Yahoo!ニュース

視覚文化研究の現在と、映像批評の受容/需要

飯田一史ライター
(写真:アフロ)

筆者も参加した、ジブリからゲーム実況までを扱った映像論集『ビジュアル・コミュニケーション 動画時代の文化批評』(南雲堂)刊行にあたり共著者全員により、「映像/視覚文化の現在」をテーマに様々な角度から共同討議を行いました。

共同討議(8)

飯田一史×海老原豊×佐々木友輔×竹本竜都×冨塚亮平×

藤井義允×藤田直哉×宮本道人×渡邉大輔

※(1)はこちら

■視覚文化研究の現在と、映像批評の受容/需要

飯田

ここまでは映像自体に関する論点を扱ってきましたが、このへんで、視覚文化の研究や批評という「語り方」の現況も確認しておきましょう。

渡邉

「映画」や「映像」に関するアプローチは、ここ数年で本当に大きく変わってきたなという実感を持っています。僕が二〇一二年末に『イメージの進行形』を出したころは、北野圭介さんの『映像論序説』みたいに「映画」ではなく「映像」あるいはもっと広い「視覚文化」に着目する専門書は、日本にはほとんどなかった。

したがって、僕も「映像圏」のような主張に説得力を持たせるために、いわゆる「ゼロ年代批評」との接続とかを前景化するという戦略を取っていたわけです。それが二〇一三年にマノヴィッチが翻訳され、トーマス・ラマールの『アニメ・マシーン』が翻訳され、一四年には石岡良治さんの『視覚文化「超」講義』が出た。最近も、「メディア考古学」を提唱しているエルキ・フータモの本が翻訳されたり、ジョナサン・クレーリーが翻訳されたり、それらの知見を導入した大久保遼さんの『映像のアルケオロジー』が刊行されたりしている。ここ数年で、映画批評や映像論という枠に収まらない視覚文化論、映像文化論の重要文献が、日本の若い研究者も含めて続々と出てきましたね。それは、さやわかさんのポップカルチャー論や三輪健太朗さんのマンガ研究など他分野とも相互に関連している。端的にいってしまえば、僕は最近、すごく仕事がやりやすくなった気がしている。

かたや、僕の世代ぐらいまではカリスマ的な影響力があった蓮實重彦に関しては、今の若い人たちは読んでいない。僕も日芸の授業で彼のマニフェスト『表層批評宣言』は扱ったりしましたが、今はちくま文庫で品切れ重版未定らしく、そもそも手に入らない。「表層批評」という考えを今の学生が手軽に知るのはムリになっているわけです。日芸の僕の教え子で、今はある国立大の大学院で映画研究をしている優秀な人がいるのですが、彼はアカデミックな映画研究の世界では蓮實がいまでは若い研究者の間であまりまともに読まれていないことにびっくりしたと言っていました。映画の具体的な細部に寄り添うという表象文化論自体が飽和状態で、それよりはカルチュラル・スタディーズみたいに社会・歴史的な背景から映画を読み解くアプローチがアメリカから来て主流になっている。

さらに言えば学生は蓮實どころか映画批評全般を「本」ではほとんど読んでいなくて、YouTubeに散発的に上がっているどこかのラジオでやった町山智浩や宇多丸の映画批評をスマホで聴いているのが現状です。

海老原

宇多丸のラジオ番組『ウィークエンド・シャッフル』の映画批評コーナーは最初にリスナーからの感想メールを読み上げて、それについて答えつつ彼の持論を展開するんですが、リスナーは宇多丸の話を聞くなかで映画の観るポイントや論じ方を内面化しているから、しっかりしたメールを送ってくるんですよね。ディシプリンが本でないとダメかというと、そんなことはない。

藤田

もう批評は、ラジオとか動画でやったほうがいいいんですかね。

海老原

ただ動画だと冗長で散漫だったりしますから、数千年の歴史がある本のほうがコンパクトではあります。この本も興味、関心を持っているリテラシーのあるひとに向けて文字でかっちりやっているわけですが、それはそれでいいのかなと。

藤田

映像的なコミュニケーションがあまりにも主流になるとネトウヨみたいなひとたちが増えるという『ネトウヨ化する日本』での議論があったけれど、そういうネガティブな可能性は確かに否定できない。でも視覚時代の新しい知性が開発されるのも期待できる。どっちにしても、対応が迫られますね。

渡邉

そちらにも対応したいと思いつつ、僕は体系立った本を書きたいし、僕の教え子にも映画批評誌の『nobody』や『映画芸術』で働いている学生もいますから、シネフィルがいなくなったわけではないと思いますが……。濱口竜介を見に行っているような若い映画ファンはどういう感じですか、冨塚さん。

冨塚

絶対数は以前より減っているのでしょうが、映画館で会って話す友人、知人の中には、いわゆるシネフィル的な趣向の人もまだまだ一定数はいるように感じます。私なんかよりよっぽど映画批評を本ベースで読みこんでいる年下の友人もいますし。

藤田

シネフィルの圧力は、確実に弱まっていますよね。立教大学スクールの作家の存在感は、一昔前よりは、良くも悪くも薄くなってきている。蓮實重彦が褒める映画も、昔はもっと難解なヨーロッパ映画とかを褒めていた印象があるんだけど、最近はリドリー・スコットの弟トニー・スコットを褒めたりしている。

渡邉

いや、蓮實さんはかなり初期から通俗的な映画も褒めていましたけどね。それこそロマンポルノやB級ノワールとか。

藤田

ただ蓮實が褒めていたようなヨーロッパ映画の上映機会が減っているのはたしかでしょう。

渡邉

それはそうですね。蓮實さんが褒めていたような映画が劇場にもかからないしネットにもない、スマホで観られない、だから影響力を持ちにくいというのも大きい。

飯田

批評や研究の対象自体が、映像としてアーカイブ化されて簡単にアクセスできる状況じゃないと、ポピュラリティを持ちえないと。

渡邉

一方でここ二、三年ぐらいではパブリックドメインになった古典の映画がどんどんネットにアップされている。それはそれでいいけれど、僕はやっぱり溝口健二の『近松物語』をスマホでは観たくはない。パブリックドメインに入っていない違法動画を含めても溝口や成瀬己喜男、小津安二郎や黒澤明がタダでネットで観られるのは本当にすごいことですけどね。今の大学生はスマホで観ているわけだから、受容経験は全然違うと思う。

佐々木

最近は見れる作品に関してはほとんどスマホで見ちゃってます。劇場かスマホか、みたいな……。

渡邉

そういう二極化はいろいろなところで起きていますよね。

飯田

批評や研究に関して言えば、マンガや映画、ゲームなどのカノンというかディシプリンがしっかりしてきたジャンルは、作品や先行研究のアーカイブ化も進んで発掘が起こったり、新しい切り口での研究が生まれているいっぽうで、ニコ動のコンテンツのように新しく出てきた俗っぽいものに関しては相変わらずなかなか扱えないですよね――まあ、ある種の風俗現象として社会学では扱えるかもしれないけれど。たとえばさいとう・たかをの自伝的漫画『いてまえ武尊』なんかを読むとわかりますが、戦後すぐのころのマンガは完全に害悪扱いで「読むとバカになる」と大人には思われていました。80年代にファミコンが出てきたころのゲームもまったく同じ扱いですね。そう考えると淫夢のように「評論? 正気ですか」と思われるようなものも、のちにはご立派な扱いを受けている可能性はゼロとは言えない。

渡邉

映画で言えば田中純一郎、マンガ研究で言えば石子順造といった、活動当時は在野でジャーナリスティックなことをやっているとみなされていたひとたちの研究が、のちに大学の学術研究の基礎文献になっていきました。淫夢動画やゲーム実況に関しては今現在ではリファーできる文献が圧倒的になく、だからこそ的確に捉える言葉を残しておく資料が必要になります。ある文化が変わったり生まれていくときには、それを捉える言葉、思考の枠組み、方程式を同時につくっていかないと文化は成熟したとは言えない。それは映像やイメージのあり方が多層化し多様化した現在に「リアルタイムで文化をフォローする」という行為であると同時に、ボカロやゲーム実況をはじめとするニコ動やYouTubeで消費されている映像も四半世紀も経てば大学で教えられるようになっているであろうことを見据えて行われるものでもあります。

藤田

この論集が先行研究・基礎文献になればいいんです。

冨塚

議論の蓄積がなされていない分野に土台を作っていくのと並行して、かつての慣習が今どう変化し、残っているのかを検証する作業も、必ずしも後ろ向きの議論ではなく重要であることも付け加えておきたいところです。たとえばD.N.ロドウィックは、The Virtual Life of Film (2007)の中で“What is Cinema?”「映画とは何か」ではなく、あえて“What was Cinema?”と過去形を用いて映画について論じています。彼は、カヴェルら初期~フィルム時代の映画理論を今あえて参照することのアクチュアリティに注目しているわけです。古いメディアに関する議論を現在の視点から読み替えていくこと、また逆に新しいメディアを古いメディアとの関係から読み替えていく作業には意義があります。

佐々木

私もひとつまた別の問題提起をしたいのですが、今日の視覚文化の影響力の大きさは、一方でその背後に「無かったこと」にされるものを大量に生み出しているということでもある。現在の欲望や需要に従って、見えないものや視覚的には美しくないとされるものが端的に無かったことにされるのは嫌だなと思っています。人間は自分自身のことをそんなによくわかっていないので、いまは必要なもののリストに加えていないものの重要性に後になってから気づくかもしれない。私の作家としての仕事は、それを見きわめて、後世に残るものの幅を少しでも広げていくことだと思っています。

揺動メディア論はまさにその一環で、手持ちカメラや手ブレ映像を専門に扱う研究者や作家はいくらでもいるだろうと思って調べてみると実は驚くほど手つかずだった。当たり前と思えるものやありふれたものほどスポンと抜けていることもあるのだなと思いました。だからこそ本当に必要だと思うことや気づいたことは、個人レベルでも積極的に発信していかなければと。

宮本

いますぐには金にならないけれど、とにかく撮っておいてアーカイブするというのは、学術上でも非常に大切ですね。特に、現実にはあるけどウェブには無いというものは山ほどある。最近始まったAHA!というプロジェクトでは、一般家庭から8ミリフィルムを集めて、持ち主に映像の撮影年代や撮影場所などを語ってもらいながら上映会をして、全部あわせてデジタルアーカイブ化するということをしているらしいです。今世の中に在る情報だけが全てじゃないということは、当たり前ですが忘れないようにしないといけませんね。

佐々木

このことは、渡邉さんが仰っていた「世界そのものが映画になりうる」という映像圏的な世界像と表裏の関係にあるのでしょうね。

飯田

勝手に撮られて「すべてが記録されている」感覚もある一方で、「見ようと思って探すと実はアーカイヴが存在しない」。佐々木さんが振っていた「カメラを向けられたくない社会」と「向けられたい社会」にも通じる話ですね。経営学者のバンカジ・ゲマワッドが「トーマス・フリードマンが『世界はグローバル化してフラット化している』とか言ってるけど全然そんなことない」と詳細な実例を挙げて指摘していましたが、今日の映像や映像研究をめぐる状況もフラット化しているように見えて意外とデコボコとしていて、だからこそやりようがあるということなんでしょうね。

■人類にとって映像とはなにか

飯田

非常に多岐にわたる論点が出てきた討議でしたが、読者のみなさまには個々人の興味関心ごとに何か持ち帰ってもらえていれば幸いです。最後に「人間はいったい映像に何を託しているのか」「人類にとって映像とはいったいなんなのか」という大きな問いかけをして終わりたいと思います。

渡邉

人間はなぜ画像を見るのか、作るのか。ヨーロッパでは啓蒙は「enlightenment」と書き、何かに光を当てることを意味しています。何かを知るとか知性を視覚の隠喩で捉えてきた。しかし映像技術や映像メディアが生まれたのは一九世紀であって、まだ二〇〇年ちょっとしか経っていません。西洋の夢が実現しだした時代が一九世紀以降だったと言えるし、その歴史は今も続いている。ただ二一世紀に映像の状況は何が大きく変わったか。ふたつある。ひとつは、切れ目がなくなった。パッケージングという意味でもそうだし、時間の持続という意味でも「ずっと続いていく」状態、流動化したダダ漏れ状態になった。

もうひとつ、デジタル/アナログという対立で言えば、活字が意味を「digit」、つまり離散的な記号によって伝える媒体だとすれば、映像はアナログです。ある画面にこめられている意味は切り分けられず、連続した量として提示されていますから。映像論として大きな影響力を持ち続けているアンドレ・バザンの「映像のアンビギュイティ」についての議論というのは、それを言っているわけですね。映像は多義的な知であり、身体的で情緒的、エモーショナルな知の受け取り方です。人間が知を身体的、情動的に受け取るようになっていることが、今の映像の変化だと思います。

僕はそのダダ漏れ状態になっている映像を、最近は、「生命」という隠喩で捉えたらおもしろいと思っている。たとえば『アーキテクチャの生態系』的な情報科学以外にも、バイオ産業や宇宙生物学的な意味で内在的に生命を捉えることができる。もちろんこれには危うさもあります。たとえばMelinda E. Cooperの『剰余としての生(Life as surplus)』では映像や今の文化を「生命論」というパースペクティブで捉えることはネオリベで保守主義的だと批判している。一見エコロジスムと親和性が高そうなバイオ産業の勃興や生命論的リアリティは、実はネオリベ的な戦略に用いられると。日本で言えば大正生命主義や大東亜共栄圏にもつながると思う。ただそれも含めて継続的に考えていきたい。

飯田

古くは吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』や『心的現象論序説』は三木成夫の解剖学に刺激を受けて考えられたものでしたよね。文化的なものの「発生論」は半面では折口信夫とかから来ていたと思うけれど、半面は生命論からだった。起源話からつなげると、『言語は身振りから進化した』をはじめ、言語の起源はジェスチャーにあるという説も根強くあります。身体を使ってビジュアルで伝えることがまずあり、それが難しい場合に代替物として言語が発達してきたのではないか、と。そういう意味では、映像がダダ漏れになりLINEスタンプをはじめビジュアルコミュニケーションが全盛になっている現代は、言語が発達する以前の、身振りでコミュニケーションをしていた状況にある意味で回帰していると言える。今日出たキャンベル神話論とルーカス/ILMの話のように、テクノロジーの発達によってアルカイックなものに還る、という見方を立てると、巨視的に人間と映像の関係がつかめるかもしれない。

海老原

飯田さんの問いとは少しずれますが、今後の映像についての予測です。映像は今後ますますコミュニケーション的になっていくと思います。何かのメッセージを伝えることはもちろんコミュニケーションなわけで、すべての映像は本来的にコミュニケーションであるといえます。が、ここでいうコミュニケーションとは、映画(館)が洗練されていくにつれて捨象されていった観客の身体性・情動性や、その場であること・その瞬間であることが取り込まれた、人間全体の動きとしてのコミュニケーションです。対応する概念はコンテンツで、コンテンツは言語的に要約が可能なもの。例えば「その映画って、どんな映画?」と言われたときに、サクっと要約できればコンテンツ的な映画、他方でなかなか要約を拒むような、それこそ『山田孝之の東京都北区赤羽』のようなだらだらしたものはコミュニケーション的な映画と、いくぶん乱暴ですがいえます。

LINEのスタンプの話も出ていますが、すでに動くスタンプ=動画も使われています。コミュニケーションの手段として映像を使い、他方で映像はどこまでもコミュニケーション的になっていく。子供の頃、母親が、辞書を引くことの重要性を、あるエピソードを交えて紹介していたことを思い出します。いわく、山奥の村で、初等教育だけうけた子供が恩師の先生と文通をしていた。辞書を引きながら時間をかけて手紙を書いたら、やがて立派な文章を書けるほどに成長した。ありがちな苦学生の話です。辞書を引いて訓練するリテラシーのほうがえらくて、映像的なコミュニケーションが悪い、なんてことを言いたいのではなく、これから発展していくだろう映像的/コミュニケーション的作法にも、またかつての苦学生が経験したようなリテラシー習得訓練が必要になるだろうな、と思うのです。

藤田

ラマチャンドランが芸術の起源について、人間を真っ暗な無響室に閉じ込めると幻覚が見えてくることから推察していましたね。情報がシャットアウトされると脳が飢えて自分で情報を作り出すんだ、と。ヘルツォークの『世界最古の洞窟壁画』では、現存する人類最古の芸術と言われている洞窟壁画を、焚火を中心として人間が動くことで作られる影と、壁画との合わさったものであると――つまり、単なる絵ではなくて、映画の萌芽的な要素もあった、総合芸術みたいなイメージとして語りなおそうとしていました。

飯田

それは中沢新一も言っていましたね。人類最古の芸術がなぜ壁画なのか。情報がまったくない暗闇に人間が閉じ込められると映像が見えてきて、それをアウトプットしたくなるからじゃないか、と。僕がよく参照する荒俣宏の『別世界通信』でも、人類はつねにもう一つの世界、ありえなかった別世界を夢見て作り出してきたことが強調されています――論集に収録した渡邉さんの宮崎駿論はまさに「失われた王道楽土」を作り出すことこそ宮崎駿がやってきたことだという話でした。今日は「撮られて残ってしまう」アーカイヴ的な側面にも着目しましたが、映像を「積極的に作り出す」ことが人々を魅了することはなくなりません。あらたに作り出された映像を追いつつ、あたらしい言論を構築していきたいと思います。ありがとうございました。

ライター

出版社にてカルチャー誌や小説の編集者を経験した後、独立。マーケティング的視点と批評的観点からウェブカルチャー、出版産業、子どもの本、マンガ等について取材&調査してわかりやすく解説・分析。単著に『いま、子どもの本が売れる理由』『マンガ雑誌は死んだ。で、どうするの?』『ウェブ小説の衝撃』など。構成を担当した本に石黒浩『アンドロイドは人間になれるか』、藤田和日郎『読者ハ読ムナ』、福原慶匡『アニメプロデューサーになろう!』、中野信子『サイコパス』他。青森県むつ市生まれ。中央大学法学部法律学科卒、グロービス経営大学院経営学修士(MBA)。息子4歳、猫2匹 ichiiida@gmail.com

飯田一史の最近の記事