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朝ドラ『おかえりモネ』 清原果耶の圧倒的な無表情に込められた「深遠なテーマ」

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:森田直樹/アフロスポーツ)

朝ドラ『おかえりモネ』の「おかえり」には、たぶん、深い意味が込められているのだろう。

最後のほうまで見ないと真の意味がわからないのでないだろうか。

テーマの壮大さから、なんだかそういう予感がしている。

洗濯物の心配から始まった『おかえりモネ』の穏やかさ

『おかえりモネ』はひさしぶりの現代劇である。

ヒロインのモネが生まれるところから始まり(1995年)、それは冒頭だけで、物語はすぐに2014年の春になった。

モネが高校を出て、山で働き出しているところから始まる。

穏やかである。

ここのところの朝ドラは、明治、大正、昭和初期の過酷な半生を追うことが多かったので、最初から厳しい展開が多かった。

前作の『おちょやん』は第一話から食べるものがなくなり三十分かかる遠い隣家を訪れて食にありついていたし、三作前の『なつぞら』では第一話から空襲に遭い親を亡くしている。『エール』は比較的恵まれた家の子だったけれど運動ができず吃音で悩んでいたし、『スカーレット』は滋賀の信楽に越してきて貧乏でしかも主人公は漢字が読めなかった。

それに比べれば『おかえりモネ』は穏やかである。

第一話で見られた主人公の悩みは、強いて言えば、「洗濯物を干してから天気予報で今日は雨が降ると知ったこと」くらいだった。

とても平和である。

『おかえりモネ』の意図する壮大な問いかけ

過酷な少女時代の描写から始まるのに慣れていたから、『おかえりモネ』の第一週は、なんだか拍子抜けしてしまった。

2010年代の少女としては、震災に遭ったことをのぞけば、ごくふつうの生活をしており、広くみんなが共感するほどの苦悩を抱いてはいない。

彼女自身は、自分が何になればいいのか迷っており、その姿がやさしく描かれるだけである。

さほどの事件は起こらない。

何となくぼんやりと見ていた。

ところが第二週になって強く引き込まれていく。

「林間学校に来た少年をモネが助ける」という少し大きめの事件があったからだけではない。

この「ひさしぶりの穏やかな現代劇」の意図が見え始めてきたからだ。

おそらくこのドラマのテーマはかなり壮大なもののようだ。

簡単にいうと、自然の中で暮らす人間存在を問うものではないか。

ただそれを「大自然と人間」と言ってしまうとちょっと簡単にまとめすぎにおもえる。

もっと広くやさしく低い視点から描いている。

自然と人間と抽象的に言い切るような、そんな偉そうな高みに立ったドラマではない。

「いまそこにある自然世界そのものと、そこで生きる人間」についてゆっくりと語っていくのだとおもう。

正統派の美少女・清原果耶が主人公である意味

だから清原果耶なのだ。

まさに「モネ」は彼女しか考えられない。

10話少し見ただけで、その存在感とともに、深い意味を感じられる。

清原果耶を初めて見たのは朝ドラ『あさが来た』である。

女中のふゆ役を演じて、娘役を演じていた小芝風花ともども強く印象に残っている。

その後ドラマでは『セトウツミ』『透明なゆりかご』『俺の話は長い』などに出演した。

だいたい女子高生役である。

朝ドラ『なつぞら』では主人公の妹役として登場していた。

『透明なゆりかご』をのぞいて、つっけんどんな少女役というのが多い。つっけんどんというか、正統派の美人であるところから「とっつきにくい美少女」役を割り振られることが多かったようにおもう。なかではコミカルさが少し加わっている『セトウツミ』の清原果耶が、個人的にはとても好きだ。

でも本来の清原果耶の持ち味は、そういう「冷たい美少女」役にはなかったようだ。

『おかえりモネ』を見ていて、つくづくそうおもう。

『ひよっこ』の有村架純と同じ気配で惹きつける清原果耶

『おかえりモネ』は、ただ清原果耶を眺めているだけで、それだけで何かを見た気分になれるドラマである。

眺めているだけで見ている者を納得させる。

それは、爽やかな美少女だから、というだけではない。

それとは少し違う。別の魅力が見る者を強く惹きつける。

たぶんドラマの作り手たちも、清原果耶のその魅力がわかっていて、それを中心に据えているようにおもう。

『おかえりモネ』を見ていて強く惹かれるのは、「清原果耶の受け身の表情」である。

清原果耶は「受ける」役者なのだ。

いろんな出来事や言葉や雰囲気を、すべて「そのまま受ける」という気配を出していて、その透き通った受容観が尋常ではない。

歴代朝ドラヒロインでは『ひよっこ』での有村架純が同じ気配を強く出していたとおもうが、清原果耶はそれをもっと徹底させている役者に見える。

だから「驚くような出来事」がなくてもドラマにすっと引き込まれていく。

それは清原果耶の存在感の大きさによるものなのだ。

清原果耶はその「受け身の無表情」で圧倒的存在感を示す

清原果耶はつまり、笑った顔や、哀しい表情、怒った顔などではなく、「何も考えていないような表情」で、見ているものを強く引き込む。

言ってみれば、これまで正統派美少女としてドラマでは「攻め」に使われていたその美貌を『おかえりモネ』では「受け」に使っているのである。

そして受けにまわった彼女の吸引力が尋常ではない。

具体的に『おかえりモネ』のシーンで振り返ってみる。

放心したとき、清原果耶の表情はとても強くなる

1話だとサヤカさん(夏木マリ)にいきなり「山に行くよ。ついてきなさい、木のこと教える」と言われたとき、少し驚いた表情になり、でもそのまま驚きが消えて、無表情になる。この無表情がいいのだ。「受け」の表情である。

2話だと、妹がテレビに出て、将来のやりたいことをしっかりと話すのを見て、それをあとからおもいだし、モネは放心した顔になる。

この放心が、彼女が足りないと感じている部分をあらわしていて、それだけで見ているものをすごい力で惹きつけていくのである。

4話では気象予報士の朝岡(西島秀俊)に「一時間後のことがわかるんですか」と聞き、わかりますよと答えられ、驚いて質問を続けるモネの表情に何もよけいなものがない。

「人の話を無心に聞く顔」になっている。

すっと顔で「無心」が表せるところが、すごいとおもう。

「受け」というのはある意味「すぐに無心になれる」ということでもある。

「北上川の霧」のシーンで見せた圧巻の「心が止まる」表情

5話、サヤカさんや朝岡さんたちと一緒に「北上川の霧」を見る。

モネは「私の育った気仙沼にも似たような霧が出る」といって、最初は静かに眺めている。ところが日が昇ってきてモネの顔を照らすうちに、彼女の表情が徐々に変わっていく。

その間、セリフがない。

まわりの大人たちも彼女の変化に気づくが、言葉は発しない。

この5話で見せたモネの表情こそが、この長丁場のドラマのテーマを象徴しているように見えた。

朝陽を見て彼女がおもいだしているのは、(おそらくきっと)震災である。

震災のときの朝陽(ひょっとしたら夕陽)がなにを示しているのかはまだわからない。

でも霧の中の太陽を見て、彼女は心が止まっていた。

一瞬の表情で「心が止まる」ということを表現していた。

とても静かな、しかし圧巻のシーンであった。

また霧のシーンを見て、このドラマは、きちんと画面を見ていないとダメだと感じた。

わかりやすい事件や、スリリングな展開を見せないが、それでも見ている人を引き込むために、このドラマは細かいところを実に丁寧に作り込んでいる。

セリフに頼った展開をしていない。

そういう点では、あまり朝ドラっぽくない。

でも、上質のドラマというのは、だいたいきちんと見ていないと細かい部分が伝わらないように作られているものだ。

『おかえりモネ』はそういう上質のドラマのようである。

父との会話で慈愛の表情まで見せる清原果耶

6・7話では、下宿先に突然やってきた父(内野聖陽)との会話がある。

なぜ音楽をやめたのかという会話のときのモネがまた「無心の表情」になっていて、そのぶん強い葛藤があったのではないか、と想像させる。父も音楽をあきらめたらしいのだが、表情が豊かなのでまったく過去が気にならない。その対比がおもしろい。

モネが、父との会話から物思いにふけったあと、ふっと微笑むと、慈愛の表情になる。

父といるが父に頼っているわけではなく、それどころか「父を赦す」というような表情に見えるのだ。

なかなかにすごい。

さらにそのあと、モネは、進む道を父のように自分で決めたいとの決意を述べる。

このとき、モネの表情はとても穏やかなのだ。

強い表情ではない。

決意を語るときに表情を使わない。

ただすこしだけせつなさの浮かぶ表情を見せ、だからこそ見ているものに彼女の不安と決意が強く伝わってくる。

清原果耶の力である。

パニック状況でも表情が消える清原果耶の凄さ

9・10話では天候急変により、小学生一人とモネが軽い遭難のような状態となる。

モネは携帯電話で気象予報士と医師に指示を仰ぐのだが、この、懸命の電話をしているとき、清原果耶の表情は「無心」になっていく。

雑多な表情が浮かんでこない。

切迫した状況の18歳少女は(ドラマ設定で18歳、清原果耶本人は19歳)、こういう場合もっと悲痛でおいつめられた表情になるものだし、そういうふうに演じられることが多いとおもうのだが、でも、清原果耶はパニック状況でも表情を消してしまう。

「受け」の表情になる。

予報士や医師の言葉を「ひたすら受ける」立場の顔になる。

この瞬間の彼女の表情は、ちょっとすごいとおもった。

モネは耳がいいという設定に秘められた意味

モネはとても耳がいい。

そういう設定になっている。

1話のラジオを遠くからきくところ、4話のラフターヨガのときに遠くのカフェのおばあちゃんの声が聞こえるところ、「彼女は耳がいい」ということが示されている。

そして9話、山での天候急変のおり、気象予報士の指示で「風の向きが変わったことを音で聞き分ける」ことになる。

ここもなかなか圧巻のシーンであった。

耳がいいというのはまた、モネが「受けの人」であることを表している。

目ではなく、鼻ではなく、耳がいいのだ。

いまそこに起こっていること、自分の身体の外で起こっていることを正確に聞きわける。

それが彼女に与えられた才能である。

「自然にきちんと向き合うことができる人」として彼女は描かれているのである。

この9話での「風の向きが変わった瞬間」は、モネもすごかったけれど、それを映像で表現したシーンも見事だった。

あらためて、『おかえりモネ』は真剣に自然と対峙していくドラマなのだ、と感じ入る。

観念的な自然ではなく、いまそこにある自然を正面から細かく描いている。

とてもすばらしいとおもう。

(観念的というのは、たとえば地球環境、という言葉で語るような自然観)

受け身であることは「広い」ことを示している

ヒロインのモネは、自分から積極的に動く人ではない。

10話までは将来のことが決められなくて動けないヒロインでもあったが(10話から気象予報士をめざし始める)そういうことだけではなく、ドラマのテーマとリンクする存在として、ヒロインが受け身であることを最初から意図しているとおもう。

受け身は、悪い意味に捉えられることもあるが、この場合は逆である。

何があってもすべて受け入れることができる広い存在として表されている。

攻めてるほうが狭い。

受けてるほうは広い。

広いほうが見ていて人は安心する。

そういうものである。

朝ドラでは攻めつづけるヒロインがときどき登場するが、あれは途中でついていけなくなることがあって、そうなると後半がとてもつらくなっていく。(最近、ちょっと見かけなくなっていますが)。

受け身の清原果耶は、ときに慈愛に満ちた存在となることもある。

受けの表情で見ている者を元気にする清原果耶のすごさ

受けという態度はまた「自然とそのままに接する」ということも示している。

彼女が「耳がいい」というのもそれを表しているだろう。

起こること、やってくるもの、そういう動きを、まず、そのまま受け入れるところから始まる。

飛行機を飛ばして爆弾で雲を霧散させて天気を変える、というような無茶な積極性とは無縁である。

自然をあるがまま受け入れ、そこから判断する。

おそらく気象予報士というのはそういう職業なのだろう。

山の中に三百年育っている「ヒバの木」のようなものである。そこにしっかり存在している。でも周りを激変させるほどに動かない。強く主張しない。

清原果耶は「自然そのものの存在」に見えてくる

清原果耶がまた自然そのものであるように感じられてくる。

このドラマはどうやら「自然」と「私という意識」の対峙を描いていくのだろう。

深遠なテーマであり、また、スケールの大きなドラマである。

そしてそれは「受けの演技がとてつもなく魅力的な清原果耶」だから、心地よいドラマになっているのだとおもわれる。

彼女はたぶん「自然」に近いのだ。そういうふうに見せる底力がある。

これから清原果耶と物語に、どんどん引き込まれそうな予感がする。

見ているとわくわくするお話になりそうである。

そもそも、清原果耶を毎朝眺めているだけで、涼やかなのだ。

彼女がときに無心になっているとき(ぼんやりした表情のとき、何も考えてなさそうな表情のとき)そういう瞬間を眺めるだけで、なんだか元気になっていくのである。

無表情で人を力づけるというのは、ものすごい力だとおもう。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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