高田馬場の師匠 柳家小三治

柳家小三治は高田馬場住まいだったから「高田馬場の師匠」ないしは「馬場の師匠」と内々では呼ばれていた。

一般の人がそう呼んでいるのは聞いたことがないが(身内でないものが使う言葉ではない)、落語家が小三治師匠のことを話しするときは、畏敬の念を込めて「馬場の師匠」というのは何度か聞いたことがある。

実際に、ふだんの柳家小三治を、高田馬場では何度も見かけた。

寄席では必ず立ち見になった柳家小三治

柳家小三治は、寄席にきちんと出ていた。

年中ではなく、時期は決まっているのだが(正月と夏と秋)十日間ずつ、だいたい最後にでる主任で、寄席に出演していた。(最近の正月は主任ではなかったが)

独演会となると、事前に調べて、発売日にチケットを購入して、準備万端向かわなければいけないが、寄席は予約なしで入れるし、また指定席でもない。

その日に行こうと決めて、すっと行ける空間である。

ただ、小三治が出る寄席は人気で、だいたい立ち見になった。

最後に出る小三治を見るためだけに出演一時間前に新宿末広亭に入って(それでだいたい夜の7時半くらい)、1時間半ほどをやや窮屈な感じで立って見るか、ないしは、かなり早めに行って(新宿末広亭だと4時前に入るのが私の目安だった)席を確保して、5時間くらい寄席に居続けるかしかなかった。

寄席に5時間いつづけるといっても、入れ替わりいろんな芸人が出てくるし、それはそれで楽しいのだけれど、小三治の出てくるころには熱気が籠もって、不思議な空間ができあがっていた。

柳家小三治と立川談志は「人間国宝」柳家小さんの弟子

小三治は人気の落語家である。人間国宝(重要無形文化財保持者)でもある。

師匠は五代目の柳家小さんで、彼も人間国宝であった。

師弟で人間国宝に認定されている。

同じ門下の少し先輩に立川談志がいるが、入門は7年ほど談志が先である。

談志のライバルでもあった古今亭志ん朝は、小三治の2年先輩で、小三治が入門したときに、志ん朝は二ツ目に昇進している。

志ん朝と小三治は同じ落語協会だから、たとえば寄席の楽屋でも一緒になる。

当時前座だったある噺家に聞いたが、馬場の師匠(柳家小三治)と、矢来町の師匠(古今亭志ん朝は神楽坂の矢来町に住んでいた)が、じつにくだらねえ下ネタを末広亭の楽屋で話していて、そこにお茶を出したけど、嬉しくて痺れました、と話してくれていた。

「談志と志ん朝」より少し下の世代

ただ「談志と志ん朝の世代」と、小三治の世代には、少し差がある。ちょっと距離がある。

「談志と志ん朝」を中心とした世代はじつに派手で煌びやかである。

月の家円鏡(のちの八代円蔵)に、五代目三遊亭圓楽、春風亭柳朝らのスター落語家が並んでおり、テレビでも見かける煌びやかな芸人たち世代というイメージが強かった。

小三治は、談志志ん朝の次の世代、という場所に自ら位置付けていたように見えた。

1980年代には「趣味の人」として雑誌やメディアでよく見かけた。

とくにバイクと、オーディオに凝っている人としての紹介も多く、当時の若者として、単純に、いいなあ、とおもって眺めていた。

落語も、談志や志ん朝が、「派手に、賑やかに」という気配だったのに比べて、小三治の落語は地味めであった。

漱石も絶賛した「三代小さん」からの系譜を継ぐ小三治

機嫌がいいんだか悪いんだかわからない気配で出てきて、ちょっと緊張させたあとに、ふっと息を抜かせて、落語の前にたっぷりといろんな話をしたあと、小品をさらっと聞かせるということが多かった。

師匠五代小さんと芸風がかなり近い。

そんなに派手ではない落語を聞かせ、「隠居と八五郎」しかでてこない小さめの落語だったりして、それで大いに楽しませるのである。

落語好きにとても好まれる。

小さんは代々、そういう芸である。

人間国宝だった五代小さんはそうだったし、その師匠の四代小さんも、また夏目漱石が小説内で絶賛していた三代小さんも似たような芸風だったらしい。

小三治は、その系譜にしっかり入っている。

これがまさに「日本の至芸」というべき流れなのだ。

「小さん」を継がなかったところが小三治らしい

だったら小三治が六代目小さんを継げばいいのにとおもう人もいたようだが、六代目は五代小さんの息子が継いだ。

六代目小さんは、その前名、柳家三語楼の時代は、本気で落語を喋ってるのかどうか怪しいとおもわせるくらいの高座が多かったのだが、六代を襲名して、鈴々舎馬風が引っ張るように全国披露興行に出て、戻ってきたら、ひと皮剥けていた。

軽い噺の合う落語家となっていて、彼が小さんを継いだのは、私は落語界のためにすごくよかったとおもっている。賛同者がどれぐらいいるか心許ないのだが、たぶんあまりみんな六代小さんの高座をきちんと聴いてないのだとおもう。

それもまた柳家小三治が「わたしは小さんを継がない」と宣言したからであって、いかにもそのへんが小三治らしい。

マクラのほうが落語よりも長い一席

小三治の落語で、特徴的だったのは、間合いの長さと、マクラの長いところである。

マクラ、つまり「落語本編に入るまでの雑談のような部分」は、以前はここで私事は語るべきではないとされていたが(と明治生まれの落語家は言っていた)でもそこを長く取る落語もいまでは人気である。

柳家小三治はその代表であった。

ふつう寄席で、一席15分とすると、「落語に入るまでは3分、落語に12分」くらいが落ち着いた配分だとおもわれるが、小三治は、ときに「マクラ12分、落語3分」ということをやりかねない人だった。

3分で何をやるかというと、それは決まっていて「小言念仏」である。

どこからでも入れて、どこでも切れる便利な落語である。

小三治のかわりに弁明させられる

だったら、漫談だけで終わってしまえばいいのにともおもうが、そこは律儀だというか、短くても落語をつけて、一席としていた。

一度だけ、大銀座落語祭で漫談だけ高座を終わったことがあった。

50分ほどの漫談の一席だった。

落語を楽しみにしていたらしい隣の知らないおばさんに「今日は落語はないんでしょうか」と詰め寄られて怖かった。いや、このあとあるんじゃないでしょうか、と説明して、なんで小三治の代わりにおれが弁明しなきゃなんないんだよとおもったことがある。

ただ、ここ数年は、私はそこまで長いマクラを聞かなかった。

マクラを延々と喋るほうが、体力が要るのだろう。マクラが長く、おもしろかったのは六十代までだったようにおもう。

間合いを長く取る落語

間合いも長かった。

いわゆる「間」と呼ばれるものである。

ひとこと喋って、次の音が出されるまでの「音を出していない時間」のことだ。

「間」と言ってしまうと、これで何でも語れる気配がでるので、私はその言葉を避けて「間合い」と呼んでいる。意味は同じである。

小三治は、これが長い。

これもまた、最晩年はそこまで長く取っていなかったから、たぶん間合いを取るのも体力がいるのだとおもう。

間合いを使って、自在に客全員を操る

「間合い」を取るのは、演者の強さの現れでもある。

喋りと喋りのあいだを不自然に空けたとき、客をつかみきっていなかったら、客は逃げてしまう。無音のあいだに気が逸れてしまって、戻ってこなくなる。(だいたい寝る)

逆に、無音の時間を長くしても客が緊張を切らずについてくれば、強く巻き込める。

客は前のめりになって、演者にすごく近づく。

そういう状態を作るために、わざと再三、小三治は長い間合いを取っていたようにおもう。

それを自在に繰り、隅々までの客の心を鷲づかみにし、その状態で落語を聞かせた。

ストーリー性に富んだ落語でも、八さん熊さん二人の会話だけの地味な落語でも、どっちでもいい。起伏の強い落語だと客は泣くし、会話だけ落語だとそれで揺れるほどの笑いが起こる。

間合いは、人の心を強くつかむための手段である。

「小三治は、間がいい」、という評をときに聞くことがあるが、私にはそれが何を言っているのかわからない。べつだん小三治は「間がいい」わけではない。そこがポイントではない。強さがポイントだ。

小三治は落語で泣かそうとはしなかった

小三治は、落語そのものに派手さ、いわゆる「ケレン」を入れようとしていなかった。

そういえば小三治は、落語で泣かそうとはしてなかったとおもう。

志ん朝の落語も談志の落語も、ときにボロボロ泣かされたことがある。

でも小三治の落語を聞いて泣いたことは一度もない。

小三治は、あまり自分を大きく見せる、ということをしなかった。

何というか、客を自分の家に呼んで、そこで聞いてもらう、というようなスタンスで落語を演じていたようにおもう。

『あくび指南』『道灌』で客を動かす小三治の迫力

ここ15年で聞いた小三治の高座で、圧倒的にすごいとおもったのは『あくび指南』である。

あくびを教える師匠と、それを習う若者のやりとりの噺で、内容なぞはない。

そういうナンセンスな世界を創り出して、人を巻き込む力が小三治はすごかった。

ほかには『一眼国』『ちはやふる』『長短』『転宅』『道灌』なども感嘆した。

『道灌』なぞは、落語家になった前座が一番最初に教わる基本中の基本の落語だが、これを小三治が演じると、圧倒的な一席に仕上がっていた。

私が聞いたのは「桂米團治襲名披露興行」での新橋演舞場での一席で、そんな大きな会の大きな小屋で、前座ネタ「道灌」で会場をひとつにして沸かせるというその力量に感心した。

小三治の「出」を痛切におもいだす

おもいだすのは、やはり新宿末広亭で、ずっと待っていた小三治が高座に出てきた、あのときの気配である。

会場は熱気にあふれているが、それを少しはずすように出てきて、でもじわじわと大きく巻き込んでいく、その気配である。

あの気配をおもいだしてしまうと、さびしくなる。

落語家がいなくなっても、有名な落語家ならいまはその声は残るが「出囃子が鳴って、座布団に座るまでの『出』(出てくるところ)」がもう見られないのかとおもうと、それが痛烈にさびしい。

こればかりは引いたところからとったカメラ映像では意味がない。

ライブで見るから、「出」には意味がある。

落語好きな人なら、私の言っていることがわかってもらえるとおもう。

小三治の、何でもない「出」をおもいだして、細かい部分がちょっとおもいだせないなと気づいた瞬間、痛切に、もう一度だけでいいから小三治の高座を末広亭で見たいとおもってしまった。

存分に見たはずなのだが、でもそういうおもいは消えない。