映像/視覚文化におけるアクセス可能なアーカイヴと体験性の相補関係
筆者も参加した、ジブリからゲーム実況までを扱った映像論集『ビジュアル・コミュニケーション 動画時代の文化批評』(南雲堂)刊行にあたり共著者全員により、「映像/視覚文化の現在」をテーマに様々な角度から共同討議を行いました。
■アクセス可能なアーカイヴと体験性の相補関係
飯田
今も「家で誰でも観られる」ことと「わざわざ足を運ぶ」ことは並走している現象だと思います。プロレスでもアイドルでもカープ女子でも2.5次元ミュージカルでもいいんだけど、人気があるライブエンターテイメントはだいたいYouTubeに動画が上がっている。つまり、ネットの動画で誰でもいつでも入り口的な視聴体験はできる。そこで「なんかおもしろそう」とスイッチが入ると、間近で時空間を共有するためにカネを払ってライブに行くという補完関係になっている。
いわゆる「聖地巡礼」も、アニメの背景になっている景色を観にモデルになった土地に行って「画面と同じ風景がある!」とたしかめに行っている、アニメの世界に近づくためにリアルの動きが生じている。コンテンツツーリズム自体は「『ローマの休日』を追体験しにイタリアまで行っちゃう」とか昔からあったけど、最近とくに注目されているのは、入り口としての無料映像が溢れているからこそ、プラスアルファの体験性に価値を見いだすようになったという時代性なくしては考えられない。現代美術がアーカイヴ不可能なものに本質が移行しているという話も、似たような背景から生まれた現象なんじゃないかな。
渡邉
まさにその象徴的な例が、一四年に大ヒットした『アナと雪の女王』でしたね。動画サイト上に「レリゴー」関連の動画が大量にアップされ、それがフィードバック的に劇場への動員を促したという二重構造になっていた。
藤田
上映設備だとか「人と一緒に見られる」といったコミュニケーションだとか、作品以外のところに価値や金銭が発生している。ワールドカップも家で観られるのにみんなでスポーツバーに行ったり、渋谷のスクランブル交差点に溢れて街頭のプロジェクタで観たりする。それは、オタクもヤンキーも関係ないですよね。力道山の時代に回帰したみたいだけれど。
藤井
日本未来科学館で行われていたチームラボの展示(踊る!アート展と学ぶ!未来の遊園地)では、NHKの連続テレビ小説のオープニングで使われていたヤタガラスが飛ぶ映像を流していたのですが、大きいスクリーンを三分割して奥行を出して映写していた。ヤタガラスが飛ぶ映像はテレビで普通に観られるものですが、展示では三次元に投影していて、来場者はそのヤタガラスがいる空間を前後に往き来できたり、いろいろな角度から違った姿を観られるようになっていた。これも複製性と体験性が相補関係にある作品ですよね。
冨塚
注意を促しておきたいのですが、作品は作品としてあくまで価値判断しなければいけないことは変わっていない。体験に価値が置かれたからと言って作品の価値がなくなるという極端な話ではなく、どちらにも触れなければいけなくなっただけだと思います。その上で映画の例を出すと、濱口監督は四時間超の大作『親密さ』に関してオールナイト上映にこだわっているふしがあります。映画内で夜明けが非常に象徴的に扱われていることと、観客が映画を見終わって外に出ると実際に朝日が上がっていることがあいまって、観賞後に映画の内容を反芻する際の感覚が変わってくる。
僕は何回か劇場で観ていますが、オールナイト上映後の印象は鮮烈でした。
渡邉
僕もオールナイトで実際に観ましたが、すばらしい鑑賞体験でした。あれは濱口監督も絶対に意図していますよね。『親密さ』は実際に夜を徹して観て、明け方の映画館を出るところまでが「作品」になっていると思います。
冨塚
逆に白石晃士監督は視聴環境の多様化を意識していて、ニコ生を積極的に活用したり、池袋文芸坐でのオールナイト上映では、トークショーやリアルタイム・オーディオコメンタリーを行っていました。しかも、演者や監督自身がトークし、ただ実況をしてコメントを入れるのではなくて、トーク、コメンタリーいずれにおいても劇中の役柄をそのまま演じ続けることでリアリティを撹乱するという複雑さが付加されていました。
渡邉
ライブにしろパッケージで観るにしろリアリティの層が複数化している、少し陳腐化された言葉で言えば、多重現実化、AR化している。
■映像と社会/政治
藤田
話題を変えて映像と政治の関係について話をしませんか。もう一回ISILの映像について議論したいんです。あれは「ハリウッド映画的」ではないという話でしたけど、『マッドマックス』や『北斗の拳』みたいに見えません?
飯田
それは背景が荒野っていうだけでしょ(笑)。
藤田
他にも、街とか服、旗や変な改造車のセンスとかあの「ウヒャー」っていう感じ。アメリカのゲームでは核戦争後の世界でモヒカン族みたいなのがはびこるジャンクな世界のものがあるけど、ああいうのとすごく似ている。街が本当にわざとらしい。それが『北斗の拳』や『マッドマックス』の普遍性なのか、あいつらが西洋のサブカルチャーの影響を受けちゃってるのかがちょっと分からない。
渡邉
どっちもでしょう。
藤田
彼らの映像を観てイライラしたのは、純粋イスラム国的な映像文法を発明していないことです。なんで西洋のものを輸入して使うのか。インターネットだってそう。ソ連でエイゼンシュテインが映画の技法を開発したように、イスラム国のイデオロギーを反映した映画理論家と作家が登場しなければいけないと思う。そこまで徹底性しないくせに、純粋イスラム原理主義ぶって、外国のスポーツとか排斥するのが、なんか矛盾している感じがする。
渡邉
いや、でも別に彼らは映像作家じゃないから(笑)。
海老原
テロリストですからね。一説によれば、欧米メディアで働いたことがある人間、もっといえば映像技術の訓練を受けた人間が、国を捨ててISILに行っている。全世界的にみても、マスメディアを取り仕切っているのはほぼ欧米系という状態で、メディアをハッキングしようとするならば、欧米風の加工・演出を加えたコンテンツを流通させるのは、やはり効果的なんでしょう。
飯田
藤田君の発言は非常に不快なものとして受けとる人もいるでしょうが、言わんとすることもわかりますよ。未来派しかりジガ・ヴェルトフ集団しかり足立正生しかり、政治思想と芸術表現が渾然一体となって先鋭的なものが生まれた例は歴史を見ればいくつもある。しかしISILは今のところはそうではない――というより二一世紀が「もはやそういう時代ではない」のかもしれないけれど。
佐々木
プロパガンダはそもそも「プロパガンダだ」と気付かれたら効力が激減するものだと思っていて、そういう意味ではISILの演出された映像は意図が透けすぎているように見えます。むしろ同時期に少し話題になった「ハーデス君」問題のほうがISILのイメージ戦略として恐ろしかった。ISILの自爆要員ハーデス君がツイッターにアカウントを作って、日本語翻訳ソフトを使ってがんばって日本人とコミュニケーションしています、みたいな話がまとめサイトで感動物語的に紹介されたんですね。そのアカウントが拙い日本語でツイートするのに対して、日本人たちが上から目線で「ハーデス君、きみのやっていることはね……」みたいな感じで話しかけていたんだけど、どうやらハーデス君は架空の人物で、ISILのイメージアップのためのプロパガンダだったらしい。もしそれを指摘する人がいなかったら、見事にプロパガンダの成功例になっていたかもしれません。
ウェブ上のアイコン画像やテキストを通して見る「視覚文化」、ビジュアルコミュニケーションの一環として興味深くも恐ろしい事例でした。映画的な演出への警戒心は多くの人が持っているけれど、こういったまだジャンル化されていない、先例の少ない視覚表現にはいとも簡単に引っかかってしまう。
宮本
日本人人質殺害事件に関しては、あれはプロパガンダというより、日本に恐怖を与えるための映像戦略だと思いますので、成功云々はおかしいと思います。それに実際イスラーム国はプロパガンダに成功しているから、こうも勢力を増しているんだと思いますけれど。というより、普通に考えれば人が殺されている吐き気のするような出来事なのに、こうやって他の映像群と比較して議論し、相手の側の視点に立って「こうすればもっと効果的になるのに」と考えていること自体が、相手の思う壺です。
もちろん相手の立場を考えることは必要だとは思いますが、テロリストに利するような示唆を言ってしまうのはおかしい。あの映像は作品ではなく、地続きでない離れた土地の人間をコントロールする心理兵器なのだから、それを論じるということは兵器を扱うような意識を持たないといけません。先例の少ない視覚表現といえば、ISILの人質映像をどうでもいいものとコラージュした画像を日本のTwitterユーザーがアップロードしまくった「クソコラグランプリ」も、良くない武器の一種だと思います。ツイッター民としては、自分たちはISILの映像の与える恐怖に屈していないという意思表示のつもりでやっているのかもしれませんが、あれはISILの映像を勝手に自分のストーリーに当てはめる行為なわけです。
レベルは全然違いますが、相手から主体性を奪った画像を世界に発信して辱めるという意味ではISILが日本人人質にやっていることと同じですし、シャルリー・エブドが勝手にムハンマドを使ったのもある意味同じこと。ISILは圧倒的に悪ですが、だからといって同じようなことをこちらがやるのもどうかと思いました。
藤田
クソコラを使って「日本人にはお前らに同朋意識なんかない」と理解させる、意味不明感を与えて困惑させる現象が起こったのは、なんとなくだけど淫夢と似ているように僕には見えた。海外メディアからはPhotoshop Warと言われたけど、悪ノリのエネルギーが政治的有効性すら持ってきてしまうような状況なのかもしれない。
フランスではクソコラに対して「イスラームの偶像崇拝禁止を茶化して一二人死んだシャルリー・エブドと同じことを日本人はやっている」と言われていて、言論の自由を守るための戦いだと思われている。当人たちは、そんな意識あるのやら、ないのやら。なかったとしても、集合的な無意識が生み出した「効果」は、そう解釈できるものだった。
海老原
東日本大震災の直後、ACの「ぽぽぽぽ~ん」CMが大量に流れましたよね。ネットでは「スーパーありがとウサギ」とか作って遊んでいたじゃないですか。ショックを受けたからこそ、深刻なムードだからこそ、あれをやったのかなという気がする。今回も似た心性が働いているのではないでしょうか。アメリカ人もクソコラやっていたようですし。
藤田
茶化すことで非現実化させるということですよね。
渡邉
ただ、僕はポリティカル・コレクトネスも関係なくすべての画像をネタ的なコミュニケーションに使うというアイロニカルな態度は、日本特有なものだと思う。フランスやアメリカであれが驚かれている記事を見ると、フランス人が「Je suis Charlieと同じだ」と言っているのが典型で、政治的なニュアンスを読み取っている。だけど日本でクソコラを作っている人は単にネタとしてやっているだけでしょう。
海老原
アメリカは戦争中ですからね。イラク、アフガニスタンからの帰還兵がまわりにたくさんいて、『アメリカン・スナイパー』よろしく自殺者やトラウマを抱えているひと、足や腕を失ったひとたちが街中にいる。武装集団に拉致された人もいるはずです。そういうなかでのクソコラはそれなりの覚悟を持ってやると思う。
藤田
イスラム国クソコラグランプリや淫夢のやっていることは、本来のサブカルチャー、アンダーグラウンドカルチャーのやばい部分を結集した何かという感じがします。くだらなくて、バカバカしくて、無意味で。フラッシュ文化、MAD文化の、貴重な生き残り。
飯田
言われてみれば六〇年代のフーテンやヒッピーにあったような汚さといかがわしさがある気がする。PCとコンプライアンスに配慮し続けた結果、お行儀がいいもの、道徳的に問題ないもの以外は表通りに出にくい世の中になっているからね。ああいう「無意味なものをおもしろがる」「やばいものをおもしろがる」感性は、テレビや雑誌のようなメディアからはいつの間にかなくなってきていた気はする。
藤田
淫夢にはその失われた匂いが残っているんです。あんなことをやっても誰も儲かったりしていない。せいぜいウケておしまい。つまりロクに現世的利益を得ていないのに続いている、すごい純粋な文化だと思う。あんなに下品なのに、作りつづける欲望だけは純粋。しかも淫夢発祥だと知らずにみんなネットで「微レ存」とか「あっ(察し)」とか使うようにまでしてしまった。あれは柳田國男が民俗学の研究対象にしたような、常民が口承の連鎖で少しずつかたちを変えながら伝播させてきた物語みたいなもの、現代日本のネットが生み出した無意識的な『遠野物語』が淫夢なんじゃないか。
竹本
淫夢には「遠野」というキャラがいて、実は『遠野物語』も風評被害を受けていたりするんですが(笑)、それはともかく淫夢のひとつの傾向として、アングラでありながら拡散を指向するという点があって、無意味だったり、くだらないものであるがゆえにもっと広まるべきだという、いわば「無価値の共有」という価値観があるんじゃないかという。現世的利益に関しては、いわゆる嫌儲のような(特にCGMへの)タダ乗りを許さない感覚もあるとはおもいますが。
■ISILの「編集」志向と、日本の政治放送の「無編集」志向
飯田
もう少し海外と日本の違いを深掘りしてみたい。ISILの映像は編集されていることが多い、という話でしたが、日本では政治と映像に関して2000年代後半以降、何が起こったか。
ニコ生で橋下徹や小沢一郎などが、とにかく記者会見や政見放送をノーカットで流すようになった。彼らの言い分は「既成のマスメディアは自分たちにとって都合よく編集して報じるけれど、われわれは全部流す。隠しだてしないし、これで誤解の生じようもない」という方法論を取ってきた。つまり「リアリティは無編集に宿る」というのが、日本の政治家たちが主張してきたことで、それとISIL的な編集による操作は逆の方向にある。人質になった後藤健二さんが殺されたのはファクトだけど、いつどうやって死んだかは情報が編集されているからわからない。
藤田
日本のネット民はマスコミに対して不信感があって、ネトウヨが典型だけど、在特会の動画もデモの映像を無編集で流しつづけている。あの無編集なのっぺり感によるリアリティの担保は、ネット右翼の心情や感性に影響しているのは、間違いない。
渡邉
批評家の村上裕一さんも『ネトウヨ化する日本』で書いていましたね。今のネトウヨは思想や言葉よりも映像を見てビンビン反応して情緒的に政治にコミットしている、と。カール・シュミットの「喝采」を思い起こさせますが、ISILも手法は違えど情動政治であることは同じです。ちなみに、編集志向と垂れ流し志向の二極化の話は現代の映画でも見られる現象ですね。例えば、近年、急速に台頭しているアジア圏の映画でも、ホン・サンスみたいに、時間軸をバラバラにして複雑な構成を作る映画もあれば、一方で、ワン・ビンやラヴ・ディアスのようにデジタルカメラの長回しを駆使して十時間くらいの映画を撮る作家もいる。この対比は、昨今のネット動画の傾向と完全にリンクしていると思います。
藤井
日本のメディアリテラシー教育では「マスコミは信じちゃいけない。編集されているから、そこには何かしらの意図があるんだよ」と学校でも教えることになっているので「生放送垂れ流しが真実だ」というスタンスは方向的には説得力を持ちやすいのかなとは思います。
飯田
そのわりには「マスメディアの情報を信頼しているか」という調査では、日本は先進国ではトップで「信じている」割合が多いんだけどね。それはさておき、じゃあISILの宣伝手法になぜリアリティを感じるかというと「人が死んだ」という刺激が強い情報によって担保されている。
海老原
「首がポン」とか「燃えて、熱い」というのが現前したことによる衝撃ですよね。首を斬るシーンを無編集で流されても、やはり暴れたり血が出たり、言葉を選ばない言い方をすれば「見苦しい」というか文字通り「見るに堪えない」というか、ショックすぎる。だからこそ流通しやすいものをパッケージにしたんだと思う。
飯田
たしか池内恵が『イスラーム国の衝撃』で言っていたと思うけど、ISILは首を切り落とすような決定的なシーンはわざとはしょっていて、ニュースで編集しやすいように「流せるレベルの過激さにしている」と。ウェブ上でもシェアしたり転載しても垢BANされないていどの過激さを狙っているとは思う。だけどそれにしたって三分や一五秒に編集したバージョンと無編集バージョンの二パターンを用意してもいいと思うのに、編集されているバージョンしか流さない。あれは「情報操作しました」「こちらにはまだ切ってないカードがあるぞ」感を演出するためのもので、「無編集だから裏はない。実直でオープンです」というスタンスと表裏だよね。
藤田
僕らの前の本は『ポストヒューマニティーズ 伊藤計劃以後のSF』というタイトルでしたが、伊藤計劃は生前、映像関係の会社のWEBの部門で仕事をしていたんですよ。先進国と後進国というか、遠い国でひとが死にまくっている戦争の映像がWEBから目に飛び込んでくるいっぽうで、日本では過剰に生命を配慮しあうのっぺりとした空気がある。そのギャップに悩んで『虐殺器官』と『ハーモニー』を書いたという側面があるのではないか。この説は『蘇る伊藤計劃』という本に寄稿した論で検討しました。ISILの映像を見て、伊藤計劃の観ていたものを、現代日本の多くの人が観て、考えなくてはいけないような状況になったな、と思いました。彼の問題意識が、まだ有効であり続けているメディア環境に、ぼくらが生きている。編集で言えば、アルジャジーラが、内戦が起きているところで長回しでずっと延々ネットで流していて、あっちのほうがISILの編集された映像よりも僕はリアリティを感じた。
海老原
浅間山荘事件や9・11、3・11直後の防犯カメラの映像や自衛隊の空撮の映像に感じるリアリティはそういうものですよね。あるいは全然ジャンルは違うけどTVのバラエティ番組の『お試しかっ!』や『帰れま10!』も、「今、深夜何時で撮影から何時間」とか、ボーッとした風景とかをひたすら流し続けることで「しんどさ」みたいなナマのリアリティを見せようとしている。もちろん実際には編集して1時間とか2時間のパッケージにしているんだけど、ひたすら長時間化することが目的になっている。あまりにも様式化されて飽きられたから『お試しかっ!』も終わっちゃうんですけど。
佐々木
長回しのリアリズム信仰は映画にしろ動画にしろ生きている気がします。
藤田
ハプニング待ちですよね。ダウンタウンが年末にやっている「笑ってはいけない24時間」シリーズとか、『水曜どうでしょう』のサイコロの旅も、長時間拘束されるなかでひどい目にあったりして、そこからいろいろな「笑い」の「神が下りてくる」ことと、少し似ている気がします。
■長尺化はなぜ起こるのか
飯田
海老原さんから出た話は「無編集垂れ流しに宿るリアリティ」とはまた別の軸の、人間に長時間張り付くことで起こる奇跡を待って全部撮るという発想ですよね。東浩紀が、自分が経営しているゲンロンカフェで行われるトークは普通のイベントと違って二時間くらいで切り上げるのではなくて登壇者が続けたいと思えば何時間でも続けられることが大事で、ムダに長くなって集中力が切れてきてとんでもないことを言い出すのがおもしろいんだ、それが映像として全部アーカイブされていることが貴重なことなんだと言っていたけど、これも同じ考えだと思います。
渡邉
身体は物質だから、二時間も三時間もずっと話をしていると飽きてくる。はじめは理性で話をしているけれど、疲れてくるとその人の身体性や情動がリアルに浮かびだしてくる、本音が漏れてくるみたいな話ですよね。最終的な決着点を付けるものは演者や視聴者の肉体的な性質だと。それは「理性や感性よりももっと原始的な情動や生理的身体に着目して映像論を組み立てるべきだ」という話ともつながってくる。
藤田
東浩紀が批評を動画のフォーマットに乗せているのは、字の批評を読まないであろう未来の人間たちを想定している可能性がありますよね。書き言葉から動画に批評を転換している。うすら寒い未来像だけれど、その世界に人文知や批評を生き残らせようとする鬼気迫る意志には、感じ入るところがあります。
飯田
岡田斗司夫も「まとまった著作なんか書かなくていい。トークスキルがこれからの世の中のすべてだ」みたいなことを言っていたけど、ネットに愛人とのキス画像が流出して以降の惨状というか、現代の視覚文化状況ならではの炎上のしかたでデタラメぶりが明らかになった今となっては「口がうまいだけではやっていけない」と言わざるをえない。
動画ウケしないといけないからしゃべりのスキルは必要だ、現代のソクラテスをめざすべきだ、というのは基本的には間違っていないと思うけど、今はその場その場でうまいこと言っても、あとでアーカイヴを引っ張り出されてロジックが検証されちゃうから、古代ギリシアとは事情が違うとは思う。とはいえリニアに前から順番に読んでいくとか、全体像を把握することを前提としていないメディアが増えている昨今、アリストテレスや廣松渉みたいに超体系的に言論を構築しようというタイプの言論人はなかなか表舞台には出てきにくいという印象はあります。
藤田
老人がよく言うように、若者はきっちりした思考ができない、思考が断片化していて、理性ではなく情動で動くようになっとるんじゃなかろうか、って。
海老原
って言う老人のほうが情動的だったりするんだけどね。
冨塚
話を戻しますが、「長回しのリアリズム」とか「奇跡を待つ」と関連しつつも、少し異なった軸から長尺化問題を捉えられる作品もあります。たとえば最近では先ほど話題にのぼった『山田孝之の東京都北区赤羽』などもそうですが、ドキュメンタリー要素を入れたフィクション作品は、しばしば尺が長くなってしまう傾向がある。『北区赤羽』はもともと二時間ぐらいの尺で映画化するはずが、撮ってみたら「縮めないほうがおもしろい」ということで分割してテレビドラマで放送したそうです。ある人物の魅力や「場」の雰囲気などを作品に反映させようとすると、現実世界は綺麗に起承転結で展開するものではないため「どこで区切って終わりにするのか」が難しくなってくる。
かつてジョン・カサヴェテスが近しい友人達と撮影した『フェイシズ』や『ハズバンズ』はいずれも当初八時間を越える尺があった、というのは有名な逸話ですが、濱口監督の作品にしても、近年のドキュメンタリー要素のある作品については、『親密さ』が四時間超、『東北記録映画三部作』は長編四本分、公開予定の最新作『ハッピーアワー』も五時間超と、明らかに長尺化の傾向がみられます。先に出た「完成した作品」の輪郭がぼやけているという話とも関連しますが、何かゴールを設定してカチッと区切ることの難しさが、長尺の映像を要請しているのかもしれません。