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ドラマ『ハケンの品格』に見る2007年の社会 この13年で日本は何を失ったのか

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:アフロ)

2007年1月に放送されていた『ハケンの品格』

『ハケンの品格』は2007年に放送されていたドラマである。

2020年4月から放送予定だった続編は先延ばしになり、2007年ドラマを再編集したものが放送されていた。

2007年といえば13年前である。

そんなに最近とは言えない。社会のいろんなことが変わっている。

2007年と2020年ではどんなことが変わっているのだろうか。

2007年放送当時のドラマ記録を、うちではそのまま保持している(しかもVHSである)。

そのままなのでコマーシャルもすべて録ってある(東京エリア放送のもの)。

コマーシャルは当たり前のように、とても強力に存在している。時間単位にかけられている金額がドラマなどとは桁が違っている。だから、時代の空気を的確に反映している。

『ハケンの品格』本放送2007年1月から3月の時点と、2020年4月から5月の特別編集編放送時に流れていたコマーシャルを見比べて、この13年の時代の差を見てみたい。

ここ13年で変わっていない「派遣会社」と「日本のお茶」

2007年と2020年で、まず、あまり変わってないところから見てみる。

『ハケンの品格』らしく「テンプスタッフ」のコマーシャルがどちらでも流れていた。

テンプスタッフは「派遣・人材派遣はテンプスタッフ」との広告がいまも出ている派遣の会社である。

コマーシャルでは「テンプりん」というプリンのようなキャラクターが登場して、それが2007年にも2020年にも登場した。同じ会社のコマーシャルが13年を経て流れており、そのキャラクターも変わっていないのだ。

ただ、テンプりんちゃんも2007年のころは新人ぽく、ドラマでいえば加藤あいの演じていた「慣れない派遣社員」ふうなのだけど、2020年ではマグロを豪快に釣り上げたりして、主人公の大前春子みたいである。中島裕翔が驚いている。

13年で成長したようである。

13年前と同じ人が出ているコマーシャルがもう1つ。

伊右衛門。

お茶のコマーシャルである。

いまよりきちんと13歳若い宮沢りえと本木雅弘が出ている。

この世界も変わらない。2007年も2020年も日本人はお茶を飲むのである。この先もずっと飲んでいくのだろう。

2007年も2020年も水曜10時に放送されたので、「明日のこの時間は」という番組宣伝ではどちらも「ダウンタウンDX」を紹介している。日テレ木曜10時はずっと「ダウンタウンDX」の時間なのだ。

松本人志と浜田雅功というコンビをわれわれはずっと見続けているわけである。ダウンタウンのすごいところは二人一緒にいくつも番組に出続けているところだろう。二人が一緒にいるだけで楽しい気分になってしまう。

2007年の日本も2020年の日本も、派遣社員が社会を支えて、宮沢りえが和服姿でお茶を勧めてくれ、ダウンタウンは大勢の芸能人の前でずっと元気なのだ。

そこは変わっていない。

2007年に「明日の世界を切り開く」と叫んでいたある政党のCM

ではどういうところが変わっているのか。

2007年にはこの番組のスポンサーの1つだったのが「武富士」である。

いまはもうこの社名の会社はない。

2007年にはまだ武富士のコマーシャルがあったのか、と少し驚いてしまう。

かつては大勢の女性が踊る群舞コマーシャルが有名だったが、それはだいたい1990年代のことである。

2007年の『ハケンの品格』の時点では「キャッシングセミナー」と題し、「キャッシングのご利用には正しい知識が必要です」という落ち着いた案内を繰り返している。1話から10話まで同じコマーシャルだった。

大手銀行などをバックに持たない消費者金融はやがて淘汰されていく傾向にあるのだが、2007年にはまだテレビコマーシャルを流していたのだ。

もうひとつとても時代を感じたのは2007年の「民主党」のコマーシャルである。

1話のときだけ流れていた。

小沢一郎がメインに出ている。

彼が嵐の中の帆船の舵を取っていて、そばに菅直人と鳩山由紀夫がいる。「国民の暮らしは嵐のまっただ中」というナレーションのあと、小沢が嵐に飛ばされ、菅と鳩山が両脇から抱えて立ち上がらせる。

すると空が晴れて、三人で「生活維新だ」と叫び、「明日の生活を切り開く民主党」とナレーションが流れる。

2007年1月だから、民主党が政権を取る2年半前になる。この時点では小沢一郎が党首で三人協力体制だった、ということはきれいに忘れていた。

見ているといろいろ言いたくなるが、いまとなっては斃れた小沢を菅と鳩山が支えるというシーンを見て、ただ苦笑するしかないか、とおもっている。

いまよりももっと遠くてエキゾチックだったころの「中国」

あと「中国」のイメージがまったく違う。

コマーシャルから見える中国への距離感がいまとかなり違うのだ。

どちらかというと昭和のころに眺めていた「不思議の国・中国」というイメージがまだ少し保持されている。

つまり、2007年の中国はいまほど日本と近くなかったのだ。

サントリーの黒烏龍茶、明星のワンタン麺、中国の航空会社のコマーシャルなどで中国が描かれる。

中国で撮影して(少なくともそう見えるように撮って)中国人はみんな中国語をそのまま喋っているのである。

字幕がついているものもあれば、そのまま何も解説してないのもある。

いまとずいぶん違う。

たとえば、中国人の少女が、この烏龍茶を飲めばきれいになれるのかと姉に聞いているコマーシャル、この雰囲気によく出ている。

とてもエキゾチックなのだ。

エキゾチックな演出として、現地の中国語が使われている。しかも一社に限っていない。

中国はちょっと遠い国だったのだ。

2020年にはこんなコマーシャルは製作されない。

いまは、東京にかぎらず、日本国内のいろんなところで中国人を見かける(自粛期間にあまり見かけなくなって、それが経済に影響する事態になったくらいだ)。

ずいぶん近くなった。近くなったぶん、好ましい部分も、嫌な部分もより身近に見るようになってしまっているのだろう。

いま中国語を聞いてもあまりエキゾチックさを感じない。

2007年当時、GDPつまり国内総生産は、まだ中国より日本のほうが上であった。

中国はいまほど爆発してなかったのだ。そのぶん日本から少し遠い国だった。

こういう感覚は言われないとちょっとおもいだせない。

スマートフォンが出現する前の2007年世界

そして2007年世界と2020年世界のもっとも大きな違いは、言わずとしれたスマートフォンの存在である。

2007年1月の世界にスマートフォンはまだ存在しない。

i-Phoneが発表されアメリカで発売されるのがこの2007年の6月、日本登場は2008年からである。そこから2009年にかけて広く大きく広がっていった.

だから2007年1月はまだ「折り畳み式携帯」の時代なのだ。何だか「先カンブリア時代」とでも呼んでるような感じがしてしまう。

2007年には「超薄携帯」のコマーシャルが流れているが、それは折り畳んだ状態でとても薄いという携帯電話である。いまみると意味がよくわからない。薄くしたいなら折り畳まなければいいじゃんとおもってしまうからだ。

ビデオカメラやデジカメの宣伝も盛んである。ビデオカメラは「これからはカード(SDカード)で撮る時代」だとしきりに言っている。それまではテープで撮っていたのだ。

デジタル一眼カメラは「手ぶれ補正はついてますか」と繰り返し訴えてくる。

また「iPod+iTunes」のコマーシャルもサイケな色合いで展開されている。「iPad」ではなく「iPod」である。

これらの商品そのものが、すべて2008年から出現するスマートフォンに呑み込まれていく。

薄さも、ビデオ撮影も、カメラ撮影も、音楽のダウンロードも、すべてスマホ一台で済んでしまう時代が迫っていた。

テレビで宣伝している人たちは、あまりそんなことは想像してないみたいだ。当然、それを見ていた私たちもまったく想像もしていない。でなければ一台数万円した「iPod」を複数台買ったりはしない。

いろんな存在を一挙に無意味にしてしまうモノの出現は、それ以前の生活も想像しにくくしてしまう。

スマップが並んで歌を歌っていたころ

あまり見かけなくなった芸能人も見かける。

ドラマそのものでも、松方弘樹さんは2017年になくなったし、加藤あいは、最近はあまり見かけなくなった(加藤あいの場合はもう少し先に復帰する可能性もあるけど)。

コマーシャルではたとえばNTT東日本の「光フレッツ」に出ていた講談師の神田山陽。

2000年代前半は寄席でもホール落語会でもよく見かけた神田山陽は、講談界期待の若手だったけれど、イタリアに一年ほど行ってから、見かけなくなった。少なくとも東京の寄席や落語会で見かけなくなった。いまも見かけない。

また同じくNTT東日本のコマーシャルの「卒業式もの」では、中居正広と稲垣吾郎、木村拓哉、草ナギ剛が並んで歌っている(香取慎吾くんは式場の外から何やら叫んでいる)。スマップが並んで歌っているのは2007年には当たり前すぎて何ともおもってなかった。

その気分をおもいだすと、妙な心持ちになってしまう。

まだソフトバンクの「ホワイトプラン」というコマーシャルにふつうの白い犬が出ていた。

ソフトバンクのコマーシャルに白い犬が出るのは当たり前だろうとおもわれるかもしれないが、この犬は喋らないのである。それにすごく驚く。

白い犬が、犬として、ふつうに出てきているのだ。

「えっ、犬が出てくるのに喋らないのか」と驚いてしまって、そして、犬が喋らないのに驚く自分にびっくりしてしまう。

白い犬がお父さんの「白戸家」シリーズが始まるのは、この2007年の、6月からである(つまりスマホと同時に世界に出現したのだ)。

「白い犬がコマーシャルに出てきたら喋るものだ」というのは2007年の夏以降に日本人に刷り込まれたイメージなのだ。もしそれ以前の日本にタイムスリップすることがあるなら、気を付けたほうがいい。

2007年のビデオ録画は最終話が終わったあともそのまま少し録画されていて、11時に始まった「news zero」の画像も残っていた。見てると、真ん中に村尾信尚キャスターが出てきて、そしてその横にすっと立っているのは小林真央だった。

さすがに胸を突かれた。

世界は便利になった。でも大きく変わってしまった

表面上は2007年と2020年はつながっている感じがする。

でも、中国との距離、民主党のイメージ、すべてをスマホで済ませる前の世界などを丁寧に比べると、世界の空気そのものがずいぶん違っているようにおもう。

「便利」にはなったが、「窮屈さ」も増している気がする。

自分の陣地を広げようとしたら、世界中でみんなが同時に始めたので、ただ狭くなってしまっただけ、という感じである。

また「エキゾチック」なことや「謎めいたところ」「粋なこと」のエリアがどんどん減っていっている。

たぶんみんなして一生懸命、世界をどんどん平板化していってるからだろう。それはそれでしかたない。

そうしたほうが世界がわかりやすくなり、データも採取しやすいのだ。

この端緒はたしかに2007年あたりにあるのかもしれない。

デジタル世界を推し進めるほうにいるのか、それからなるべく離れて生きるのか、まだその選択の余地はあるようだ。

平板化した世界は便利だろうけど、つるつるして危なっかしくもある。

気をつけて進んだほうがいい。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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