1998年2月17日火曜日 白馬ジャンプ場での真実

コロナの影響で遅れて公開された映画『ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜』は長野オリンピックの団体ジャンプ優勝の裏側を描いた作品である。

ジャンプ団体が金メダルを取ったのは、1998年2月17日の火曜日である。

この日、私も会場にいた。

観客として、「日の丸飛行隊」の活躍を見ようと、金メダル獲得の瞬間を見ようと、駆けつけていた。

白馬ジャンプ場である。

細かく言うなら「八方尾根スキー場」の脇である。名木山ゲレンデに隣接したところに「白馬ジャンプ場」はある。白馬、だけでは東京者にはよくわからない。八方尾根の脇だ。

2月17日は雪がすごかった。

悪天候だった。

スキー競技はふつう野外でしか行われず、観客がいるエリアに屋根はない。

観客もまた全員、選手が見舞われていたのと同じ悪天候の中で立ち続けてないといけない。

会場まで吹雪のなか1時間歩かなければいけなかった

一般の観客にとって大変だったのは「会場に着くまで、一時間ほど雪道を歩かされる」というところにあった。

このオリンピックのために「長野新幹線」が開通したので、東京から長野まではすっとたどり着く。長野駅前から、各競技場まではだいたいシャトルバスが出ていた。

そのバスに乗ると、観客は会場のかなり手前で下ろされる。

これはジャンプにかぎらず、いろんな会場がすべてそうだった。

よくわからない駐車場で下ろされ、そこから延々と歩く。

夏にふつうの靴で歩けば30分くらいで着くのかもしれないが(それでも30分はかかる距離である)、雪がかなり積もった雪道だとその倍近くかかる。

しかも吹雪である。

まさに雪中行軍。小さい子連れの家族もいるから、まるで難民が亡命の山越えをしているみたいだった。いったい私たちは何をしているのだろうとちょっと考えてしまう。

競技開始時間は雪で遅れていた

新幹線の始発に乗ってやってきたけれど、吹雪下を歩いているうちに、競技開始時間が過ぎていた。

最初から一時間歩きますと教えてもらえれば少し楽だったとおもうが、そういう事前の情報もなく、インターネットもなく、スマートフォンもない時代である。携帯電話はあるが、世界とはつながっていない。

黙々と歩き続けた。

歩いていてもどんどん肩や頭に積もっていく雪である。風もあった。

何とか会場に着くと、どんどん選手が飛んでいるが、まだ競技は始まってないようだった。

そのとき飛んでいたのは、おそらくテスト・ジャンパーだったのだ。

私の記憶と、映画『ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜』で描かれる風景が、ここで一致する。

観客はみんな強い信念を抱いて駆けつけている

しばらくして競技が始まった。

観客は、当然、日本人客が圧倒的に多い。

金メダル確実と予想されていたこともある。

みんな、「日本の優勝」を信じて見に来ている。

そして観客はみな一時間ほど吹雪のなかを歩いてきたはずだ。

自分のクルマで来ても、バス降り場と同じ駐車場で下車させられ、歩かないといけない。

これはほかの競技でも同じで、競技場の近くには一般車はいっさい近づけなくなっていた。かなり遠いところでおろされる。

当時の歩かされた感覚では「新宿の競技場へ行くために、池袋でおろされた」という感じである(東京の人以外にはわかりにくくてすみませんし、厳密にいえば目白くらいかもしれない)

ここにはつまり「ふらっと簡単にやってきた」という観客はいなかったということだ。

ジャンプ会場近くに住んでいる人だけは違うだろうけれど、それはごく少数だろうし、それにそんなに近くに住んでる人は五輪関係の何かで別に忙しかったりするから、気軽にこれた人はほんとにごくごく少数だろう。

ほぼすべての観客は(長野県人であっても)、一時間近く吹雪の雪道を歩き続けたどりついている。

でもみんな「日本チームが金メダルを取る瞬間に現場にいたい」という強いおもいを抱いてやってきている。

ふらっと気楽に見に来ていた観客はほぼいなかったはずである。

スタート地点の原田選手がまったく見えない

ジャンプ一本目、岡部孝信が大きく飛んで、次に斉藤浩哉が大ジャンプを見せた。130m。日本一位。会場はめちゃめちゃ盛り上がる。

そして問題の三人目、原田雅彦になる。

この日、天気はずっと悪かったが、それでも少しおさまっている時間もあって、競技が始まってからは、比較的ましなほうだった。

それが原田の番になって、突然、悪化した。

記憶によると、原田とその次の2選手だけが、この悪天候をもろにくらった。

見えない。

観客は着地点の少し先に固まって見ているが、そこからふつうはスタート台が見える。滑り出して踏み切り空に飛び出して着地するまで、すべて一望で見られるのが、現場の醍醐味である。

でも原田はまったく見えなかった。

突然霞の中からあらわれ、突然落ちていった原田選手

原田雅彦の順番になって、ジャンプ台は雲に覆われた。

雲なのか、霧なのか、ガスなのか、どう呼べばいいのかわからないが、とにかく霞んで何も見えなくなった。

それが広がり、観客からはジャンプ台はすっぽりまったく見えず、着地点付近しか見えない。

原田はすぐにはスタートしなかったようにおもう。

少し間があって、スタートした。

見えない。

霞んでいる向こうでスタートして、霞んでるなかで空に飛び出したようだ、という気配しかわからない。

突然、その霞の中から原田が見え、見えた瞬間に落ちた。

観客が全員、息を呑んだ。

残念、とか、やらかした、というより前に、全観客がおもったことはひとつである。

「いまのは、しかたがない……」

まったく見えなかったのだ。

雲の中を滑りだし、雲の中を飛び、見えたとおもった瞬間に落ちたのだ。雲の中で飛べばそういうものだろう。(雲とか霧とかの表現が統一してなくてすいません。とにかくガスっていて何も見えなかったのだ)。

記録は79mだった。

ありえない距離である。さっきの斉藤浩哉選手の6割ほどの飛距離でしかない。

リレハンメルオリンピックの団体ジャンプでは、原田雅彦の失敗で日本は銀メダルに終わった。

でも、いまのは違う。

みんなそうおもった。いまの状態で飛ぶことのほうが無理だ。

肩にどんどん雪を積もらせて見ている観客には、そのことがわかる。

誰も原田を非難する声を出さない。そんなものは出せるわけがない。

みんな息を呑んで、声も出ない。

出ても「ああ」という嘆息ぐらいであって、それもほぼ洩れていない。会場全体の空気がどんと落ち込んで、でもその気配さえも悪天候が包み込んで伝播しない。

それぐらいみんな悪天候に打ちのめされていた。

テレビの映像が間違っているという驚愕の事実

「原田なにやってんだよ」というのは、おそらくテレビを見ていた人たちが出した言葉だろう。

私も東京に戻って、録画した映像を見て驚いた。

驚愕した。

中継画像を見ると、あまり霞(雲・ガス)が映ってないのだ。

カメラの性能だろう。

人間の目で見るより、はるかに優れた解像力によって、鮮明な映像に見える。

テレビで見るかぎり、原田は「少し見えにくいかもしれない」くらいの状態で滑りだし、下までが見通せるくらいの状況で飛び出し、いきなり落ちたように見える。

それだとまるで原田のミスのようである。

間違っている。

悪いのは原田ではない。

このとんでもない悪天候の瞬間に飛ばした主催者の問題であり、その瞬間を引いてしまった原田の運の悪さでしかない。

テレビ映像のほうが間違っている。

現場でしかわからない現実とテレビが中継してしまう映像の齟齬

機械の視点から見ればテレビの映像が正しいのだろう。

でも人間にとっては間違っている。

彼は、見えないなかで滑り出し、見えないなかで飛び出したのだ。

それが現場でしかわからない現実である。

でも世界は「テレビが中継した映像」を真実として進んでいく。

テレビ前で言われたであろう「原田、なにやってんだよ」「また、原田かよ」と言葉が、現場を再現したときに、現場で言われていたように扱われる。

1998年の現場から言わせてもらえば、それはいろんな部分が間違っている。

現場と、映像の齟齬である。

映画『ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜』の胸震わせるシーン

4番手のエース船木も113mと伸びずに日本は4位になった。

1本目の競技が終わったが、すぐには2本目は始まらなかった。

ここのインターバルは映画『ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜』に詳しい。

裏ではあまりに悪天候のため、続行はむずかしいかもしれないとの協議がされていた。

たしかに掲示板に「ジュリー協議」という文字がでていたのを、映画を見ておもいだした。でも「ジュリー協議」というのが何を意味するのか、まったくわかっていない。

ただ待つばかりである。

まさかここで中止になって2本めがなくなるのかも、とは想像だにしていない。

肩にも頭にも雪を積もらせ、私たちはただ待っていた。

ここで映画『ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜』の見せどころになる。

テストジャンパーが、日本選手団のために(だけではなく、たぶんおそらく二本目を飛びたいとおもっている全選手のために)飛ぶ。

ある意味、命懸けで飛ぶ。

映画を見ていて、胸震えるシーンである。

間合いをあけずに次々と飛んでいく知らないジャンパーたち

記憶をたぐると、たしかに、このテストジャンパーのジャンプも現場で見ていた。

競技が中断され「ジュリー協議」表示のまま、観客はすることがないので、ただぼんやり待っているだけである。

見知らぬ選手たちであろうと、次々とジャンプするから、何となく見ていた。飛距離掲示などはないから、競技ではないのだなとおもいながら見ていた。そういう記憶が蘇ってくる。

でも、意味はわからない。

遊びで飛んでいるとはおもわないけれど、でもこれからの若い選手が度胸試しに飛んでいるのかなとか、時間があいたから地元の選手が練習がてらに飛んでいるのかなと、深く考えればそんなことはあるはずないのだが、何の情報もないからそんなことを空想しながら、ただ、ぼんやり眺めていた。

実はこれが劇的なジャンプだったのだというのは、23年経って映画『ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜』を見るまで知らなかった。

映画を見られて、本当によかったとおもう。

テストジャンパーは何かに追われるように次々と飛んだ

テストジャンパーのジャンプを見て印象に残っているのは「やけに次々と飛ぶんだなあ」ということである。間合いをさほどあげずに、次々と飛んでくる。

何かに追われてるように次々と飛んでいるぞと、そうおもって見ていた。

そして、それは、ほんとに何かに追われていたのだ。誇り高いジャンプだった。

そしてまた、2本目の競技が始まらず、待たされているときに「もう、帰ろうか」といった客はいなかったとおもう。まあ、私の目の届く範囲のことでしかないが、そんな客はいない。

みんな2本目で逆転するだろう(せめてメダルは取るだろう)と信じて待っていた。

少々待たされようが、帰らない。当然である。(だいたい駐車場までまた1時間歩かないと帰れないのだ。気軽に動き出せない)。

「団体ジャンプの金を見にきた客」もまたみんな誇り高い客だったとおもう。

そこはなめないでもらいたい。(誰もなめてないとおもうけど)

原田選手の二本目はしばらく飛距離が表示されなかった

そして二本目が始まった。

日本の一番手、岡部孝信がものすごいジャンプをした。

やけくそのような大ジャンプを見せた。

137m。

とんでもない飛距離である。

うおおおおおおおおと会場一帯になって叫んで叫んで叫んで、頭が白くなった。

いける。日本、いけるぞ。岡部のもたらした興奮はいまもリアルに覚えている。

続く斉藤浩哉も124mである。

これはいけるいけるいけると、ほとんど思考が停止する。

そして原田雅彦。

祈った。本当に両手を合わせて祈った。

まわりの客たちのほんとうにみんな祈っていたとおもう。手を合わせる。

そして原田。

飛んだ。

息を呑んだ。

飛んで、飛んで、いつ落ちる、いつ落ちる、どこで落ちるんだ、どこで落ちるんだ、落ちるな落ちるな落ちるな、と祈りながら見つめていたから、落ちたのがどこだかわからなかった。

尻餅をつきそうに着地していた。

電光掲示板を見たら「しばらくお待ち下さい」と出た。

ふつうはすぐに飛距離が表示される。

それが表示されないから、ひょっとしてとんでもない大ジャンプだったんじゃないかとおもって、待っていると137mと表示された。

地が揺れる歓声があがった。

うおーーーーーーーと叫んで、あとは記憶にない。

「もうビデオでは測れない、別の世界に飛んでいった原田…137メーター!」

そして最後、船木が125mを飛んだ。

細かい部分は忘れているのだが、125mの表示が出た瞬間に逆転の優勝が確定したはずで、先の三選手が船木に飛びかかっていくところが見えた。

原田の二本目の、中継アナウンサーの言葉は、このようなものだった。

「今度は高いか……高い!……高くて……高くて、高くて、高くて、いったあーーー! 大ジャンプだ、ハラダーっ! すごいジャンプを見せました! ハラダっ、ここ一番で大ジャンプを見せました、ハラダっ…………まだ距離が出ない………もうビデオでは測れない。別の世界に飛んでいった原田……………137メーター!!!!」

しばらく距離が出なかった、というのが日本中で共有した時間である。

「もうビデオでは測れない。別の世界に飛んでいった原田………137メーター!」という言葉が、日本中の興奮を代表していた。

この言葉も東京に帰ってから、録画したライブ中継(VHSビデオ)を見直して知った言葉である。

「お客さんもみんながんばったな本当に……うわああ」

優勝後のインタビューでは、原田雅彦は泣きに泣きに泣いて、嗚咽を繰り返し、ほとんど言葉にならなかった。それがまた多くの人の心に残った。

原田さんは日本チームをよくここまで引っ張ってこられましたねと聞かれて、こう答えていた。

「おれじゃないよ……やっぱり……チームメイトみんなでね……うん、がんばっ……て……おれじゃないよみんななんだみんな……うっうっ、あー、うっ、お客さんもみんながんばったな本当に……うわああ、だめだあ、ちくしょう、ああ、だ……、あー、はあ、はあ、もー、うー」(ちくしょうというのは、ちゃんと答えられない自分に対しての叱責である)。

23年経ってあらためて「お客さんも頑張った」という言葉を見て、胸を突かれる。

いや、たしかにすごい頑張って雪の中で耐えたけど、そんなのあなたの二本目のジャンプを見たときに全部ふっとんだよ、ありがとうありがとう。

あらためて23年の時を越えてそう伝えたくなる。

2日前、個人ラージヒルで銅メダルをとったあとのインタビューで、抱えてる花をどうしたいかとたずねられて、妻に渡したい、と言って原田は泣き出した。

それを踏まえて、今日は花はどなたに、と聞かれ原田は答える。

「ああああああ、お客さんに、あげたあ、あー、あ……うん……うんうん」。

言葉になってない。

でもまた、客を、つまり私たちのことを気づかってくれている。悪天候下でよく応援してくれたと感謝しているのだ。この極限状況でそんなことまで感じていた原田雅彦の心の奥に触れるようでいて、この言葉を書き写しながら、23年経って、ちょっと涙が出てくる。

現場の観客は、誰も一本目が終わったときに「なにやってんだよ原田」とは言わなかったし(あたりまえです)、二本目が始まるのが遅いからと帰らなかった(あたりまえです)。

そのことも踏まえて原田は一緒に現場にいた観客たちも強くねぎらってくれたのである。

ちょっとそれは映画では描かれていない。

だから、何となく覚えておいてもらえるとうれしい。

みんなに映画『ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜』を見て欲しい

これらはみな、映画『ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜』があったからこそ、私の中で蘇ってきた。

映画を見て、1998年の空気を強くおもいだした。

劇的な瞬間にいたこと、「舞台表の英雄」や「舞台裏の英雄」と同じ空気を吸っていたことは、二十年やそこらでは風化しないのだ。同じ空気というより、同じ吹雪の中に立っていたことは、というほうがより近いとおもうけど。

1998年の団体ジャンプの記憶がある人もない人も、ぜひ映画『ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜』を見てもらいたいとおもう。私は関係者ではないし、宣伝する義理もないのだが、あの映画の現場にいた観客の一人として、強くおすすめする。

この映画は日本人の記録である。

記録をぜひ記憶して欲しい。