「桂二葉の大賞受賞」という歴史的瞬間

令和三年のNHK新人落語大賞は、桂二葉が獲得した。

女性の落語家、初めての受賞である。

歴史的な瞬間と言っていい。

NHK新人落語大賞は、若手の落語家が競うコンテストである。

漫才やコントの若手コンテストほどの注目は浴びていないようだが、落語界では大事な大会である。

何度か仕様が変わり、大会名も少し変わっていたりするが、五十年近く続く伝統の「新人落語家の登竜門」である。

そのコンテストで初めて女性の落語家が大賞を受賞したのだ。

日本落語史上、画期的な出来事である。

目の前の客を笑わせようという意志がもっとも強かった

桂二葉、かつらによう、と読む。「京の噺家・桂米二」の門下である。

芸歴11年目、三十代半ばの落語家で、背がひょろっと高い印象があり、とにかく声が甲高い。その甲高い声と叩き込むようなスピード感で聞いているものを不思議な世界へ巻き込んでいく。

彼女はとにかく「目の前にいる客をとにかく笑わせるのだ」という意志が強かった。

もう一人の女性出場者・林家つる子もまた同じ気迫を感じた。

女性演者のほうが、より「目の前の客に受けたい」というおもいを抱いているように感じた。

何かが変わってきているのかもしれない。

大谷翔平とならぶ「満場一致」での受賞

優勝した桂二葉は最後の出場者であり、聞いているほうがやや疲れてきたときに、まっすぐ熱気をもってツッコんでくる芸を繰り出し、客も審査員も、みんなきれいに同じように揺さぶられた。

「満場一致」での桂二葉の優勝となった。

審査員全員が桂二葉に満点をつけたのだ。満場一致は珍しい。

今年2021年でいえばエンゼルスの大谷選手のMVPと、キングオブコントの空気階段と同じである。(空気階段は満点ではないが、史上最高得点だった)。

文句なしの優勝、文句なしの選出である。

令和三年は圧倒的に桂二葉だった。

「喜六」という人物が実在するならこうなのかもしれない

桂二葉の演じぶりは見事であった。

とくにボケ役の喜六(東京方での与太郎)が見事で、もし喜六というやつが実在するならこんな男なのだろうとおもわせる素敵なものだった。

女性演者の場合、声を甲高く張っていくと、それで「若い少年が演じているように見える」ということがある。それで「女性が男性の落語を演じている無理さ」を帳消しにしていくという方向があるのだが、桂二葉の魅力はそれとは別のところにあった。

彼女のスピードと熱気によって「喜六」という人物を、慌て者でせっかちな人物として、リアルな存在に仕立てあげていたのだ。それで客を巻き込み、演者の性別など気にさせなかった。

喜六に取り憑かれているようであり、逆に桂二葉が喜六に取り憑いているようでもあった。

それでいて、落ち着いた大人たち(甚兵衛さん、お坊さん)はゆっくりめの喋りで聞かせ、喜六との落差が明白で、その緩急が強く笑いを呼び込む。

「テンポのいい演じ分け」が見事であった。

古来、落語はずっと「男性のもの」であった

女性落語家の受賞が画期的だと言う理由は、「落語」というものは、もともと男性のものとして伝えられていたからである。

徳川時代の中期にその型が作り出され、二百年を越えて「プロ落語家集団の共有財産」として伝えられてきた。

その作り手も伝え手も、ずっとみんな男だった。

「落語」は男性のものであった。いまでも多分にそうである。

男性が演じることをもとに、いろんな演出が工夫されている。

落語の中に女性も登場するが、それは男性から見た女性像であるし、その演じ方も「男性がやって女性のように見える型」として伝えられている。

これを女性落語家がそのまま演じると、やはり少し変なのだ。

誇張があったり過剰さが奇妙に見えたりする。

女性がメインの落語を女性落語家が演じても、それがべつに魅力とはならない。説得力が生まれるわけではない。かえって逆だったりする。

時に女性演者本人が持っている「リアルな色気」と、演出で考え出された色気がバッティングして、かなり奇妙なものが現出してしまうのだ。

女性演者は、常に自分の色気をどう見せるかを強く意識しておかないと、客をかなり混乱させてしまう。

現在の女性落語家は50人ほど

二百年を越えて、男性だけが演じる芸として落語は伝わってきた。

女性の演者が現れたのは二十世紀の末ころからであり、二十一世紀になってやっとまとまった演者数になった。現在50人ほどで、それでも全体の6%ほどにしかならない。

でも数がまとまってきたことによって、やっと女性演者がどう演じればいいのかという問題がクリアになってきている。

いままさに、それぞれの演者がそれぞれに工夫している最中である。

女性落語家は必ず何かを変えないと落語が演じられない

女性が落語を演じるときは、何かを変えないといけない。

ひとつは、自分が男になりきること。つまり見た目と印象を変える方法がある。

二つ目は、登場人物の男を女に変えてしまうこと。古典の芯を残して登場人物だけを女性寄りにする方法である。

もうひとつは、「女を主人公にしまったく新しい落語を作る」という方法である。これがもっとも可能性を秘めている。女性が演じてもっとも説得力のある形だとおもわれる。

「たぬきの了見になれ」という落語の本道

そのなかで、桂二葉の今年の新人落語大賞の演じぶりはまた別の道であった。

彼女の今年の成功は、「喜六になりきるところ」にあった。まさに落語の本道である。

「たぬきを演じるときは、たぬきの了見になれ」という教えが落語界にはあって、どうやってたぬきの了見がわかるんだ、と悩む者も多いのだが、悩んだ先にしか答えはない。

この言葉を残した五代小さんの高座は、たしかに計り知れないおもしろさに満ちていた。

そして、なりきる了見を持ち、熱を持ってなりきり、そのままそのキャラクターひとつで落語全部を引っ張っていけば、突き抜けられる。

そういう姿を桂二葉は見せてくれた。

凄まじく、また、素晴らしい高座であった。

「狂気に入っていく心持ち」が世界を動かす

もっとも大事なのは熱だろう。熱意が気迫をもたらす。

静かなタイプの女性演者の場合、何かしらの遠慮なのか策略なのか、落語の登場人物に対して少し距離を取っていることがある。そのぶん他人事感が漂ってしまう。それでも笑えるのだが、強く客は引き込めない。

でも桂二葉の高座にはそれがなかった。

喜六の了見になって、演じきっている。

喜六ができあがると、世界もできあがる。

女性が甲高い声でバカな男を演じるのはけっこう奇妙な状況だけれども、彼女はなりきっているので、喜六が「天狗を捕まえに行く」というバカを言い出しても、こいつは本気で言ってるんだなという説得力があり、見ている者はそっちに引っ張られていく。

それに対応している大人の甚兵衛さん(東京方でいう隠居)はふつうの喋りで対応して、そのメリハリがきちんとついている。

「おかしなことを言う男」、いわば狂気に踏み出している男がそれなりのリアルさを持って存在して、この男が説得力を持てば、もう、それで世界は引っ張っていけるのである。

「狂気に入っていく心持ち」ひとつで、女性であろうと、圧倒的な世界で人を巻き込めるのだ。

「アトラクションに乗っているような落語」

この方法でいつも成功できるわけではないだろう。

でも、ハマるとすごい。

アトラクションに乗っているような快感がある。

その可能性を秘めているというだけで、人は見にいくだろう。

桂二葉はそういう未来に満ちた落語家である。

「自分の内なる力を信じてぐっと力を集中させていくこと」

「その力を熱を持って突き刺すように客に向かって発すること」

どうやらここが大事なようだ。

女性落語家でも、その道をいけば、古典落語をきちんと客の深くまで届けることができる。

令和三年の新人落語大賞を眺め、その歴史的瞬間を見届けた、という心持ちになった。

女性落語家はいまそれぞれの道を切り開いている

女性落語家の道は、まだ、ほかにもいろんな道があるはずだ。

女性の演者がそれぞれの道で、必死に切り開いている。

林家つる子がそうだし、春風亭ぴっかりもそうだ。露の紫も、弁財亭和泉も、いま必死でそれぞれの道で進もうとしている。(もっとたくさんいますけど)

桂二葉は新しい道筋を示した。令和三年の秋のことである。

彼女のこれからと、他の女性落語家の未来が、とても楽しみである。