Yahoo!ニュース

オリンピックにはなぜ応援して疲れる競技と疲れない競技があるのか 「陸上が五輪の華」である理由

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:長田洋平/アフロスポーツ)

1位・2位・3位を決める競技大会

オリンピックは、1位・2位・3位を決める競技大会である。

世界中のトップアスリートが集い、国別に分かれ、順位を決める。

おそらく世界中の人がその中継を見つめている。

毎日見ていると感じるのだが、応援して疲れる競技と疲れない競技がある。

それはおそらく順位の決め方にあるのだろう。

順位の決めかたは、競技によって違う。

見ていてすっきりする方式と、なかなかもどかしい方式がある。

そこの差の問題だ。

球技と格闘技は「対決方式」

もっとも一般的なのは「対決方式」である。

格闘技と球技はだいたいこれである。

一対一で対決する。個人対決とチーム対決があるが、とにかく一対一で戦って優劣を決め、勝ったほうが先に進むトーナメント方式を採る。

予選をおこなって8人(8チーム)を選び、そこからまた一対一対決を繰り返し、準々決勝(ベスト8から4へ)、準決勝(ベスト4から2へ)、決勝(ベスト1決め)と戦っていく。

準決勝で勝てば1位か2位が確定して「メダル確定」と報道され「あとはメダルの色です」とよく言われる。

準決勝で負けると3位か4位で、そのあと「3位決定戦」が行われることが多い。決定戦がなく同着3位となる競技もある(ボクシングとか)。

そうやって1位、2位、3位を決める。

銀メダリストが嘆き、銅メダリストが喜ぶ方式

3位決定戦のある種目は「銀メダルの選手はとても悔しがっているが、銅メダルの選手は晴れ晴れとしている」ということがよく起こる。

これは銀メダルは「最後の試合(決勝)で負けている」からであり、銅メダルは「最後の試合(3位決定戦)で勝った」からである。

負けてそれで2位で終わってしまった選手と、3位決定戦といえど最後に勝って3位になった選手では、表情が違ってきてしまう。

ただ、日本柔道のように「金メダルで当たり前」という異様な状況下だと、銅メダルを取っても悔しくてボロボロに泣いている選手もいるが、それはまあ異常な例外だろう。だいたい順位が決定した直後、2位が悔しそうで、3位はちょっとほっとして嬉しそうである。

順位と表情の逆転が起こる。

これが対決方式の法則である。

「対決方式」が夏のオリンピックの醍醐味

夏のオリンピックでは、この対決方式の競技が多い。

格闘技の柔道も、テコンドーも、フェンシングも、球技のサッカー、野球、ソフトボール、卓球、テニス、バドミントン、みんな一対一の対決である。

まず目の前にいる相手に勝たなくてはいけない。

ひとつずつ勝っていかないと進めないので、なかなか手間がかかることがある。

ときどき見ていてそこがもどかしい。

「相手が邪魔をしてくる」もどかしさ

たとえば柔道は、組んで投げたら勝ち(畳に相手の背中をつけたら勝ち)、投げられたら負けとわかりやすい勝負である。(また、寝技、絞め技で相手を動けなくしても勝ち)。

ただ、実際は、なかなか組み合わない。そこではらはらする。しかも柔道は時間がいわば無制限なので(4分で区切られているがそこで決まらなければ、決まるまで永遠に続けられる)、見ているほうも、いつ終わるかわからなくて、どきどきする。

そもそも対決方式は、自分がおもいどおりに動こうとしても、相手が阻止してくる。

おもったように組ませてくれないし、絶対に投げさせまいとする。

おもいどおりに試合が動くことはほとんどない。

いつも相手が邪魔をしてくる。

サッカーもバドミントンもテニスもテコンドーも、こっちのおもいどおりに試合を進めさせてくれない。

その点で、対決方式はかなり見ていてストレスフルなのだ。

採点される種目は「一人ずつ」競技する

これと違って「一人ずつしか競技ができない」という種目がある。

それは「競技施設が一人用だから」という場合と、また「一人ずつ採点しなければいけないから」という場合もある。(両方の条件が重なっている競技もある)。

採点方式は、審判が点数をつけてそれで優劣が決まるものだ。

体操、トランポリン、アーティスティックスイミング、飛び込み、スケートボードなどである。冬季五輪だと、フィギュアスケートやスノーボード、モーグルなどがこれにあたる。

一人ずつ競技を行い、審判が点数を付けていく。同じ審判が採点しつづけないといけないから、一人ずつ競技していくしかない。

広さが確保されてないものも一人ずつ競技する

また、同時に競技しにくいから、というものもある。

わかりやすい例で言えば、陸上種目の「跳ぶ競技」「投げる競技」(いわゆるフィールド競技)などはそれである。

「槍投げ」決勝に残った8人が横に一列に並び、同時に「槍を投げる」ということをやると、見た目にはとてもおもしろそうだけれど、そんな広さが確保されていない。トラックで1万メートルとか、3千メートル障害をがんばって走っている選手が次々と串刺しになる恐れがある。

ハンマー投げや砲丸投げだと、横並びに8人同時にぐるぐる廻ったら、それぞれがガチンゴチンぶつかりそうで、危なっかしくてやっていられない。

だから一人ずつ競技する。

冬季五輪だとスキー滑走種目やジャンプなども、一人ずつしか競技できない。(横に並んで優劣を決めるデュアルなどもあるが、ごく一部である)。

冬季五輪種目は、この「一人ずつ競技する」というものが多い。

全選手のパフォーマンス待ちの競技

この方式は、全員の競技が終わらないと最終順位が確定しない。

パフォーマンス順によっては、残りの選手の動向をはらはらしながら見ることになる。

いわば、待ちの競技である。

冬季五輪のスキー種目などの場合、「いまの時点での仮の一位、二位、三位」席が設けられ、競技が終わった選手が順にその席に座っていく。より早いタイムの選手が出ると、席を替わっていく。(漫才コンテストのM―1グランプリがこれと同じ方式を採っている)。

そういうふうに、一人の競技が終わるごとに仮の順位が変動していく。

スケートボード競技でつい「人の失敗を祈ってしまう」瞬間

夏のオリンピックでは、たとえばスケートボードがこれにあたる。

このオリンピックでは男女ともに日本選手が優勝した。

ただ、どちらも最終競技者ではなかったので、途中、日本選手が一位になったあと、残りの選手を見守ることになる。ここがなかなかもどかしい。

人としてどうかとおもうのは「残りの選手の失敗を祈る心」を持つところにある。

あまりよい心の動きではない。

でもどうしても、そうおもってしまう。

むずかしい。

人の失敗を祈るのが日常となっている人が世の中にどれぐらいいるのかしらないが、あまり、そういうことはしないほうがいい。

人としてそこそこ生きていればわかるのだが、人を呪わば穴二つとはよく言ったもので、日常で人の失敗を祈ったりすれば、どこかでそれは我が身に返ってくるから、なるべくダークサイドの感情は抱かないほうがいいというのは、まっとうな人間ならふつうに持っている感覚だとおもう。

だから、人の失敗なんて祈りたくない。

でも応援しているかぎりはそういう心の動きが出てしまう。

その部分で、こういう競技はストレスになる。

冬季五輪は人の失敗を祈り続けるはめになる

とくに冬季五輪はずっとこのストレスと闘いつづけることになる。

モーグルで上村愛子が、スノーボードで平野歩夢が、フィギュアスケートで浅田真央が、スキー回転で猪谷千春が、それぞれの競技が終えたあと、残りの選手に「いまの得点を超えないでくれー」と祈りつづけることになる。これも「越えないでくれー」くらいのレベルならまだいいのだが、ともすれば、「こけろ」「転倒しちゃえ」とまで考えてしまうこともあり、それはやはりあまり良くない。

そういう葛藤を呼ぶ競技である。

「彼女がミスをすると日本のメダルが確定する」と叫んだ中継アナ

現に、今大会のスケートボード女子の中継で、そういう放送があった。

ストリートで4回のトライアルが終わり、残りは1回だけ、その時点で日本の西矢椛がトップ、最終トライアルに入って他の選手の得点次第で順位が決まるというとき、日本の西村碧莉(8位)の次に登場したのがこの時点で5位のロース・シュウェツルート(オランダ)だった。

彼女が滑り出したとき「さあこのロース、ロースがミスをすると西矢のメダルが確定する!」と中継で叫んでいた。

ミスをすると、という仮定が大人としてどうかなとおもった瞬間に、彼女は転倒してしまった。「……ロースは残念、ただこの瞬間、西矢椛のオリンピックメダルが確定!」と放送していた。

問題にはなっていなかったが(また問題にするほどこのとではないが)でもまあ、人の失敗を願ってしまうという人のダークサイドが現れていた瞬間だとおもう。

49年前の札幌で「この選手は問題ではありません」と叫んだ問題

49年前の札幌オリンピックのとき、「70メートル級ジャンプ」で、日本の笠谷・青地・金野が1位2位3位でジャンプを終え、そのあとの残りの選手の成績次第で順位が確定するというとき、中継アナウンサーは興奮のあまり「この選手は問題ではありません」とメダル争いに絡んでこない選手を、次々と切って捨てるように紹介していた。(個人的な記憶によるものなので言葉は少し違うかもしれないが、だいたいそういう内容だった)。

私は当時中学二年だったけれど、それは言っちゃいけないだろうとおもった記憶が強く残っている。このときもさほど問題にはならず、週刊誌に小さく書かれているくらいだった(いちおう週刊誌で批判はされていた)。

一人ずつ競技していく種目は、「相手が邪魔をしてくる」というストレスはないが、「残りの選手の失敗を祈ってしまう」という罪悪感的ストレスが出てくる。

先にゴールしたものが勝ちというシンプルな方式

最終順位を決める方式の三つめは、「横並びに同時にスタートして、先にゴールしたものから順位がついていく」というもの。

陸上の競争や、水泳の競泳の方式である。

だいたい予選と準決勝がおこなわれ、そこを勝ち抜いた8人(8組)で決勝をおこなう。8人横に並んで同時にスタートする。

だれが最初にゴールに着くかによって順位が決まる。マラソンなどのように大人数が同時にスタートするものもある。

もっともわかりやすく、見ていてもっともストレスが少ない。

水泳ではあまり「ここで溺れてしまえ」とはおもわない

だからこのタイプの競技で、選手が勝つのを見ていると、とても興奮する。

水泳では、個人メドレーの大橋悠依が二冠、そのレースを見ているとき、ただ純粋に「彼女がもっとも速くゴールしないだろうか」とおもって応援するばかりであった。

一番早く着け、とだけ応援している。

他の選手に行く手を邪魔されるとか、他の選手の行く手を邪魔しなければいけないということはなく、「そいつをやっつけてしまえ!」とはあまりおもわない。

また、他の選手の失敗をあまり祈ったりしない。

競ってる選手に「溺れてしまえ」とおもったことがない。たくさん水を飲んじゃえ、とおもったこともない。だいたいみんな溺れないし水を飲まない。

ターンをミスれ、とおもったことはないし、隣のレーンに入ってしまえと願ったこともない。そんな失敗を世界大会で見たことがないからだ。

ただ、応援する選手がなるべく先に行けるように祈っているばかりである。

まさに純粋にスポーツを応援している気分になれて、すがすがしい。

本来なら全種目がこういうふうに順位が決められると心地いいのだが、そういうわけにはいかない。

そして、たぶん、そんなことになったら日本のメダルは激減しそうな気がする。

日本人は対決もののほうが、なんか得意そうなのだ。

そういう国民気質のような気がしている。

なぜ陸上トラック競技はオリンピックの華なのか

「陸上のトラック競技」と「水泳の競泳競技」がだからオリンピック種目の花形なのだ。

大会前半は競泳、大会後半は陸上と、そういうふうに分けて競技が行われる。

どちらも人気だからだろう。

「駆けっこ」と「泳ぎっこ」はシンプルでわかりやすい。

エンタメとしてもきわめて優れている。

誰が見ても勝負がわかる。

先にゴールしたほうが勝ちである。それだけだ。とてもわかりやすい。

この技は高得点ですとか、この手の動きは反則なんです、とか、そういう解説なしに見られる。

(そういう意味では、野球というのは、知らない人にはルールが面倒すぎて、野球好きとしてはとても残念なのだが、あまりオリンピック向きではないと言わざるをえない)

あまり「駆けっこ」に強くない日本選手

水泳は、日本はけっこう強い。今回は、地元開催のわりにはちょっと伸び悩んだが、それでもメダリストは生まれている。

でも陸上ではなかなか勝てない。

フィールド競技(投げるのと跳ぶの)では何度か勝っているが、トラック競技が弱い。

陸上で何回もメダルを取っていたのはマラソンぐらいである。でもマラソンはトラック競技ではない。外で散々走ってきたあと、最後だけ陸上競技場を走るものである。

競技場内で走ってメダルを取ったのは、個人では、1928年アムステルダムでの人見絹代だけだ。昭和3年ですね。しかも彼女はこの大会で初めて800mを走ったらしい。それで世界2位になったのだ。この伝説を聞くたびにわくわくする(大河ドラマ『いだてん』で再現されていた)。

あとは、リレーで2回2位に入っている。

リレーは今回も見ものである。

「邪魔をしないでくれ」とも祈らず、「失敗してくれ」とも呪わず、素直に応援できる「陸上トラック競技」が、競泳競技と並び、「オリンピックの華」と呼ばれているわけである。

華には華の理由がある。

そして陸上の華は、日本選手にはちょっと少ない。

だから、3千メートル障害の山口選手をとてもしっかり見守りたい。

3千メートル障害って、「転倒する」ことがふつうに起こるから、ちょっと心配でもある。たぶん応援しているときはただ「こけないで」とだけ祈ってみているとおもう。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

堀井憲一郎の最近の記事