として扱う論者が大半ななか、むしろ積極的に検討・評価していくのが独自ですよね。ゾンビファンからはおおむね評判の悪い21世紀型ゾンビ(必ずしも腐ってない、速い、必ずしも感染しない)の意味を考察していく。

藤田 ゾンビ好きは、ロメロ・ゾンビが好きなんですよ! そして、21世紀の足が速かったり共存できるゾンビを認めない。『ゾンビ論』の中原昌也さんとか。しかし、不当に評されている新世紀のゾンビの性質や意義を正面から論じてみようじゃないか、という狙いの本でした。新世紀ゾンビ派vs旧世紀ゾンビ派の熱い激論が起こってほしいものです。

飯田 かつ、単に「新しいからOK」という話ではなくて、そういう異形のゾンビたちに今の社会の写し姿を見るを読み込んでいくのも特徴です。

ゾンビは在特会的であり、アイドルオタク的でもあり、ネット民的でもあり……21世紀的な集団、中でもどちらかといえば負のイメージのあるものならなんでも投影されてしまうものになっている、と指摘している。

藤田 フィクションの中のキャラクターとしての「ゾンビ」の性質として、「なんでもかんでも投影される」というのがあると分析しています。特に、偏見なり差別なり、マイナスイメージのある集団は、ゾンビにされやすい。

飯田 たしかに、整然としているものはゾンビであんまり表象されないですね。

藤田 変容しつつある「人間」が、不安や脅威の感覚を投影するもの全般として21世紀のゾンビがある……というのが、ぼくの考えです。

アンドロイド本では、ロボットのような無機物や、AIなどのデジタルとの関係と人間の境界が問題になっています。

ゾンビはもう少し有機体的で、恐怖とか不安の「イメージ」に近いものですね。

飯田 普通は、ゾンビは負のイメージを付与されがちなんだけれども、『新世紀ゾンビ論』では、人間以上の可能性を秘めているものとして逆転させる試みが本の終盤でされていきます。

藤田 あれを言った人はなかなかいないと思うんですよ。「ゾンビ」、特に「美少女ゾンビ」を肯定的な像として打ち出したところが、この本の一番強い主張であり、提言であると考えています。一番意見を聞きたいところです。

ゾンビを共存する物語や、自身をゾンビに喩える言説の増加が社会に見られることから導かれた提言ですね。ゾンビ化した生をポジティヴに捉えようとする思想が大衆文化に出てきていることの意味を考えました。

シンギュラリタリアンが、「人間の変容」「情報化した魂」などをポジティヴに考える躁的で軽やかな側面を象徴すると言えるんですが、ゾンビというのは、取り残される身体や朽ちるインフラ、変化への疲れなどを基本的には象徴します。これらは正反対に見えるんだけど、相補的な同時代への対応だと思います。

■「アンドロイド=優れている」「ゾンビ=劣っている」イメージから人間を考える

飯田 ゾンビと比べると、ロボットのほうが「人間より能力が優れているところがある」という認識は共有されています。

藤田 でも、ゾンビは「競争しなくていい」とか「平等」とか「苦痛を感じない」とか、いい側面もあるんですよ。それを憧れに感じる現在の人間の辛さもわかる。

物体としての身体への注目という点では、多分アンドロイドとも似ていると思います。

飯田 ただ、アンドロイドはきれいに作れる。もちろん、シリコンやウレタンでつくられた皮膚は劣化していくんだけど、とりかえれば新鮮なままの外形でいつづけられる。

「不変の美」「恒久の美」を体現できるのは人間ではなくアンドロイドである、とか、誰に対しても公平に接することできるとか、疲れてイヤな顔したりしないといったふうに「人間の理想を体現できるのは実は人間ではなく人工物の方である」という逆転が容易に起こる(起こりうる)。

藤田 『人はアンドロイドになるために』のエピソードで言えば、アンドロイドに見た目をコピーされたり、意識をデジタル化したとしても、コピーされた側の「この身体」を抱えた「この私」は、年取るし、劣化するし、死んでいくわけじゃないですか。そのオリジナル(人間の方)がコピー(アンドロイド)に嫉妬するという話がありましたが…… ゾンビ本で論じているのは、完全に「取り残された身体」側の立場なんですよ。理想的な身体になりきれない残余の側です。

飯田 アンドロイド>人間>ゾンビ、みたいな序列(?)と捉えるとわかりやすいのかも。

ゾンビは見た目レベルからして憧れの対象になりにくい。汚いイメージが強い。逆に言えば、見た目で左右されているだけの面も大きい。

藤田 見た目の差はありますね。小説の中では、アンドロイドは、特別な選ばれた人がなるものだったり、あるいはアイドルや教祖と相性がいいと書かれていますね。それに対し、ゾンビは公平で民主主義的ですから(笑)

飯田 「民主主義」ではないのでは? ゾンビに選挙とかないでしょ?(笑)

藤田 「民主的」ですかね。

飯田 なるほど。

藤田 「残された身体」としての人間が、和解を試みるしかない対象としてゾンビがあると考えています。アンドロイドやアイドルのような「完璧」なる存在への憧れの裏表、陰画というか……その挫折と諦念との折り合いのための産物と言うか。

飯田 人間とゾンビを対比すると、ゾンビの方が「残された身体」「朽ちた存在」に見えるけれども、アンドロイドと人間を対比すると、人間は「残された身体」「朽ちていく存在」であることを自覚してしまう、と。

ゾンビとアンドロイドは「朽ちた人間(の先取り)」と「朽ちずに残り続ける人間(の能力や外見)」の対比だと。ゾンビは朽ちながら永遠に生き続けるケースもあるのがややこしいところですが……。

ゾンビの場合は、アンドロイドと違って人間の能力の複製や記録という機能はない。だから「残る」ことがもたらす事件や問題は起きにくい。もちろん、ゾンビになる前の能力や記憶が一部残っていて、それがもたらすドラマは描かれていますけれども。

藤田 ええ。文明などは崩壊している場合が多いし、文化や芸術のことを気にしていられないサバイバル的状況になっているので、「残る」問題は、ゾンビが出てくるフィクションで問題になることは少ないですね。

アンドロイドのように、伝承したり、生前のように振る舞う、という性質とは違うかもですね。

たとえば、今回の小説では、アンドロイドがお墓代わりになって、生前の記憶を引き継いだアンドロイドがいれば、残された人はそれを「本人」のように思うかもしれないという話があるじゃないですか。

しかし、ゾンビの場合は、生前の本人そのままのDNAでも、あんまりそういう風に受け入れられる可能性はないかもしれない。それは大きな差ですね。首輪や管理装置を使って大人しくさせたり、知能が高いゾンビの場合は、ありえなくはないんですが。

ゾンビは、あんまり芸術や芸能で活躍はしないかもしれない。卓越性はない。そこは違うかも。歌が上手かったり才能があったりはしないかも。できても、せいぜい単純労働か、ゲームぐらい。お笑い芸人になるパターンはあるな、そういえば。

■「人間かどうか」(人間の定義)が問題なのか? 「行為」が問題なのか?

飯田 とはいえ、何をもって「本人」とみなすかという意味では、石黒さんが作ったジェミノイド(特定個人そっくりのアンドロイド)がもたらしうる問題と似たような問いをゾンビも抱えている。

ゾンビになった存在に対して「あいつはもう人間じゃない」的なセリフがよく出てきますが、何を基準に言っているのか。人間じゃなかったら殺していいのか。人間じゃなかったら、友人や家族ではなくなるのか。

藤田 子どもや愛する人がゾンビになったときにどうするのか、っていうのは、結構重要な問いとしてありますね。『ウォーキング・デッド』の場合、決断して殺す人と、ゾンビになった子どもをそれでも身近に置き続ける人で対比がありますね。

ゾンビか人間かが問題と言うよりは、「襲う」「腐る」が問題なんですよ。生きている人間でも同様の条件があったら共存は困難になります。これがなければ、ゾンビでも一緒にやっていける。

飯田 たしかに、ハリウッド映画でよくある「機械(AIやロボット)の反乱」も、別にロボットや人工知能じゃなくても、反乱・暴動自体が社会的に対処しないといけない事態ですからね……。

つまり「主体」が何なのかが問題ではなくて、実は「行為」が問題なことは多いんだけど、そこはけっこうすり替えられている。見た目や中身はどうあれ、「行為」が問題ないなら社会生活は送れるし、共生もできる。

藤田 『ショーン・オブ・ザ・デッド』は新世紀ゾンビのメルクマールなんですが、それはゾンビ化した友人を物置で飼ってゲーム友達で居続けるという結末を描いた点において、ゾンビへの態度変更を示していると思うんですよ。

「人間」かどうか、ということが深刻に問題になるのは、飯田さんの本にも少し言及があったけれども、キリスト教と、その影響下にある哲学・思想において顕著なのかもしれない。「人間」であることを守ろうとする。「個」であることを守ろうとする。良し悪しはともかく、その差は感じますね。

飯田 「神が人間だけを、自分の似姿として、特別なものとして作った」という思想が前提になっていると、人間が人間同等のものを作り、人間の特権性を否定しまうと、それはイコール神の否定(神と人間の差の否定)になるから、受け入れにくくなってしまう。

ただ「行為」だけでなく「主体」の側に目を向けてみても、「人間」とみなされるものの範囲は明らかに歴史を追うごとに広がっているし、人間とみなされたものへの扱いもよくなっているんですよね。「人間」の定義は、歴史的に見れば一定ではない。

藤田 昔は黒人が人間と看做されていなかったけど、今やそうではない。動物への倫理的感受性も上がってきている。この進歩が継続するのなら、「人間」あるいはそれに準ずるものに感じるものの領域は増えていくと推測できますよね。日本のキャラクター文化のファンを見ていると、結構もうそれは遠くない気もします。そうなると、価値観や制度は変更を迫られます。そこまで視野に入れてます。

飯田 そうですね。そこは実は石黒さんと藤田さんの議論が交差しそうなところです。藤田さんの最初の著作『虚構内存在』ではフィクションのキャラクターの「人権」を考えるという議論をしています。

他方、石黒さんがよく言う話ですが、昔は義手や義足、人工臓器は人間の身体の一部として認められなかった、あるいは動物の臓器を人間に移植するなんてことも宗教的に忌避する声も大きかった(今もありますが)、そういうものを使う人がいたら人間とはみなさない人すらいたけれど、今では多数派ではない。

では、自分の生身の身体はほとんど使わずに、ロボットやアンドロイドを遠隔操作して生活を送るようになったら、そのロボットは「人間の身体の一部」になるはずだし、ということは、壊されたら単にモノを壊した以上の扱いを受けなければおかしくなっていく。

じゃあ本人が遠隔操作の対象にするものが二次元ないしセルルックの3DCGで作ったキャラクターだったらどうなのか。

藤田 『新世紀ゾンビ論』でも、「身体イメージ」の話をしているんですが(自身の身体の輪郭をどうイメージするか)、それはどうも、結構変わるらしいですね。道具に延長されたり、ネット上にも延長されるだろうし、映画の中の人物などにも延長されるだろう、そして「身体イメージ」と「アイデンティティ」は結びついているようだ……という話をしているんですが、アンドロイドでも当然それは起こるでしょうね。それも身体、自己と感じるリアリティに変化するのは自明ですよ。

飯田 テクノロジーが発達することによって人間の定義、自己の定義はつねにリファインされてきた。ロボット、アンドロイドが発達し普及していく過程では絶対にそれがまた起こる。もちろん葛藤や軋轢も起こる。

アンドロイドの方が、ゾンビに比べれば、人間ないし準人間として認められていく可能性は高い。……と言うと「まあ、それはそうだろう」となんとなく思う人が多い気がしますが、全然当たり前のことじゃない。

見た目の汚さで差別していいんですか? 知能の高さが問題なんですか?

じゃあ腕や足が腐っている人は人間じゃないんですか? 知能が低い人は人間じゃないんですか? という話なので。

■ゾンビとロボットから人間の死生観を考える

藤田 少し話を変えますが、今回の小説では、ロボットやアンドロイドが社会に普及することによって「死」の価値観が変わるだろう、というところにこだわっているのが割と面白かったです。

飯田 書く前はそうなるとは思っていなかったんですが、「死と継承」というテーマが通底するものになりました。

藤田 死とは何か、継承にどんな意味があるのか、という課題は、宗教の課題ですよね。しかし、宗教のようなものも「作れる」ものとしているから、循環してややこしい。

『新世紀ゾンビ論』も、奇しくも、死や脅威をどうやって受容可能なものとして和解するのかという主題に最後に辿り着きました。ベクトルは逆でも、そこは近しい課題なのかもしれません。

飯田 そうですね。メディアやテクノロジー環境が変化していくなかで、人間の死(後)をどう捉えるかという普遍的な問題。天国とか地獄という意味での「死後の世界」というより、誰かが死んだあとに残された近親者たちの世界がどう変わるか、それによって生きているうちに選ぶ生き方、死に方がどう変わるか、ひいては死生観がどう変化していくかを、ロボットやアンドロイドが人間の能力をコピー、記録した媒体として普及した時代を舞台に考えてみたわけです。

藤田 新しいメディアやテクノロジーに、霊や死後の世界の期待を託すというのは、写真と幽霊、などを考えても、普遍的なのかもしれませんね。

死と同時に、生が再定義される、という側面もあります。

飯田 その人の特徴をコピーしたジェミノイドは、ある意味「ずっとその人が生きている」「死なない」状態を作ってしまうとも言えるので、本人にとって、あるいは周囲にとって、死の意味も、生の意味も変わるはずです。

たとえば中世では、ヨーロッパでも日本でも戦争や飢饉、流行病が多くて人がガンガン死んだために、死後の救済をしてくれることを謳う宗教が流行りました。時代がくだって人間がなかなか死ななくなると、宗教が訴える内容も現世利益中心になっていく傾向にあります。

宗教観、死生観は社会やテクノロジーの変化、人間の生のありようと無縁ではないし、そこで生まれるフィクションのイメージも変わって当然です。

ゾンビに話を戻すならば、「遅いゾンビ」は遅くする理由があの時代なりにあった。でも今は違うからこそ、新しいゾンビのイメージがあらわれてきている。それが『新世紀ゾンビ論』のテーマですね。

藤田 ええ。新しいゾンビの在り方が流行する背景にあるもののを明らかにしようと思ったんです。

飯田 これは全然他人事な話ではなくて、藤田さんとは何冊か共著があるのですが、今回の小説で死の問題を掘ることになったのは、並行してやはり藤田さんとの共著でもある『東日本大震災後文学論』の作業をやっていたからであり、311からの影響があります。

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藤田 そうだろうと思いました。ゾンビ本も、震災の影響をめっちゃ受けてます。実は震災の直後に、「生と死」に深く突っ込んだ論も書いたんですが、全部放棄して書き直しました。でも、潜在的に、震災の影響は深いレベルである本として読んでももらえたら嬉しいです。

多分、ゾンビは、「自分が死ぬかもしれない」という脅威の象徴という側面が大きいです。ウイルスとか、テロリストとか…… 主体のない、ネットワーク型で、グローバルに拡散する脅威。それのせいで「死ぬかもしれない」「生き残りたい」という感覚が関係している。

日本の場合、それに相当するのは、多分、ゴジラ。形や数が違うけど、日本の場合は、一国的で、自然災害的な脅威の象徴が出てくる。

飯田 今回の小説では、先ほども言ったように、ある人そっくりの見た目や話ができるアンドロイドが残せるとしたら、今のように遺影や墓、映像や作品しか残せない場合といったい何が変わるのだろう、ということを考えています。

残せたら残せたで、本人がそのあともずっと生きていたら違った振る舞いや考えをしたかもしれないのに、アンドロイドが遺品のようになると、残された人たちはそれにとらわれたり、勝手に自分の思い入れを投影するだろう、といったすれ違いも考えました。

藤田 本物の死者そのものとは接続できなくても、遺影とか、残した作品とかを通じて故人に触れるような(ぼくらも、小説を読んだりして、作者は死んでいるのに生き生きとした何かを感じるわけですが)感じの延長で、可能な限り精密な死者の「痕跡」を残しておくと、死者や死への想像力が変わる、っていうことですよね。

こないだ発表になった大阪万博の案も、叩かれてましたけど、テクノロジーで変容する死生観や生命観、という主題に踏み込んでいたのは面白かったし、同時代の空気を吸っているんだな、と思いました。

最初にも言いましたが、ゾンビ本とアンドロイド本に共通しているのは、やはり、既に近代的な「人間」は揺らいでいて、拡張されているので、次の手を打たなければならない、と認識の更新を迫るところでしょう。

ポストヒューマニティーズ』(ポストヒューマンの人文学)に向けた作品として、両方とも読んでもらえたら嬉しいですね。

飯田 そうですね。やはり共著である同名のSF評論集からの流れもありますね。

藤田 実はぼくの本も本格的に死生観や宗教の話まで突入したかったんですが、そこまで行くと話が収集付かなくなったので、泣く泣く切ったんです。

しかし今こそ「人間」という根源的な部分から問い返していく必要を感じますし、そこまで問い直すべきだと多くの人が感じているからこそ、ゾンビという、死者の復活的なイメージのあるモチーフが流行っているのだと思っています。

飯田 なるほど。人工知能やVRに注目が高まるなかで、ゾンビとアンドロイドを横に置くことで、「人間観」を再考する、いま人間はどういうものになっていて、これからどうなるんだろうということを考えるために、セットでお読みいただくと、より理解・議論が深まるのではと思います。

藤田 「ゾンビになりてぇ!」って思う人が増えたこの社会を理解してほしいです。