小説の編集者は、もういらない? 投稿サイトから書き手はいかに育つか

(写真:アフロ)

■意外と知られていない!? ベストセラー小説は投稿サイト発だらけ

2016年度の本屋大賞第2位に輝いた住野よるのデビュー作『君の膵臓をたべたい』(双葉社刊)は「小説家になろう」という投稿サイトが初出である。

2016年4月から放映されているTVアニメ『Re:ゼロから始める異世界生活』の原作も「小説家になろう」に連載されたのちにメディアファクトリーMF文庫Jから書籍化されたものである。

少し前のデータだが、文芸書の売上ランキングを見てもらうと、

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このように、ウェブ発の小説が売上上位のかなりの数を占めていることがわかる。

以前は、小説家としてデビューするには出版社が主催の新人賞を取るとか、作品を売り出すためには小説の雑誌に連載して単行本にまとめて……というかたちが主流だった(「以前は」というか、今もこちらが「主」だと思っている人も多いが)。

しかし2010年代、投稿サイトで人気になって書籍化デビューし、投稿サイトを初出にして紙の本にする(そしてそれが売れる)、というサイクルが当たり前のものになった。

どころか、映画やコミックも大ヒットした小説『王様ゲーム』の著者・金沢伸明氏のように、小説投稿サイトに書くまではまったく小説を書いたこともなく、ほとんど読んでもこなかったという作家までいる。

ウェブからどうやって商業出版できるレベルの書き手が育つのか?

ウェブを軸に活動する現代のクリエイターに求められるものは何か?

ウェブで人気になった作品を本にすればいいなら、出版社の編集者なんかいらないのでは?

といったことについて考えてみたいと思う。

これらのことを筆者は出版業界向けの提言としては『ウェブ小説の衝撃』という本にまとめたので、そういう目線で主張をくりかえすつもりはない。

ここでは、現代においてクリエイターの、あるいは新人の育つ環境/システムとはどんなものがありえ、どんなものが望ましいのか――もっと言えば仕事でも家庭でも習い事でもどこにでも転がっている「育つ/育てる」問題について、読者諸氏に考えてもらう糸口になれば幸いである。

あるいは、何か事業を考えている人がいれば、既成のさまざまな産業がウェブ/デジタルにリプレイスしていく過程のひとつのケーススタディとして読んでもられば参考になるのではないかと思う。

■そもそも論から考える これまでの新人育成・輩出システムの問題点

他の仕事と小説家業との違いとは、なんだろうか

普通は、自分のした仕事に対して先輩や同業者など他人からまずいことを指摘されたり、いいところをほめられたりして、学んでいく。

しかし作家業の場合、投稿サイト台頭以前は、新人賞を取ってデビューするまでは、自分が書いた作品の何がよくて何がよくないのか、書いている本人にはわからないことが大半だった。

プロ作家や編集者が開く講座や専門学校、大学のクリエイティブライティングコースにでも通えば直接よしあしを教えてもらうこともできる。

だが、そのような場所で勉強したとしても例えばラノベ作家に純文学の書き方を教えてもらうことは難しいし、逆もしかりである。

高校の文芸部や大学の創作サークル、あるいは各種同人活動ではどうだろうか。これはこれで、同じ作家志望数人や決して多くはない会誌の読者から言われたことがアテになるのかならないのかといえば、微妙なところである。

つまり、デビューするまでは自分がやりたい方向、向いているジャンルを、書き手自身が知る機会は意外なほど少なく、また作品を人目にさらして信頼できる評価を受ける場所自体が少ない。

本人がフィードバックを受けてレベルアップしたくても、プロとしてデビューするまでは適性にあった機会を得ること自体がむずかしかったのだ。

では、どの新人をデビューさせるかという輩出システムは適切に機能していたのだろうか。プロとして活動を続けられる作家を的確に見いだせているだろうか。

実は、新人賞を取ってデビューすることも、その後のプロ作家としての活動をなんら保証してくれるものではない。2作目、3作目が書けなくて消えていく作家、書けたものの壊滅的に売れず、徐々に企画が通らなくなり、作品が出せなくなっていく作家も少なくない。

なぜかと言えば、大半の新人賞において、選考をするのは読者そのものではないからである。

大半は、有名な作家などが最終審査を行う。選ぶ側の立場を想像してみてほしい。「賞」というのは「権威」とか「格」を与えるものであるからして、チャラい作品や賛否両論を巻き起こしそうな問題作は推しにくい。しかし実際には、重厚ではなく軽い内容でも、読み手を選ぶものであっても、おもしろいと思う人が多ければ売れる。けれど選考会では減点方式で見ると欠点がそれほどなく、格がありそうな優等生的なものが選ばれ、突出したものはあっても欠点が目立つもの、トゲのあるものは弾かれやすい。

“「大賞」より下の優秀賞や審査員特別賞のほうが売れる”としばしば言われ、それがあながち間違っていないのは、そういうことである。

もっと言ってしまえば、新人賞の選考基準は、読者の欲望(市場原理)からは乖離している。

下読みするのは作家や批評家、ライター、編集者だし、最終選考は作家先生である。

だいたいこの人たちは年に100冊は少なくとも読んでいる。しかし現実的には世の大半の人はその10分の1以下しか本を買わないし読まない。面白いと感じる部分や読むときに注目する部分に世間とのズレが生じる。

さらに言うと出版業界は東京に集中していて、選考する人間の多くも関東近郊在住者であり、その価値観に染まっている。読者は全国にいるのに、だ。

こういう「ズレ」が理由で、各社が1000万とか2000万とかコストをかけて新人賞を毎年やっているのに、売れない新人が量産されていくわけである。

商品開発をするときに実際のユーザーではなく会社のお偉いさんたちの話だけを聞いて作るようなものだ。

しかも、お偉いさんのおめがねにかなった! と思ってマーケットに出してもダメだったらすぐ引っ込めてお払い箱になる。

「だったら最初からテストマーケティングなりフィージビリティスタティしたほうがよくね?」と思っただろうか。そのとおりなのだ。

そこに現れたのが小説投稿サイトである。

■無数の読者にボコボコにされる(またはスルーされる)ことが書き手を鍛える

投稿サイトはいかにして上記のような問題を解決してくれたのか。

・大量のユーザーの行動によって、作品の評価が数字で可視化されること

・不特定多数の人間が即時・随時つけるコメントに晒されること

である。

筆者は以前、小説投稿サイト・E★エブリスタ連載の『王様ゲーム』の著者・金沢伸明氏や『カラダ探し』のウェルザード氏、またNewspicks連載の『進め! 東大ブラック企業探偵団』の書き手・大熊将八氏について担当編集者・加藤晴之氏に取材を行った。

彼らはウェブならではのスキルアップ術を話してくれたが、その内容をまとめると

・「アップしたら五分で来る」という読者からの感想や意見を元に執筆作法をマスター

・設定の矛盾の指摘その他ツッコミがあれば連載を遡って修正したり、書籍版で修正

・読者からのコメントで続きの予想を書かれたら、それに対して裏をかく展開を考案

といったところである。

ようするに、小説新人賞では作品の評価が

「賞の選考」→「本を出して市場(読者)の反応をうかがう」→「それを受けて次を考える」

という流れだったのが、投稿サイトでは「書いたらすぐに直接、読者の反応に晒される」。「ズレ」が生じない。だから投稿サイトで人気の作品の多くは、紙の本にしたり映像化してもヒット作が生まれやすいのである。

ここで言う「反応」とは、ボコボコに叩かれるとかお気に入り登録されるといったことだけではない。

大量のユーザーがそのサイトにはいるはずなのにほとんどまったく読まれずスルーされてしまう(こちらのほうが実際には多い)、ということも含めてである。

ぴくりとも反応がないのであれば、それはそれで「なんで自分の作品はウケないんだろう? なんであの作品はこんなに人気なんだろう?」と考える材料になる。

新人賞に応募しても「下読みがちゃんと読んでくれなかったから落ちたんじゃないか?」などという妄想によって自作の不出来に対して言い訳をする作家志望者が後を絶たないが、投稿サイトではそんな言い分は通用しない。否応なく現実を突きつけられ、それと向き合える書き手は伸びていく。

また、レスポンスの速さも書き手の成長にとっては重要である。

紙の本だと「週刊少年ジャンプ」のような週刊少年誌をのぞけば、そんなにすぐに読者の反応はわからないし、来たとしても直接寄せられる声の数は多くなかったりする(昔に比べればTwitterをはじめウェブでの感想の数も増えたし、拾いやすくなったものの)。

そうすると、書き手は「こういうやりかたでいいのか、わるいのか」「変えるとしたら、いったい何をどう変えていけばいいのか」を考えるのがむずかしい。担当してくれているのが良い編集者、相性のいい編集者ならば相談にも意味があるが、必ずしもそうとはかぎらない。そもそも作家側が編集者を選べないことがほとんどである。

しかし紙とは違って、ウェブでは作品を全部書ききらなくても、冒頭だけ載せてみただけでも、数百文字とか数千字ずつ何回か連載してみただけでも、実際の読者からの手ごたえがわかる。「いい感じだ」とか「こりゃダメそうだな」とわかるタイミングも早く、軌道修正しやすい――すると必然的に打席に立つ回数(企画を練って世に出す回数)自体が増える。

ビジネスでも学術の世界の研究者の指導でも、上司などから〆切を設定されたら、拙速でもいいから〆切前倒しで持ってきてどんどんフィードバックをもらう人間は伸びる、ギリギリまで持って来ないで直す回数が少ないやつは伸びない、とよく言うが、投稿サイトでは誰しもが前者の環境に置かれるのである。

さらに言うと、いくつかのサイトでは「だいたいこれくらい評価されると書籍化の声がかかる」という情報も出回っていて(審査の基準を明示しているところもある)、ゴールもわりと明確である。

利用しているユーザー層が違うため、サイトごとに人気作品のジャンルや傾向は違うから、書き手自身がいくつか読んでみて自分の書きたいものに合う/合わないということも、理解しやすい。

そんなわけで既成の出版産業のしくみよりも効率よく、投稿サイトから書き手は育っていくのである。

出版社が小説投稿サイトで人気になった作品を書籍化する、あるいは小説投稿サイト上で新人賞を行うことが増えている、そしてそこからヒット作が生まれているのは、本を出す前にウェブ上で大量のユーザーからの評価が確認できるからである。

■とはいえ、才能の有無もあれば、向き不向きもある

では、このような大きな構造変化を起こしている現代、ウェブを軸に活動する今のクリエイターに求められるものは何だろうか?

まず前提として、すべての人間が本を出せるくらい力をつける(人気になる)ことができるわけではない。

デビューして商業出版で活動を続けるためには、まず必要な才能がある。

「才能」というのは、発想力とか文章のセンスとかだけでなく、継続的に努力できるとか、自分の瑕疵を認めて他人から言われたことを取捨選択して受け容れられるとか、そういったもろもろを含んでいる。

読者のきもちや嗜好よりも自分が書きたいものをとにかく優先する人間、ひとの意見に対して「いや、でも……」と反発ばかりしている人間は、ウェブ発だろうと新人賞発だろうと、商業出版でやっていくことはむずかしいことが多い(プロになれなくてもたくさん読まれなくても、書きたいものを書ければ別にそれで幸せ、という書き手を否定するつもりはない)。

「育つ」といっても、各人によってその「伸びしろ」はまったく違う。最大限伸ばしても、商業出版でやっていくレベルに到達できない人間もいる。デビューしても売れるとはかぎらない。誰もがオリンピック選手になれるわけではないのと同様に。それが現実である。

投稿サイト特有の適性としては、評判になろうとなるまいと、しょっぱなから無数のユーザーの声や無視にさらされることになるので、それに耐えられるかどうか、ということがある。

「クリエイター=繊細」というイメージを持っているひともいるだろうが、ウェブに作品を投稿する人間はタフでないとやっていけない。

否定、批判されると極端にめげたり、長時間怒り狂ってしまったり、徹底的に反論したくなるタイプは(ブロガーとしてはそれで良いこともあるが)ウェブでの創作者には向いているとは言えない。ネットにはとにかくディスって他人を傷つけたいだけの人間もゴロゴロしているから、そういうノイズを無視できるメンタルでないと、厳しいものがある。

■ウェブで人気になった作品を本にすればいいなら、出版社の編集者なんかいらないのでは?

『バクマン。』で描かれるような、編集者(編集部)と作家のあいだで何度も何度も揉んでからデビューし、その後も誰かと組んでやっていくほうが向いている人もいる。

不特定多数の人間から言葉を選ばない感想がバンバン跳んでくるウェブの海にいきなり飛び込むのではなくて、信頼できる特定の人間と何度もやりとりして叱咤激励されて鍛えられてから(叩かれ慣れてから)マーケットに飛び込んだほうがいい作家もいる。

あるいは、たくさんの人から意見を聞くと、何がやりたいのか、自分の作品はどうありたいのかがブレやすいひとも、投稿サイト向きではない。

というのも、読者ひとりひとりに「こういうものが読みたい」「こういうものが最高」という価値観があるからだ。無数の読者がそれぞれの価値観から言うことを、なんでもかんでも取り込むことはできない。

作品をよくしていくために感想の取捨選択を冷静にすることができない人間には、ネットは向いていない。

そんなわけで、編集者が新人作家を発掘したり育成することが不要になるわけではない。そちらのしくみのほうが向いている人が、ゼロになることはない。ウェブ発の書き手が、出版社の編集者が付くことでますます伸びたケースだっていくらでもある。

「ハズレ」の編集者にあたると書き手が潰れることもあるし、たとえ敏腕編集者であっても書き手によって相性が合う/合わないもあるから、やはりこちらも一長一短である。

ともあれ「ウェブ発」「投稿サイト発」にもまだまだいろいろな問題があるにせよ、編集者や新人賞なんかなくてもめきめき伸びるやつは伸びる、そして本にしたらベストセラーになることまである――というしくみができたことが画期なのだ。

成長欲求を持っていない人間はいない。

しかし、ひとが成長できるかどうかは環境の作用も大きく、その環境にふさわしいメンタルであるかどうかも大きい。

そして「環境」はひとつしかないものではなく、選ぶことも、つくることもできる。

つい、昔からある制度、見慣れたものが自明で最善のものに見え、選択肢を無意識に絞ってしまうが――環境をつくるのも(つくることができるのも)人間である。

本稿が世の中に無数にある、育つ/育てる問題を考えるきっかけになれば幸いである。