Yahoo!ニュース

『マイファミリー』の犯人は誰でもよかった 誘拐ドラマに託された本当の意味

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:つのだよしお/アフロ)

『マイファミリー』というタイトルに託された意味

ドラマ『マイファミリー』は最終回もスリリングな展開を見せ、意外な犯人が明らかになった。

(以下、ドラマ内容ネタバレしています)

最終話で本当のワルは誰なのかが明かされた。

「真犯人は誰か」で盛り上がったドラマである。

ただこのドラマの狙いはそこにはなかったようにおもう。

それはタイトルが『マイファミリー』だったところに表れている。

本筋はタイトルどおりの「家族」の物語だったのではないか。

再生できる家族とできない家族を描いたドラマ

インターネット上では途中から、犯人は誰かの推理でけっこう盛り上がっていた。

私はこの人が怪しいとおもう、という話題は広げやすい。

たぶんそこもドラマの狙いだったのだろう。

表向きは、真犯人を推理することで盛り上がれるようにも作る。

その実「家族の再生物語」を描く。

再生できる家族と、できない家族が現れ、その差が示されていた。

実際のところ、私個人は「真犯人は誰か」はわりとどうでもよかった。

ドラマ自身がそういうメッセージを発しているように感じていた。

「意外な真犯人」ドラマの限界

私が、真犯人は誰でもいいとおもうのは、このところ「最終話に意外な真犯人が判明するドラマ」が流行して、いくつかのパターンに慣れてきてしまったことにもある。

「意外な真犯人もの」を連続ドラマで展開するかぎりは、最後まで明かされない事実がつきまとう。

「それまでの映像から丁寧に推察すれば真犯人は必ずわかります」とは作られない。

今回も、真犯人が判明してからもう一度全話見直してみたが、途中で「どう見ても捜査一課長が犯人である」とわかるようには作られてなかった。

伏線と謎解きでは別の映像が使われる

最終話で明らかにされたのは、たとえば一課長が「タブレット」という言葉にだけ反応したシーン、阿久津美咲ちゃんが一課長の顔を見たときに驚いたシーンなどであろう。

ただ、どちらも最終話で流れた映像と、それぞれのストーリー上のシーン(5話の21分あたり、9話の29分あたり)の映像は違っている。

つまり伏線の映像と、謎解き用の映像は別に撮られているのだ。

私はドラマだからべつだんそれでかまわないとおもうのだが、ミステリの法則から見ればちょっとルール破りかもしれない。

伏線シーンはわかりにくく、謎解きシーンではわかりやすい

阿久津美咲ちゃんは一課長と出会ったとき、5話では最初目を伏せており、彼が背を向けてから訝しげな視線を投げかけているだけだった。

10話の謎解きのシーンでは顔を見たとたんに大きく驚いている。

5話でこの映像が使われていれば、一課長犯人説はもっと強くなっていただろう。

「タブレット……」と呟いたシーンでは、本編9話では葛城刑事(玉木宏)は一課長が言葉を発しているときから彼を見つめているが、謎解きシーンでは発言が終わってから視線を動かして、あらためて一課長に注目したように見ている。

伏線シーンはわかりにくく、謎解きシーンではわかりやすく撮られているのだ。

まあ、ドラマなんだから、これでいいのだろう。

「謎解き本格ミステリドラマ」と銘打っていないのだから、些末なことだと私はおもっている。(本格ミステリファンは許さない気もするけど)

『半沢直樹』以来のTBS日曜劇場に期待していること

『マイファミリー』は第1話からして「謎解きドラマ」には見えなかった。

最初、家族にほぼ関心を持っていなかった主人公の鳴沢温人(二宮和也)が、娘の誘拐をきっかけに、妻の未知留(多部未華子)との関係を修復していく姿が1話で描かれていた。

「事件をきっかけにした家族の修復」を大きく前面に出しているドラマであった。

日曜9時のこの枠のドラマに期待していることは、「溜飲を下げさせてくれること」である。

つまり、途中モヤモヤするとして、最後にはスッキリさせてくれる、という期待だ。

『半沢直樹』がもっともわかりやすい例である。

『マイファミリー』の主人公は何に耐え、何に打ち克とうとしていたのだろうか。

『マイファミリー』が打ち克とうとしていたもの

主人公を見舞う事態は「理不尽な誘拐事件」である。

それは、主人公の鳴沢温人(二宮和也)が家族ときちんと向き合っていないから、起こった。

そこから主人公は生き方をあらため、仕事だけではなく(ときには仕事以上に)、家族も大切にしないといけないと考えるようになった。

そして妻の未知留(多部未華子)との信頼を取りもどし、夫婦で強力なタッグを組む。

それを力として、理不尽な事態に立ち向かい、解決までその歩みをゆるめなかった。

主人公の最終目標は(つまり視聴者が願うことでもある)「自分が間違っていないことを世界に示すこと」であった。

そのためには「真犯人が彼でないことを証明すること」が大事になる。

真犯人を突き止めることは手段でしかない

ここがポイントだ。

「真犯人が誰かをつきとめる」は最終目的ではなく、「自分が間違っていないこと」をみんなに広く見せるための手段でしかないのだ。

「真犯人を明らかにし、罪を暴き、糾弾すること」が目的ではない。

彼は金田一少年ではないのだ。

真犯人は誰でもよかったと言えるわけ

真犯人は、彼の家族や仲間でなければ、それでいい。

(家族や仲間が犯人であるなら、彼が正しかったと言い切れない可能性が出てくる)

言い方を換えれば、真犯人は誰でもよかった、と言える。

これは再三、メッセージとして発せられていたとおもう。

私はそうおもって見ていた。

主人公の身内や仲間でなければ誰でもいい

7話の最後で「最初の誘拐犯」は友人の東堂(濱田岳)だとわかるが、それ以降の誘拐は彼の犯行ではないこともわかる。

別に真犯人がいる。

9話まで進むと、それが主人公の身内や仲間でないことも、だいたい明らかになった。

つまり、最終話で捕まるのは、誰であるにしろ、主人公の身内や近しい人ではないと暗示されていたのだ。

それで安心した。

一歩進めて言うなら、身内や仲間の裏切りでないなら、それでもう十分なのである。

つまり犯人は誰でもいいと言える。そこは大事なことではないからだ。

それまで出てこなかった警官が犯人でもいい

警察内部の人間が犯人だというのなら、それは捜査一課長(サンドウィッチマン富澤)でなくても、新人の刑事梅木(那須雄登)、女性刑事鷲尾(山田キヌヲ)でも刑事部長五嶋(井上肇)、何ならそれまで出てこなかった警官でもべつだん誰でもよかったのだ。

さすがに葛城(玉木宏)は仲間に近い感覚だったので、それさえ避けてもらえれば誰でもよかった。

主人公と密接な関係にないなら、それでいいのだ。

なぜ「心春」ちゃんの行方に疑問が殺到したのか

ただ「真犯人が誰かで盛り上がる」ミスリードは最後まで解消されなかった。

ドラマ放送後、東堂(濱田岳)の娘「心春ちゃん」はどうなったのかという疑問がトレンドになっていたのがそれだ。

「真犯人究明ドラマ」だとおもって見ていると、真犯人が判明して「心春ちゃん」が見つかり救い出すことが最終目的に見えてしまうからだ。

「心春ちゃん」が死んでいると、そのラインでは解決していないようにおもえてしまう。

その死が明示されなかったからわからない人が多かったのではなく、ミスリードで脇道を進み、おもっていたゴールにたどり着かないから理解できない人が多出した、そういうことだったのではないだろうか。

ダークサイドとライトサイドの人間の峻烈な区別

東堂は、自分の娘のためとはいえ、最初の誘拐犯であり、主人公一家への暴力を加えた当人である。

主人公サイドの人間ではなかった。

ライトサイドではなくダークサイドの人間だったとされたのだ。

このあたりは正邪の判断が厳しい。峻烈である。

彼が犯罪を起こした心情は理解できるのだが、でもそのポイントは譲られなかった。

その部分では、かなりハードなドラマであった。

もう一人の仲間、三輪(賀来賢人)の家族は再生に向かっている。彼らの再生物語でもあった。

でも、東堂(濱田岳)の家族の再会はならなかった。ここにはある意味、ライトサイドとダークサイドの線引きが明確にあった。

犯人がお笑い芸人であった理由

犯人はほんとうに誰でもよかったのだろう。

お笑い芸人がその役を担わされていたことであらためてそうおもう。

サンドウィッチマン富澤は、真犯人だとわかった瞬間の表情だけは凄みがあった。それで十分ではないだろうか。

「真犯人探しドラマ」の無意味さを示していた可能性

このドラマは、真犯人探しで盛り上がりつつ、その実、「真犯人探しはドラマにとって無意味」であることも痛烈に示していた。

つまり、アンチ「真犯人もの」だったと言えないだろうか。

「最終話でわかる真犯人は誰かで盛り上がるドラマ」を意図的に模倣して、わざと肩すかしを食らわせたようにも見える。

そうだとするとなかなかしたたかなドラマである。

大人だって成長できることを示した素敵なドラマ

ドラマの本筋は主人公・鳴沢温人の成長物語であった。

最初は、仕事では成功しているが家族を大事にしていない男であり、そのときは「弱い存在」として描かれていた。

誘拐事件を通して、妻とも子供とも強い絆を取りもどし、とても強い存在に変わっていた。

家族再生の物語であり、また一人の男の成長の話であった。

大人だって成長できると示してくれた。

最終話、犯行のきっかけは「家族にバレるのが怖かったから」と犯人が言っていると教えられ、鳴沢温人は「怖がる存在じゃないんだよ、家族は……」と呟いていた。

この一言がこのドラマのテーマだったように見えた。

家族を大事にする男こそ強い、というテーマを貫き、そのポイントにおいて素敵なドラマであった。

犯人探しものとして見ていたら、いやはや、たぶん物足りなかっただろうな、ともおもう。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

堀井憲一郎の最近の記事